第四章 安堵友介 3.糸口
ドゴンッ!! と鈍い音が腹部を中心に体内で炸裂した。喀血し、床をさらに血で濡らす。
「か、は……っ」
髪の毛を持ち上げられて、視線が小柄なヴァイス=テンプレートと一緒の高さになった。彼の、真っ黒な激情で塗りつぶされた瞳が、友介に剥き出しのまま叩き付けられる。
「なあ……? どうだ。理不尽によって殺されるかもしれない——そんな時に湧き出てくる憤りは感じられたか? 『なんで自分はこんな目に遭うんだ』と。そう思ったか?」
「べ、……」
「ああっ!? 思ったかって聞いてんだ。答えろよクズがァ!!」
髪を掴まれたまま、乱暴にその辺へ投げ捨てられた。側頭部から床に叩き付けられ、激痛に身悶える。
そんな暇にも、ヴァイスは新たな魔術を使って友介を叩き潰そうとする。
大量の水塊が友介へ殺到した。
ゴロゴロと乱暴に床を転がされる友介。
「で、どうなんだ? 痛いか……? 苦しいか……? ほうら、答えろよ」
「……れ、……い、ぬ」
「あ? なんか言ったか?」
「黙れって言ったんだよ……負け犬やろう」
ブツンッ、と。
脳の中の何かが千切れる音がした。
「おいおい……」
ゆっくりと頭を振りながら右手を掲げる。上へ向けた掌の上に、彼の周囲に展開されていた七つの水塊が収束した。大質量の塊を、床を無様に這う負け犬にぶつけてやる。
「そういうのは今のお前みたいな奴のことを言うんだよぉ!!」
ッッッゴンッ!! という鈍い音が友介の鼓膜を叩いた。ともすれば、聴力を失いそうなほどの轟音。脳を揺さぶられたような感覚に陥る。
朦朧とする意識の中で、友介は漠然と考えていた。
ヴァイスの罪や、過去の事ではない。
こいつをどうやって殺そうか——その一点だけだ。
「俺は今さら、お前と分かり合おうとは思わない。お前の側に立とうとも思わないし、許してやろうとも思わない」
ピクン、と。ヴァイスのこめかみが震えた。
「唯可に苦しみを与え、あまつさえ殺そうとしたんだ。ただ殺すだけじゃ足りないくらいだ」
「……お前が、それを言うのか」
ヴァイスの表情が憤怒に歪む。
「お前の祖父が僕の家族を殺した! その血筋であるお前は、僕に大切なモノを壊されても文句を言ってはいけないに決まっているだろうがッ! 僕はそれを味わったんだぞ! ならお前も……」
「うっせえな! お前のその気持ち悪い意味不明な理論はもう聞きたくねえんだよ! 何が家族を殺されたー、だ。悲劇のヒーロー気取ってんじゃねえよこの人殺し! お前の家族なんて俺の知ったことじゃねえんだよ! はっきり言う。どうでも良いッ! お前の過去も、お前の家族も、お前の人生を狂わせたっていう俺のジジイの話も……俺には一切関係ねえ話だろうが。八つ当たりも甚だしいんだよッ!!」
「——なっ」
「鬱陶しいんだよ。関わってくんなよ。復讐だ何だというから気になって話を聞いてみれば、心底どうでも良かった。聞かなきゃ良かったぜ。興味ねえ不幸自慢されたこっちの身にもなれよ」
「————ッ」
「しまいにゃ唯可を殺すだ? お前頭に虫でも湧いてんじゃねえのか?」
ギリッ、と歯を噛む音がヴァイスの口から漏れた。もう一度周囲に水塊を展開させ、友介にぶつけようとする——その、直前。
スコン、と。ヴァイスの頭が勢いよく仰け反った。額に小さな孔が空き、そこから鮮血と脳漿が撒き散らされる。
友介が密かに構えていた右手の拳銃から硝煙が上がっていた。
「ばぁあーか。見えてなかったな」
しかし、脳天を銃弾で貫かれたはずのヴァイスは倒れずにその場で踏み止まった。ぐりん! と首の位置を戻し、憎悪の渦巻いた赤い両眼で友介を睨んだ。その額には、今さっき空けたはずの孔は存在していない。
「く……っ」
友介の額に汗が浮かぶ。間違いない。やはりこいつは……
「なんだその顔は? 分かっていたはずだろう? 僕は不死身だ」
その答えを、簡単に口にした。
「これこそが、僕が異端だと呼ばれる由縁だよ。いくら強力な魔術を使おうと、いくら騙し討ちで不意を突いても、殺せない人間相手じゃ意味がないだろう!!」
そう言って、さらに水塊を展開させようとする。
しかし……
「ごぼっ!」
突如、ヴァイスの口から血が溢れ出した。
「あ、ぐ……がっ!?」
そのまま床に膝を突き、喉を押さえ地面をのたうって苦しみ出す。
「なん、だ……?」
あまりに突然の事態に混乱した友介は、ヴァイスの銃弾を叩き込む絶好のチャンスでも動けずにいた。
(何が起きている……? あいつは今、何を……)
何かが引っ掛かった。
その引っ掛かりは、あるいは、この魔術師を攻略するヒントになるかもしれない。
そんな予感がした。
(今が……チャンスだ……)
スッと目を細め、ヴァイスを観察する。
それをマズいと思ったのか、ヴァイスがイノシシの面を取り出し、コンクリートでできた壁をハンマーのような形に変えると、それを床に叩き付けた。床がぶち抜かれる。
「なっ!?」
(こいつ、考える時間を与えねえつもりかっ!)
気付いた時には遅い。轟音が友介の耳を売った直後、全身を不快な浮遊感が遅い、一、二秒経って下の階の床に叩き付けられた。
「いってえ……っ」
呻き、立ち上がると、友介は、ヴァイスが開けた大穴を見上げた。
ヒントは遠のいた。
ただ、これだけは分かった。
「あいつの不死身には秘密がある」
いいや。そうではなく。
「あいつは、不死身なんかじゃない。何かトリックがあるはずだ」
あるいは——。
「もう、限界が近いんじゃねえのか……?」
そこへ。
「友介!」
聞き慣れた、大切な人の声が聞こえた。
☆ ☆ ☆
「唯可! お前……何で来たんだ!?」
「……はぁはぁはぁ……」
唯可は激しく息を上下させ、膝に両手を突くと、
「友介に伝えたいことがあって」
「伝えたいこと?」
友介は一瞬きょとんとした顔になって、
「まさか、あいつの不死身のことか」
「うん」
ようやく息が落ち着いてきたのか、彼女は姿勢を正して友介の顔を真っ直ぐ見つめると、
「——ッ」
顔を赤くして、ブン! ともの凄い勢いで顔を背けてしまった。
「ん? どうしたんだ」
「いや、その、ええと……。何て言うか……」
『俺は唯可が好きだ』
「っ」
「?」
「えと、あの……さっきの今で、その心の準備っていうのかな? とにかく……えっと」
『唯可を失いたくな俺自身のために、持てる力の全てをぶつける!』
「っ!」
「だから何だよ……って、……ま、さか……」
そこで友介はハッとしたよう表情になり、
「ヴァイスの不死身の秘密が、攻略不可能なほど絶望的なものだったのか……?」
顔を青くして唯可に詰め寄った。
「なっ、なんでそんな発想に……って、ちょっ、きゃ! ゆ、うすけ……近い……っ!」
そしてようやく、唯可は気付いた。
友介の体が、使い古したボロ雑巾のように傷だらけになっていることに。
瞬間、恥ずかしさから真っ赤になっていた顔が青くなった。
「何でそんなになるまで戦ってたのさっ! 何で逃げなかったの!?」
「に、逃げられなかったんだよ……そんなに怒んなよ」
「怒るよ!」
目に涙を浮かべ、唯可は犬歯を剥き出しにして友介の襟首を掴んだ。
友介はその剣幕に押され、仕方なく謝った。
唯可の機嫌が一段落すると、話を本題に戻す。
「で、あいつの不死身について分かったのか?」
「ううん……微妙……」
「…………」
「そ、そんな目で見ないでよ……」
唯可が居心地悪そうにモジモジした。
友介はしばらく胡散臭そうな目で唯可を眺めていたが、やがて軽く息を吐くと、
「まあいいか。俺の考えも聞いてもらいたいしな」
「友介の考え……?」
「ああ」
友介は軽く頷くと、
「一つ聞きたいんだが、あいつの魔術って何なんだ? 神話級って言ってるからには、やっぱり何かの神様と同じ力を持ってるのか?」
「いや、そんなことはないよ」
友介のその問いを、あっさりと否定した。
「確かに神話級の魔術って威力が凄いけど、別に神様の力をそのまま振るってるわけじゃない。厳密には、神様の奇跡の一端を操ってるの。神様の力のほんの少しだけを実現してるだけ」
「で、あいつの魔術はどの神様なんだ?」
「インド神話の維持神ヴィシュヌ」
聞いた事がない神様だ。だが……
「ヴィシュヌってのは、あんなにいっぱい能力みたいのを持ってるのか?」
「うーんとね」
唯可は腕組みをして、
「詳しくは省いちゃうけど、その通りだよっ。化身っていう伝説通りの力を使ってるなら、ヴァイス=テンプレートは十個の異なる魔術を使えるはずなんだよねー」
「十個……?」
友介はその言葉に、違和感を感じた。
「待て待て。あいつは十種類も魔術を使ってねえぞ」
「へ?」
唯可の間抜けな顔に苦笑しそうになるのを堪えながら、
「水塊の魔術、竜巻の魔術、岩やコンクリートで物体を作る魔術、怪力の魔術、チャクラムのヤツとか、変な蟲攻撃……あと幻みたいなのを見せられたのも入れても、せいぜい七個だ」
「え、七個だけ?」
コクン、と友介は簡単に頷いた。
「あいつは色々な面を持ってた。多分、同じヤツを何個も持ってるんだろう。でも、その面の種類も、魚、カメ、イノシシ、獅子、真っ黒な面と真っ白な面の六種類だけ」
もちろん、彼が他にも面を隠していて、真の力を出していない可能性もある。
「……」
唯可は何かを考え込むように顎に手をやっていた。
————と。
「あ、がぅあ、があああああああああああっ!」
上の階から絶叫が響いてきた。ヴァイス=テンプレートのものだ。
「あいつ……まだ苦しんでたのか……」
「あれ、友介、やられてるだけじゃなかったのっ?」
「いや、ちげえよ。さっき頭をぶち抜いたんだ。そんであいつが蘇って、魔術を使おうとした時……」
突然喀血し、苦しみ出した。
「ありゃ一体……」
「そっか」
「?」
唯可が何かに気付いたような声を上げた。
同時、大穴の向こうから大量の水が落ちてきた。
「なん……!?」
「魔術を……妄想を……制御できてない……?」
「逃げるぞ!」
とっさに唯可の手を引き駆け出す。扉を蹴破り、部屋の外へ出る。
「それで!? 何に気付いたんだ!?」
「あの魔術師の命は多分ストック制なんだよっ」
「ストック……?」
「うん」
唯可は再び息を上下させながら、
「あの人、何回も変なこと言ってなかった?」
「変なこと……?」
「うん……体を乗り換えたとか、八十年生きてきたとか……」
「——あ」
ようやく気付いた。
そうだ。あの過去の話だってそうだ。五五年前だと? そんな昔の話をしているのに、今、あんな子供の姿のはずがないだろう。
それに、さっき見せられた地獄の映像だってそうだ。
あれは、おそらくヴァイスの記憶だろう。それなのに、視線の高さがどう考えても子供のそれとは違った。
「四年前のあの人がヴァイス=テンプレートなのだとしたら……」
ヴァイスは少なくとも二回は体を乗り換えているだろう。
さらに言えば、彼は神話級魔術師なのだから、寿命の減り方は規格級魔術師や伝承級魔術師とは比較にならないその平均寿命は二十五歳。二十歳を超えることなく死を迎える人間も少なくない。
それなのに……
「確かに、八十年なんておかしいな」
つまり、彼自身の言動と照らし合わせると、おそらく五回以上は体を取っ替え引っ替えしているだろうということ。
「んで、それがどう関係あるんだよ」
「ここからは完全に憶測なんだけど……」
「ああ、言ってくれ」
唯可は少しだけ覚悟を決めるように間を空け、
「多分、あの魔術師は乗り換えた体の数だけの魔術と、命のストックを持ってるんだと思う」
☆ ☆ ☆
「が、ぐがっ……はぁ……はぁ……づ!」
血管にぶっとい針を差し込まれたかのような激痛が全身を襲う。
「ぎ、ぃいあ……がばぁああっ!?」
脳がどくん、どくんと脈動し、視界が赤く染まっていく。平衡感覚が失われ、自分が立っているのか、座っているのか、寝ているのか、それすらも判別することはできなかった。体内で鳴る、臓器が動く音や骨の軋む音が聞こえてきている気がする。
端的に言って、今、ヴァイスは自分の魔術を制御することができていない。
彼が扱う『化身』の魔術の数は六つ。これは、彼が『生け贄』の魔術によって得た命のストックの数である六つと一致する。
この数の一致は決して偶然などではない。
神話級魔術のような大規模かつ高威力の魔術は、人の寿命をガリガリと削ってしまう。よって、一つだけで神話級魔術に匹敵するような『化身』の魔術を、人一人の命で使うことなど不可能なのだ。
だが、すでに命のストックは残り四つとなってしまった。
これでは、どこかに無理が生じてしまう。具体的には、身体に重大なダメージが蓄積されていく。
当然、すでに完成させて自分のものとしてしまった魔術を忘れることなど不可能だ。
魔術を使わなければ良いというわけでもない。生きているだけで、魔術はヴァイスの体を蝕んでいく。
(あっちに戻れば……は、あっ……、すぐにでも体が用意されるだろうが……)
そうすれば、安堵友介を殺せない。この事態を重く受け止め、どこかへ雲隠れでもされたら終わりだ。
ようやく見つけた獲物なのだ……逃がしてなるものか。
「出て来い……」
ずるずると。体が粘液のように溶けているような錯覚に陥る。
それでも、止まらない。
復讐のために。
弔いのために。
なによりも、償いのために。
愛した家族を。彼らの顔を忘れてしまったその極大の罪へのせめてもの罪滅ぼしとして、彼は叫んだ。
「出て来い!! 安堵友介えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッッッ!!」
☆ ☆ ☆
「ストック……?」
ある程度逃げて落ち着いた所で、友介と唯可の二人は壁に背を預けて座っていた。そうしながら、友介は疑問から怪訝な声を出した。
「ストックってどういうことだよ」
「つまり、彼は命をたくさん持ってるの。もっと簡単に言えば、生きた体をたくさん持ってるって言った方がいいかな」
「悪い……何が何だかさっぱりだ」
友介はこめかみを人差し指で軽く揉みながら何かを考えるように目を閉じる。
その様子を眺めながら、さすがに表現がストレート過ぎたかと思った唯可は、こほんと軽く咳払いすると、
「うんっと……。さっきまでの説明の、体を乗り換えたっていう所までは分かった?」
「ああ。具体的な方法までは分からねえが、現象だけならな」
「おっけー。じゃあさ、一つ聞きたいんだけど、あの魔術師の使い終わった体って、一体どうなってると思う?」
「? 死んでんじゃねえのか?」
「それだとヴァイス=テンプレートも一緒に死んじゃうでしょ? 今彼が私達に牙を剥いてきてるってことは、少なくとも死んでないんじゃないかな」
「確かに……。いや、でも待てよ。あいつには命のストックがあるじゃねえか。だったら、死ぬたびに生き返るんじゃあ……」
「そんなことしたら、命のストックを自分で削っちゃうじゃん。せっかく溜めた命を寿命程度で消費するような馬鹿な魔術師だと思う?」
「……思わねえな」
「でしょ? つまり、あの魔術師は寿命で依り代が死ぬ前に、違う体に乗り移ってると思うんだよ」
確かに一理ある。というか、その可能性が一番高い。……もっとも、他の可能性など一つも思い浮かんではこないが。
「で、それが命のストックにどう関係するんだ? ただ体を乗り換えただけで、命ってのは増えるのか?」
「ううん」
友介の問いに、唯可はゆっくりと首を振った。彼女は視線を下へ落とすと、震える声で答えを告げた。
「『生け贄』の魔術」
「……っ」
その不穏な響きに、友介は僅かに息を飲んだ。
「友介もさすがに知ってるでしょ? 伝承とかでよくある、村で小さな子供を生け贄にして神様の怒りを鎮める儀式……。それを応用したものを使っているんだと思う。無抵抗な……というより、自我のない人の体に無理矢理契約を結ばせて、自分が死んだ時に身代わりにしている」
魔術師には『生死』を操作することはできない。だが、誰かを身代わりにする魔術ならこの世にごまんと存在する。見せ方によっては、まるで『生死操作の不可能』を克服した、不死身の化物のようにも見せることができるだろう。
しかし。
しかし、だ。
「ちょっと。待て……」
友介は思わず唯可の肩を掴んでいた。
「じゃあ何だ……? あいつは人の体を勝手に奪い取った上に、用済みになったら、それを身代わりにしてるっていうのか……? あいつは……」
「……」
こくん、と。僅かに首を縦に振った。
「俺を殺すためだけに、何の関係も無い人間を使い続けてんのか……?」
それは。
その執念は。
友介には全く理解できなかった。
友介は、どちらかというと悪人に分類される人間だ。空夜唯可を守るために魔術師を殺そうとしているし、四年前だって、助けを求める少年を見殺しにした。
だが。
ヴァイス=テンプレートは、そんな自分が霞むほどの邪悪であるような気がした。
根本的な、『人の命を奪う』という点においては何一つ違わないのに。
(一体……何があいつをそこまで……?)
分からなかった。
復讐だけでそこまで変われるものなのか? 人は、腐ることができるのか?
友介には、どうしてもあの魔術師が受け入れられなかった。
「とにかく」
友介は自分の中のスイッチを切り替えるように、無理矢理話題を変えた。
「あいつの蘇生のカラクリは分かった」
ベルトに挿していた二丁の拳銃を引き抜き、友介は立ち上がった。
「あいつが不死身なんかじゃないことも。あいつを殺し切ることができることも」
天井を見据える。
「じゃあここからは反撃だ。お花畑が展開されてる頭に鉛玉をぶち込むぞ」
☆ ☆ ☆
迷いはなかった。
あの男に全てを奪われた瞬間に、正義や罪悪感といった復讐の邪魔になるものは全て捨てた。だから、あの少年を殺すことにも躊躇はないし、彼の大切な少女を壊し尽くすことを躊躇いもしない。
ただ。
それは、家族の顔を忘れてまでするべきことだったのか?
ただ一つ。
その疑問だけが、ヴァイス=テンプレートの中で五十年の間渦巻いていた。
迷いと言うほどのものではない。引っ掛かり程度のもの。こんな考えは無駄だと、そう切り捨てることも難しくない。
だが、捨てられなかった。
最初は、あの男を——全ての元凶である安堵陽気を殺したときだった。
血の滲むような努力と、あらゆる雑念、欲望、希望を捨てて『異端』へと上り詰めた。
そして。
滝のような雨の日。
奴の心臓を貫き、頭蓋を砕き、体をぐずぐずに溶かし、精神をボロボロに壊して。そうして、ようやく最初の復讐を終えて、愛する妻や息子、娘の顔を思い出そう賭した時、ヴァイスは彼女達の顔を思い浮かべられなかった。
その時に思ったのだ。
——ああ、下らない。
——全く満たされない。
——これだけやっても、みんなと会うことなんて出来ないのだ。
——だったら、この行為に意味があるのか?
——愛する人達の顔を忘れてまで、こんな事をする必要があったのか?
と。
けれど、だからといって止まることなんて出来なかった。
『安堵』の血がこの世に存在していると、同じ世界の空気を吸っていると考えただけでも、体中に鳥肌が立った。
怖気のようなものが総身を駆け巡り、立っていることすら不可能にさせるのだ。
ぶるぶると、極寒の地に肌着一枚で放り出されているかのように寒気が全身を覆い、震えてしまう。
武者震いなんかではなく、抗えないものへの恐怖のようなものによって、食事すら取れないほど震えてしまうのだ。
生理的に受け入れられない。
だから、今も。
ずっと。
目の前に立つそいつを見ただけで。
怒りと恐怖でない混ぜになった震えが止まらない——。
「安堵……友介……」
「苦しそうだな。いいザマだ」
余裕ぶって言っている友介だが、分かりやすく体がふらふらと左右に揺れていた。全身に血が付着していて、まともに立っているのも不可能なほど満身創痍な有様だった。後ろで彼を支えている魔女がいなければ、いつぶっ倒れてもおかしくないだろう。
二人の悪人の視線がぶつかる。
そこにどんなやり取りがあったのか。あるいは、そもそもやり取りなどなかったのか。
ともかく。
何の合図もなく、二人は激突した。
ヴァイスは暴走する水塊を無作為に撒き散らし。
友介は両の拳銃の引き金を何も考えずに何度も引いて。
轟音と共に、決着が付いた。




