第八章 今は語られぬ、赤い涙 ――Holocaust―― 4.■■■■■の■■■
楽園教会へと身を寄せてから四年が経ったある日。
その日カルラは、銀髪の男に呼ばれ、円卓や玉座のあるあの部屋へと招かれていた。
扉を開き中へ入ると、相も変わらず気持ちの悪い彩りが広がっていた。床も壁も天井も、部屋の中央にある円卓に至るまで、視界に映るほぼ全てが黒と白と灰のマーブル。上座にある五つの玉座のうち、四つの玉座だけは銀、紫、黒、白と異なる色を主張していた。
そしてそのうちの一つ――銀色の玉座に、その男は優雅に座っている。
楽園教会が五の主柱たる葬禍王、その一柱――『統神』コールタール・ゼルフォース。
禍々しい印象を与えてくる隻眼を細め、雅に笑う男は歌うように口を開いた。
「久しいな、風代カルラ。貴方と会うのは四年ぶりか?」
「はい、陛下。お久しぶりです」
「デモニアの元にいたと聞いていたゆえ、その精神が壊れていないが心配ではあったのだが、息災そうで何よりだ」
男の言葉は飾りではない。確かにカルラを慮っている色が伺えるのだが、しかしそれと同時にどうしようもなく割り切ったものでもあった。
心配はしていた――しかし、だからといってそこから助け出す気はない。
「今日、貴方をここへ招いたのは、正式に仲間として迎え入れたいと考えたためだ」
投げかけられる言葉の内容は、言ってしまえば悪魔の契約と大差ないものだ。
「枢機卿――貴方は今より、その地位を得た。第一神父――」
それは刻印であり、聖痕であり、契約。
「即ち、貴方は晴れて同志となったのだ。二つ名を我が怨敵から預かっている。曰く、『鏖殺の騎士』。嫌味で満たされたが如き悪趣味な名だが――」
しかしカルラは、銀髪の秩序の祝福も、その怨敵が考えたという二つ名にも、何ら感動も感情も示さない。
当然だ。
彼女は己を守り続けてくれた兄ともう二年以上も会っていないというのに、哀愁も寂寥も覚えていないような無機質な人間なのだから。
その程度の些事が、少女の心に波紋を起こすことなどありえない。
「――そうだったな、カルラ。貴方はそうした情動を持たないのだったか」
緩やかに息を吐き、彼は立ち上がった。上座を降り、カルラの正面に立つと、膝を折り目線を合わせる。
「なれど、それは悲しきことだ。カルラ、願わくば俺は、貴方にも希望の光がその胸に宿らんことを祈るよ。いつの日か、貴方の運命も背負い、そして必ず救うと誓おう。もっとも、貴方を利用している俺が言えた義理ではないが」
「はい」
「相も変わらず自明、か」
銀髪を優雅になびかせ、男は自席へ戻る。
「俺からは以上だ。カルラ、貴方から語るべきがないのなら下がっても良いぞ」
声音は優しい。そこに含まれているのは慈愛や信頼――総じて彼女を慈しむ想いであり、綺麗な感情だ。
特に語ることも尋ねることも持たないカルラは、一礼すると踵を返し、その場を後にした。
誰もいなくなった部屋で、秩序の覇王は小さくつぶやいた。
「貴方もいつか真実を理解する日が来るであろう。その時の苦しみは計り知れん。
カルラ、貴方は我が理想の礎となった被害者だ。
ゆえ――いつの日か必ず楽園を創世し、貴方も救うと此処に誓おう」
☆ ☆ ☆
コールタールとの謁見を終えてからも、カルラが何かを特に感じている様子はない。
いつもと同じ。死んだように生きて、生きている誰かを今日も殺すのだろう。
今日はの実験はどんな内容になるのだろうか。ここ最近は多対一でも難なく対処できるようになったし、直感で殺意や害意を感じ取れるほどにまで成長していた。
カルラには知る由もないが、これは一種の進化に近い。
異常な環境に乗じ放り込まれていたことにより、彼女の身体がそうした以上環境に適応し変化したのだ。
分かりやすい事例で言えば、水泳の選手の手に小さな水かきができるようなものだろうか。
彼女の場合、死の淵にいたことにより、それがより生存に必要な方向へと尖ったというわけだ。
『五感拡張計画』第六被験者、風代カルラ。
その実験は『騎士団計画』と称されていたが、楽園教会の描画師たちは皆『鏖殺の騎士計画』と呼んでいる。
その違いが何なのか――それをカルラは知ることはない。
いずれ知ることになるのだろうが、今の彼女にとってしてみればどうでもいいことだった。元より好悪を初めとした心の機微など存在しないのだから、
何はともあれ、実験は成功に向かいつつあった。カルラの第六感はその形を明確なものへと変えていき、人類の範疇から逸脱しつつあったのだ。
「あ、あの――」
不意に背後から声を掛けられた。
耳にたこができるほど聞いた少女の声だ。感情の振れ幅が小さく、何を考えているかは分からないのに、なぜかあたたかい。やらかくて、触れれば壊れてしまいそうなのに、カルラのものとは違って芯が一本通っている声。
「あの、こんにちは」
「? ……こんにちは。何か用かしら?」
振り返れば、そこには花のような笑顔を浮かべる少女がいた。本来ならばあまり感情を表に出さない、ただカルラに殺されるだけの人形だというのに、この日ばかりはまるで平凡な少女のように笑っていたのだ。
だからカルラは、最初その少女が自分が殺している少女たちと同一の容姿をしていることには気づかなかった。
事務的に尋ねるカルラに、少女は嬉しそうな声で応える。
「お話ししましょうっ」
「うん」
こくり、とカルラは首を縦に振った。
「そうだなあ、まずは……あなたは、だぁれ?」
「なに……? ……風代カルラ」
「そ。わたしはね■■■■っていうの。これからよろしくねっ」
その中にあった感情は、おおよそ自分のクローンを殺した人間に対して抱く類のものではなかった。
当たり前だ。
クローンとは己を殺し続けた人間で、近い未来には彼女自身もカルラによって屠られるかもしれないのだ。
だというのに、少女は心からカルラと仲良くなろうと近づいてくる。まるで彼女のことを慈しみ、愛しているかのように。
そう――インプットされていた。
だが、カルラはそんな裏の事情を感知していない。特に疑問も覚えずに自身の隣に置いてから、二人はしばらく雑談に興じた。
もっとも、カルラの方は既に知られている通りのため、会話が弾むことなども特にない。
しかし――本来ならばそれは、とても嬉しいことであるはずだ。
引き取られたこの建物で、カルラは一人きりだった。時折兄が部屋に顔を出すこともあったが、二年前からはとんと来なくなって、今では何をしているのかも知らない。そんな孤独の中で、毎日大きな刃物を振り回しながら人形を切って行く。
だから、こうしてカルラと当たり前のように会話をするだけの女の子というのは、本来ならば地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようなものだった。
実際、カルラ以外の当たり前に感情を持つ少女がこの立場にいたのならば、心の均衡を保つために彼女と絆を築き、親交を深めていたはずだ。
彼女は初めて友達になってくれるかもしれない存在だったのだ。
なのに――
殺した。
殺していた。
ぬいぐるみを貸してあげると言って、隣に座らせて一緒に遊んだことは覚えている。
好きなものはお人形らしくて、嫌いなものはピーマンだとかいう話もしてくれた。
だけど――
十分くらい経ってから、不意に近くにあった愛刀の柄を握ると、刃を抜き払ってその胸に刺していた。幾千回と感じた、刃物で肉を貫き抉る感覚が手のひらに返ってきた。
女の子は悲しそうな顔で「なんで?」と言った。
「だって、そうしないとだめなんだもん」
それがカルラの答えだった。
無機質な氷ような声。合理的な返答は、コンピュータが弾き出した状の欠片も存在しない、冷た解だ。
「ともだちに、なりたかった、だけ、なのに……」
そう言って、女の子は涙を流している。
たとえインプットされただけの借り物の感情でも。
その願いが、人から無理やり与えられただけのものだったとしても。
その女の子がカルラと友達になりたいと願っていたこと、そのものは真実だった。
その健気で可愛らしい、当たり前の感情は嘘ではない。与えられたのだとしても――貰った後は自分のものだった。偽物でも役割でもなんでもなく、心の底から風代カルラの隣に立ちたかった。
だけどそれは叶わない。
願いを得たというのに、他の少女たちと異なる結末を迎えることもなく、クローンの少女は涙を流して永劫の暗闇へと落とされた。
風代カルラは、部屋の中でそれを無感動に見下ろす。
夕食を届けに来るデモニアが来るまでそのままにして、少女はいつも通りの生活を始めた。
☆ ☆ ☆
そして、さらに一晩明けた。
カルラは常と変わらず、実験室へと向かう。
純白の大部屋。刃の砥ぎ場にして、己が感覚を尖らせる
だが、昨日と異なりこの日もいつもと様子が違った。
「…………」
いくら待っても殺害対象の少女が来ない。いつもは床を割って現れる感情の乏しい少女たち。カルラと似た、自我の希薄な少女たち。デモニアに与えられた命令をただ忠実に遂行する人形。
「……」
とはいえ、カルラがそれを疑問に思うことはなかった。
今日はまだ来ていない。
ただその事実があるだけ。
少女は、ただじっとその時を待った。
変化があったのは、定刻から二十分が経った頃。デモニアがいつもの如く、スピーカーを使い、部屋にいるカルラへと話しかけた。
『あーあー、聞こえるか人形女』
「はい」
『よーしよし』
カルラは常の抑揚のない声で返す。
対してデモニアの声は、どこか弾んでいた。
不吉な声音だが、少女がそれに気付くことは出来ない。
『すまねえな。ちょっと連絡すんの忘れてたわ。今日はちと違う場所で実験してもらう。ついて来い』
告げられた言葉の後、大部屋の扉が開き、金髪の男が着いて来いとジェスチャーで促した。
歩き出すその背中へ付いて行く。その口が、邪悪な三日月に裂けていることにも気付かずに。
☆ ☆ ☆
靴が大理石を叩く音が廊下に虚しく響き渡っている。
上下左右、流れる景色は黒と白と灰のマーブル。混沌を現したかの如き奇怪な紋様は、心ある者ならばよほど強い心を持たない者でもない限り、気が狂って叫び散らかしてしているところだろう。
だが、今ここを歩いているのは毒の心を持つ邪悪と、心を持たぬ鏖殺の騎士。
一人は微笑みを湛えながら、一人は無表情でただ淡々と。
廊下に漂う空気は、まるで泥のように濁り、そして全身にまとわりつくようだ。空気に触れている皮膚が一秒ごとに腐っていると錯覚する。
いいや。あるいはそれは、錯覚ではないのかもしれない。長い廊下を十分ほど歩くと、実際に腐臭が漂い始めたのだ。
糞尿を処理せず放置したとしても、脳を刺すが如き悪臭は漂うまい。
「気になるか、この臭いが」
「別に」
じジ。
「そうかそうかァ。気にならねえかア」
振り返り、少女へ向けた満面の笑みは、悪魔のそれだ。
「なら、そのままでいい」
絶頂に達しているかのようにぶるぶると歓喜に任せて身を震わせるその男に、少女は断固として無表情を貫いた。
その様を見て、やはりデモニアは笑っている。
ジジじ、じジじじ。
「――――」
歩く速度は依然として変わらない。二人は一定のペースで廊下を進む。より腐臭の強い方向へ、より邪悪が濃い方向へ。
直進しているというのに、地獄へ下っているかのようにすら思えてくる。
この先に奈落があると。
少女はそう予感していた。
じじジジジじジジジジジジジジじじ、じじジジじジじじ、ジ、ジ。
……何かがおかしい。
決定的な『ズレ』が、生じているような。
一定の響きに変化はなく、ゆえに二人の会話にも意味はない。中身のない、下らない世間話が続いて行く。
「なあ人形女。お前は今まで、人を殺し続けてどうだった?」
「どう、とは?」
「だあ、馬鹿かテメエ。実験の成果だよ。ったく、何を疑問に思うことがあるんだ?」
「順調。第六感は着実に身についている。死角からの攻撃は当然、殺意を極限まで薄めた攻撃も回避するのは簡単」
騎士団計画により、少女は確実に人間を超越し始めている。その反応速度は尋常ではない。
微弱ながらも常に殺意に晒され続け、常に殺し合いの最中にいた少女の脳は、その生命機能を守るために進化を繰り返していた。
風代カルラという少女が心を持たぬ合理的な存在であったことも幸いしたのだろう。生存本能の赴くままにその肉体と脳髄は進化を重ねた。魔術という反則は使わず、なおかつ機械で体を弄ることもせず、ただ環境に適応した上での成長。それはヒトという種が、階段を一つ上ったということ。
しかし、デモニアにとってはそんなことはクソほどどうでも良かった。塵の価値もありはしない。人間だろうが進化種だろうが、等しく玩具。そこに何の違いもないのだから。
「ささ、ついたぜレディー」
キチキチとどこまでも生々しい笑みを浮かべるデモニアを見ようともせず、少女は扉に手を掛けた。
扉は鉄製だ。表面が錆びているため、手を擦れば怪我では済まぬだろう。
腐臭は確かに扉の奥から。この向こうで今日は実験をやるらしい。
あまり気は進まないが、しかし……仕方ない。彼女はただ合理的に行動するだけだ。
じジじじジジジじジジっ、じジジジジじじジジジジジジジ、ッジじじジジじじじじジジ、じ。
ジジジジじじじジジジじジジじジじじっジジじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじじっじじじじじじじじじじじじじじじじじじっじじじじじっじじっじじじじジジじじじジジジジジジじジじじじじじじジジジジジジジ、ッジじじジジじじじじジジ、じジジジジじじじジジジじジじじじじじじじじじじじじっじじじじじっじじっじじじじジジじじじジジジジ。
何かが、鳴っていた。
ただし、少女の脳にそれを理解する機能はない。
それが何の音なのか、全くもって分からない。
解析不能、意味不明。エラー、エラーエラーエラー。
少女の表情に変化はない。その面貌には些かの変化はなく、感情の色は一つとして存在しない。瞳孔は正常。心拍数に異常なし。
「何してんだよ。早くしろや。トロトロすんなよ」
「了解」
逡巡無く答える。答えてしまう。
常人ならば避けるべき事態。逃げるべき場面。全てを投げ出し、無様に泣き喚きながら、それでもなお自己を保つために全力でこの場から離脱すべきなのだ。
だが、重ねて言おう。
風代カルラには、意思がない。感情がなく、心が無い。全てが自明であるから、少女は命じられた行動を躊躇いなく行ってしまう。
そこに迷いはなかった。
地獄の釜の蓋が開いた。
赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。
全てを塗り潰す赤色に少女の全てが塗り潰された。
目の前に聳え立つのは、十メートルはあろうという赤い山だ。
「これが何だか分かるか?」
軽薄に笑いながら、それら赤い山を指さすデモニア。腐臭もこの山から出ているらしく、カルラは僅かに顔を顰めた。
山の正体は、大量に積み重ねられた肉袋だ。物言わぬ無数の肉塊が、何ら適切な処理もされないまま、こうして無造作に積み重ねられ、その果てに見上げるほどに巨大な山となったのだ。
その構成要素……つまり肉塊の正体は、皆が一様に同じ顔を持った無垢なる少女。
風代カルラが殺してきた少女たちだ。
だから、カルラは当然即答する。
「私が殺した人たち」
「そうだ」
デモニアの声は楽しそうだ。まるでこの時を待っていたと言わんばかりの、満面の笑み。人を誑かし、堕落させる聖書の悪魔ではない。悪辣なる魔物。人道から外れた化外。比喩としての悪魔。『邪悪』の擬人化。
だが、だからと言って少女が嫌悪感を覚えることはない。
目の前に広がる死体の山を見ても、少女の心はピクリとも動いていない。
微かに胸の奥が、脈打つだけだ。
「……? ???」
奇妙な感覚が胸の奥にあるが、しかしどうでもいいだろう。
初めて己の体を襲う違和に戸惑いつつも、少女は毅然と立つ。
「さァて、さて」
声が聞こえた。背後から。
悪魔の声が、耳朶を打つ。
「じゃあ、始めるか」
何を? 声は出ない。引き攣るだけで、声帯が震えない。
「?」
少女は首を傾げた。
自分の体が上手く動かないことに、疑問を持ったのだ。
疑問、疑問……疑問?
なんだ、疑問だと???
どういうことだ。
風代カルラに意思はなく、彼女は自我を持っていない。
ならば、体が上手く動かない程度のことで、何の問題があろう。そんなこと、疑問に思う必要もないのだ。
ではなぜ己は今疑問を抱いたのだろう。分からない。
というか、そもそも、そうした全てに疑問を持つこと自体がおかしい。ここに来たのは何のためだ?
そう、実験をするためだ。
ならばそれ以外のことなど考える必要がない。疑問も不安も、そもそもいらないはず。
やることは決まっている。ならばそれをやるのみだ。
……いいや、待て。
なんだ、これは。
今、この胸の内ではいったい何が渦巻いている?
何だこの混沌は?
混沌? いいや、そんなものがどこにある? それを自覚する機能はないはず。
……なに?
なに、なに……?
なに、よ、これ……
待って、待って待って待って待って待って待って、待ってよ。
嘘、何これ、こ、ここは……
おかしい、今までと何かが違う。
小さな違いだ。注意しなければ気が付けないほどに微細な異変。けれど、決定的にこれまでとは異なる点。
まるでレールが切り替わるかのように、当たり前のように正しい方向へと進んでいく少女。
その正しい道を進んでいることそのものに疑問を感じる。ありえないだろう、おかしいだろう――こんなにも気持ちの悪いものを持っているのに、自分が確かに正しい方向へ向かおうとしていることが分かる。
動悸が激しくなり、頭の中からトンカチで頭蓋骨を叩かれているかのような激しい頭痛を覚え始める。
意味の分からない言葉が喉元から暴れ出そうとしている。
本来ならばもっと早くに口にしておくべきだった当たり前の問いかけで、今この場では少女を致命傷にする鋭利なナイフそのものだ。
それを口にしてしまえば何もかもが手遅れとなり、未だ決定していない事象を完璧に固定してしまい、全ては地獄に変貌する。
分かっている。そんなことは誰に言われるまでもなく、己自身の頭で理解している。
だが、かつてギリシアで、絶望の詰まった匣を空けてしまった女の話からも分かる通り、人は破滅の持つ魅力に逆らうことができない。
それはさながら誘蛾灯。逆らうことのできないどこまでも甘美な引力をもって、矮小な人を寄せ集めては片っ端から焼いていく。
戻れ、戻れ――今すぐこの意味不明な思考をやめて、これまで通りの自明な存在、いつもと同じ木偶人形へとなり下がるのだ。
己の時間を巻き戻せ。引き返せ、それ以上行くな。その先は地獄よりもなお壮絶な奈落だ。
ゆえに思考を止めろという、矛盾した脳の命令に従おうと、目を閉じて耳を塞いで、そして何も感じないマネキンへと戻ろうとしたときに。
「んで、聞きたいんだけどよ――」
丹念に仕込んだ毒に、触媒が垂らされた。
「――お前はだれだよ」
そして、丁寧に植えつけられていた毒が、弾けた。
「私は、だれ……?」
それは――
「え?」
――産声だった。
「な。ぁ」
頭蓋の奥で。
パチン、と何かが接続されたような音が鳴る。
脳に設置――否、造設されていた小さなスイッチが、ONへと切り替わり。
何かの回路が繋がった。
撃鉄が下りた。
この瞬間。
『風代カルラ』は、生まれた。
そして。
「あ」
意思の獲得。
「ああ」
自我の発生。
「あ、ぁ」
感情の成立。
「ぁああああ、あ。ああああああ……あああ、あああああああああ。ああああああああ! ――――」
心が、少女の胸に去来する。
これまでの全ての『記憶』が『思い出』へとその在り方を変えた。
十二年の記憶が、ようやく少女の心に追いついた。
「あああ、ああああああ! ああ、っ、あああああっ――、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――っッッ!?」
産声は、喉と命を削る金属を引き裂いたかのような絶叫だった。
心の全てがどす黒く塗り潰される。
全てが克明に、今この全身へと刻み付けられた。
生まれてから八年間の家族との思い出。ケーキを分けてくれた母、頭を撫でてくれた父、そしてずっと守り続けて来てくれた兄。
そう、最初に胸を満たしたのは優しい光景。暖かな日常と美しい景色。
それら全てが――一秒とせぬうちに、真っ赤な極彩色の絶望で塗り潰された。
殺した感覚が蘇る。四年間殺し続けた。飽きることなく、五千人以上もの人間をこの手で斬り殺した。
その感触が、全てこの手に蘇る。四年分の罪業を、無理やり刺青を入れられるかのようにして身と心と魂に焼き付けられた。
絶叫が叫喚が断末魔が命乞いが、少女の耳朶を叩いているかの如き錯覚。
『助けて『やめ『殺さな『怖い』何で』い『まだ殺すの!?』『死にたくな『怖い』やだ』あああああああああああ』『来ないでッッ!』『ひぃいい『お兄ちゃん、お兄ちゃ『命だけは』『死にた『どう、して』『して……?』『、あ』『『『そんな、ひどい『人殺し!『悪魔ッ!』『あなたは生ま『友達になりた『れて来ちゃだ『ああ『めな『忘れないで『忘『痛いれな『たい『いで『忘れないで『忘れない『やめ『で『忘れ『また死のは『ないで『で『で『で『でで』『あああ『ああああ『あ『ああ『『あ『ああああああああああ『ああああああああああああああ『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ違う違うの違うの、違うッッッ! こんなの、こんなの違うわよぉ! 違うの、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うッッ! 知らない。知らない知らない知らないッ! 私は、違うの、私じゃないッ!! 嫌だ、ご、あ。ああああああああ……ごめん、なさい。違うの、本当に、おねがい、ゆるして、こんなはずじゃなかった。ちがうの、ちがう……ゆるして、許してよお……、あああ。あ……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
ごめんなさい。
カルラは必死に許しを乞いていた。
求めてしまった。
今しがた手に入れた心が、悲痛なほど叫んでいるのだ。
だが。
――許されるわけがないだろう。
――甘えるなよ、この人殺し。
――たとえ自我が薄かろうと、彼女には確かに命があった。
――お前はそれを、何千と奪ったんだ。
髪を振り乱し、狂乱して叫び散らすその様は、まさしく生まれたばかりの赤子のようだった。
心に溜まった膿を、絶叫と血涙と共に吐き出そうとする行為は、まさしく産声そのものだ。
心が軋む。万力で締め付けられるかの如く。されど、ああ、しかし――悲しいかな、少女の心は、思っていたよりも強かった。
生まれたばかりの心は、十二年間の悪行の罪悪感をただの一瞬で押し付けられたというのに、未だ悲鳴を上げ続けている。防衛機構が働かない。心を殺し、自我を失えば簡単に解放されるのに。
ああ、だって。
「なァ、壊れちゃ駄目だよなァ。今まで殺してきた奴らに、どうやって償うんだ?」
「――――ッ!」
できない。
こんなもの背負えない。背負えるわけがない。命はこんなにも重い。
今やっと、少女は生まれたからこそ実感できる。
生きているということの奇蹟と、その必要最低限の当たり前を。
これだけは絶対に奪ってはならないものだ。
だというのに……
「が、はあ、あ、……はあっ、ぁ、あああ……――つッ」
ふと、床のぬかるみに足を取られ、バランスを崩した。肩から地面に叩き付けられ、顔半分にぬるい液体がかかる。
鉄錆びと糞尿が混じったような、人の脳を直接殴り付けてくるかのような生臭い悪臭が、少女の鼻腔、そして脳髄に叩き付けられた。
だが、その強烈な臭いすら、今の少女にはどうでもいい。
血がかかった。赤い血が、顔に大量に付着した。
私が殺した命の糧。流れる必要がなく、もしもこれらが持ち主の名から零れなければ、今頃あの少女たちは、不器用ながらも生きていたはずなのに……
「おぶ、おぇ、ぇ、げええええっ!」
そこが限界だった。
己の悍ましさに、嫌悪を抑えられなかった。
これはなに?
どうして、私みたいな汚物が生きている。恥ずかしげもなく欲も今まで生きてこられたものだ。
そもそも、私ってなんだ?
私はだれだ?
この肉袋の中には、一体何が詰まっているんだ???
ああ、今すぐ掻っ捌こう。人殺しには似合いの末路だ。
この、長刀で。
人を殺し尽くしたこの汚濁の剣で、私は私を終わらせる。
こんな存在は、世界に一秒たりとも存在してはならない。
そう決意し立ち上がると、刀を逆手に持ち変える。
恐怖はなかった。
一刻も早く死ななければならないという義務感が、その体を突き動かす。
切っ先を喉笛へと突きつけ、全力で引いた。
華奢な少女の喉を破る突きは、しかし。
「――――ッ!」
しかし……
「どう、して……」
それは奇しくも、カルラが最初に殺めた少女の最期と同じ呟きだった。
「これ以上、私を苦しめてどうするっていうの、よ……」
刃は、不可視の壁に防がれたが如く、少女の薄皮に触れる直前で止まっていた。どれほど力を込めようと、刃がその壁を貫くことはないだろう。
カルラは憎悪の視線を、傍らに立つデモニアへと向ける。
まだあるというのか? まだ遊び足りないか? そうまでして玩具が欲しいか?
人の命を何千と奪い、人の心を作ったり壊したり。
何もかもがお前の手のひらか?
「ふざけないでぇッ!」
どれほど力強く刃を喉に叩き付けようとしても、不可視の壁が全てを止める。
ガギンッ! と甲高い音が幾度と木霊し、その度に少女は絶望の声を上げた。
「何でッ! 何で、何で何で何で何で何でェッ! なんでよ……」
悲嘆にくれる少女へ、男は心底愉しそうな顔で、ただ一言こう告げた。
「カカカッ。生きて罪を償えよ」
――は?
「それがお前の義務だ。これからお前は、殺した命に見合う働きを見せなきゃならない。罪を償うなんて出来ねえかもな。でも、お前は死んで楽になったら駄目なんだよ」
ああ、分かっている。これが責任転嫁だということなど重々承知だ。
「死ってのは確かに逃げ道としては最高だ。だが、人の命はとても重い。それを奪った罪は大きい」
だけど、お前が――
「生きて償え。それが、お前の義務だ。クヒ、ヒハハ、ヒヒ。だから、クふふ……ふ、フフフフ……諦めずに生きろよ、ふ、ふふふふ……アヒャヒャヒャヒャ! だーめだ、もう無理、笑える。ほんと、ほんとにもう……ッ、カカカカカかッ! そうだよ。人の命は重い。だから死んじゃダメだ! だって、死んでしまった人はよお。お前が死んでも喜ばねえ」
お前のような外道が――
「奪ってしまった命のためにも、それを呑み下して前に進めッ! それが人間としてお前が果たすべき責任だあ! ヒャハッ。ヒヒッ、カカカカカカカ、カハハハハハハハハハハハハハッ!」
――冗談でもそんなセリフを言ってはいけないだろうッ!
「――――ッ、…………っ」
しかし同時に、少女は納得してしまっていた。
デモニアの言葉を、正しいと理解している。
「う、うぅ、うううう……っ」
そうだ、確かにその通りだ。
風代カルラは大量の人間を殺した。まるでゴミでも処理するかのように、無垢な命を摘んだ。
それはどれほど謝罪を重ねた所で償えるものではない。たとえこの先どれほどの善行を行おうとも、彼女の罪が消えることはない。
風代カルラは許されない。
未来永劫、罪人として生き続けなければならない。
死んで楽になることすら過ぎた贅沢。苦しみ続けろ、足掻き続けろ。
殺した少女たちの小さな呻き声を生涯聞き続けろ。
「……ッ、わた、し、は……」
目の前が真っ暗になる。
心を持って半刻と経たず、少女の道は閉ざされた。
過去に犯した罪業が、将来や未来を暗闇で満たした。
十二年の記憶の回想が落ち着き、少女の心が冷静さを手に入れたことで、ようやくはっきりと自覚した。
もはや、自分の人生は閉ざされたのだと。この先に希望や光など一つもなく、これからの人生は、この骸の山を背負い、ただ罪悪感に押し潰され、心を擦り減らしながら歩くしかない。
繰り返そう。
犯した罪は、たとえ何をしたところで許されるものではない。
ごめんなさい、ごめんなさい――そんな風に謝罪を重ねたところで、それを聞いてくれる人もいない。
「ごめん、なさい……っ」
それでも、そう言わずにはいられなかった。
積み上げられた無数の肉袋の前で跪き、頭を地面にこすりつけ、両手を組んで何度も何度も繰り返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん、な、さ……い……ッ」
腰を折り、体を真っ赤な血液や垂れ流れる汚物で汚しながら、何度も何度も。
「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい……うぅうう……っ、ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「クヒッ。ひは、ハハッ、クハハハハ。カハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ――――ッッ」
そんな彼女の絶望する姿は、デモニアには至宝だった。人の心を潰すのも良いが。人に心を与えるのも楽しいもんだな、と。
どこまでも邪悪に笑っている。
「ああ、それと」
「――――ッ!」
まだ何かあるのだろうか? ――目の前の悪魔の声を聞いただけで、カルラは氷点下の冷気をぶつけられたかのように身を震わせた。硬直し、青ざめた顔でその先を聞かされた。
「お前に食わしてた飯の肉、全部お前が殺した奴を捌いて作ったんだよ。ほら、そこの奴とか腹が綺麗に切れてるだろ? どうだった? 美味かったか!?」
「ぅっ……!」
「なァ聞かせてくれよ、なァ。俺、料理とか初めてだからさ……上手くできたか不安だったんだ……なァああああああああ――――んてなっ! そりゃ美味いに決まってるよなあ! あんだけバクバク食ってたんだから! こんにちはカニバリストッッ! これで君の体は全身罪だらけッッ! 何つったって最悪の禁忌を犯してんだから。血液から内臓、筋肉やそれらを構成する細胞、その中に存在する遺伝子やらDNAまで! 風代カルラは全身腐っちゃったねえええええええええええっっッ! ギハッ、カカカカ。あひゃひゃひゃひゃひゃひゃッッ!」
糾弾するようなセリフに反して、男の顔はどこまでも喜悦に歪んでいる。脳内麻薬がどばどばと分泌され、常よりもさらに自制が効いていない。仕込んだ仕掛けの全てが上手く作用し、玩具が思った通りの反応をしてくれたせいで、理性が軽く飛んでいる。好きなことの話題になると暴走して止まらない子供のように、デモニア・ブリージアの舌は回っていた。
「ああ、ただな。自分で切った人間を俺様が料理してお前が食べる――それ自体はとても、とっっっっっっっっっっっっっっっっても良いことだと思うぜェ? 今時お前みたいに自分で生き物を殺して、命の重みをその手に刻んだ上で食ってる若者なんざいねえからな! ほらほら、ドキュメント番組とかでもあるだろ? 生き物を育てて出荷して、そして命の大切さを学びましょう、みたいなの。あれ好きなんだよなあ。本当の意味で食材に対して感謝の心を持つには、命の尊さを実感として得るためには、やっぱりその重みとか価値を生で感じ取らなければならない。うん、そう思う……心からそう思うぜ。お前も分かってんだろ? 『いただきます』ってのはそういうことだ。良かったなァ、お前『いただきます』という言葉の重みを、心の底から理解できたんだ。お前は今、きちんと食べることの、命を奪い自分の糧にすることの、その真の意味を知ったんだ! これが道徳! これが倫理。ああ、素晴らしきかな、感謝の心! ビバ畜産! 俺様とお前は、真の意味でモラリストになったんだよぉッッ!!」
「ぶふっ! げ、おぅぶ……!」
意の奥から――否、血液や内臓を含めた全身から吐瀉物がせり上がってくるような錯覚すらあった。もはや胃の中は空になっているというのに、嘔吐は止まらない。黄色い液体が床の赤の混じって、その悍ましく汚いマーブルによってさらに吐き気が誘発される。
カルラのその様を見て、デモニアは血の付いていない床で笑い転げていた。腹を抱えて足を大きく振り乱して、目じりには涙さえ浮かべてカルラの豹変ぶりを肴にする。
「うひひっ、うひゃ! ひひひひっ! ひぃいい……! し、死ぬ……たすけっ、助けて……! け、傑作だろマジで! ぎゃはははははははははははは! あはははっ! がはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!」
もう無理だ、耐えられない。
この男の近くにいることだけは耐えられない。一刻も早くここから離れ、すぐにでも逃げたい。
ここにいるわけにはいかない。これ以上楽園教会と共にあれば、自分はさらに罪を重ね、屍を積み――何よりそれに何も思わなくなってしまうに違いない。
心を守るために、言い訳を重ねて殺人を許容する――そんな外道に成り下がる未来が見える。
「――――ッッッ!」
カルラは長刀の柄を握り勢いよく立ち上がると、振り向きざまにデモニアの顔面へと長刀の峰を叩き付けた。
鈍い音が鳴り響き、デモニアの体が床を滑った。
「ぐははっ、クハッ、い、いてえっ。きひはッ、ははッ……」
「どけッ!」
生まれてから出したこともないような苛烈な声で叫び、そのまま駆け出す。どこにあるかも分からない出口へ向けて逃走を開始した。
背後で悪魔が哄笑を上げていたが、意識してシャットアウトする。あんな声、もう一秒だって聞きたくない。こんな肥溜めのような場所からは一瞬でも早く離れたかった。
「ううう。あ、ああああ……う、うぅぅぅううううううううあああああああああああっ!」
風を切って走る少女の瞳から大粒の雫が溢れ出し、喉からは後悔の呻き声が次から次へと吐き出された。
思い出されるのはこれまでの殺戮の日々――その最初の一幕。
どうして逃げなかった? なぜ抵抗しなかった?
疑問に思うことすらなく、機械のように人を殺し続けた。
後方へと流れていく景色は、その全てが黒と白の混沌で、目にするだけで吐き気を催す。頭がおかしくなりそうだ。今すぐ逃げないといけない。こんな場所にはいられない。
あいつらと一緒にいては、破滅してしまう。
楽園教会は――駄目だ。
もう奴らは人として完全に終わってしまっている、
あんな人外たちと行動を共にしていれば、この先どれだけの屍を積み上げるか分からない。
あるいは――人を殺すことに、この先躊躇がなくなるかもしれない。それこそ、かつての自分と同じように。
殺人が当たり前。夢だ希望だ願いだ救いだ、そんな下らない妄言を吐きながら、貴様ら全員跪け、それが出来ねば命を散らせと……傲慢に人の命を選別していくことになるかもしれない。
それだけは、ごめんだった。
これ以上、人を殺してたまるものか。
ここから逃げたところで少女の罪が消えるわけではないが、新たなる悲劇を生まないためにも、この組織を離れる。
数多の恐怖や葛藤を乗り越え。
少女は、成功率ゼロの、まるで合理性の欠片もない決断を下し、そして行動に移していた。
一刻も早くここから出なければ。
だが、出口はどこにある? どうやって逃げる? そもそも追っては来ないのか? 逃げた後はどうする?
分からない。何も分からない。
ただ白痴のようにがむしゃらに走ることしか出来なかった。
行き先など、あるのだろうか。出口や逃げ場など存在するのだろうか?
目の前は真っ暗だ。少女の進む方向には道などなく、ただ暗黒が広がるのみ。
たとえ楽園教会から逃げおおせたところで少女の罪は軽くならない。
人を殺した。
何千もの命を奪った。
屍山血河を生み出した。
何たる邪悪、悍ましい。
こんな存在がのうのうとそこらを走る回っていると考えただけで怖気が走る。これほどまでに罪深い存在を、今なお排斥しようとしない世界に疑問を覚えざるを得ない。
こんなに罪深い存在だというのに、自分には天罰が下らないのも意味が分からなかった。至極真っ当な世界ならば、己のような外道が生き永らえる道理はないはずなのに。
罪深い存在が罰されていない。
あれほどの血を流出させ、不幸と呼ぶには悲惨に過ぎる地獄を演出したというのに。
「ぐぅぅううう……っっ!」
食いしばった歯の奥から怨嗟の音が漏れ出した。己自身に対する怒りが止まらない。吐き気を催すほど自分のことが憎かった。
「なんで……」
食いしばった歯が僅かに欠けた。
「なん、で……」
速度がゆっくりと落ちていき、やがて足が止まった。
ぼさぼさに伸びた髪が俯いた彼女の顔にかかり、表情を隠す。可憐で整ったその顔立ちは、闇の向こうへ隠されている。
「なんで、生きてるのよ……ッ」
滲み出した呟きは、まるで身を切られたかのように痛ましかった。
痛い……胸の奥が、軋んで痛い。
「私は、わた、し、は……ッ」
こんな世界は間違っている。これほどまでに壮絶な地獄がある世界が正しいわけがない。そして悲劇を引き起こした殺戮者が、未だなお息をしているこの状況に、正統性など存在するはずがないのだ。
「どうしたら、いいの……?」
少女は路頭に迷う。己の道を定めることができない。
少女が生きることはどう考えても間違いだ。世界はそれを許容すべきではないのだ。この世には生きてはいけない人間というのは絶対に存在して、風代カルラはそれだった。
だが、死ぬことは許されない。それはただの現実逃避でしかなくて、己の犯した罪から目を背ける愚行に他ならないから。
風代カルラは5147人の命を奪った責任を背負い続けなければならない。自死を選び、その責を放棄することなど、たとえ神が許そうとも、カルラだけは自身を絶対に許さない。
袋小路に追い詰められ、視界を黒く塗り潰される。
これまで壁など皆無な、歩くことに迷う必要のない人生を歩んできた。
だが、いざ心を持てばこの通り。平坦で舗装された道を歩いてきただけの無責任な女は、突如現れた山のような壁を前にただ膝を折るしかない。聳え立つ壁に三方を覆われる。だが、それでも、背後へ伸びる道に戻ろうとだけは、決して思わなかった。
「……どこへ、行けば……ッ」
もう何も、何も分からない。
虚ろな瞳で周囲を見渡そうとも、網膜に写り込むのは薄気味悪い模様の壁と床。
楽園教会に住まう悪鬼羅刹、外道天狗の偽神どもは、なぜこんな場所にいて、未だなお耐えられるのか。何故このような混沌渦巻く奈落で、自己を保ち笑えるのだろう。当たり前に生活できるのだろうか。
カルラは兄以外の『枢機卿』に出会ったことはないが、彼らの中で、この混沌から抜け出したいと願った人間はいないと聞いた。確かデモニアが、聞きもしていないのにペラペラと話していたはずだ。
意味が分からない。
理解不能だ。
人間の末路。薄汚れた劣等共としか思えない。
腐っている。再起不能だ。焼けて爛れて、理性を飛ばした畜生共が、我が物顔で己が信念を振り翳す。
人の本分を忘れたのだろうか?
人の道から堕ちた天狗共の「跪け」との咆哮が、全方向から聞こえてくるようだ。
だから、少なくともやはり、ここから去るべきだ。
ここは汚泥の詰まった邪悪の巣窟。偽神の進軍にこれ以上付き合っていられない。
しかし逃げる方向など分からない。この建物の構造の全貌は未だ持って掴めない。そもそもどの座標にあるのかすら検討不能。
ゆえに、少女は成すすべなく掴まるしかないと、そう諦観していたのだが――
『よォ。随分と困っているようだね、少女』
唐突に少女の耳に届いたのは、雑踏から溢れ出す雑音の如き特徴無き声。まるで群衆のざわめきを全て統合し、それらを平均化したかのような。普遍や普通――そういう言葉で表されるような。どこにでもあるような、ありふれた声。
だが、それゆえに悍ましい。
雑踏の声を平均化すれば、ああ確かにそれは普遍的などこにでもあるような声だろう。ありふれていて、個性がなく、普遍的でありきたり。
そうだ。
響き渡ったその音色は、〝人類の普遍的な声〟であり、決して一人の人間が発して良い類の声音ではない。
個性がない。
平凡も度が過ぎれば、これほどまでに狂っているのか。
「……――――」
これは確か、あの紅蓮の地獄でバルトルートとカルラの二人を助けた、ノイズのような男が発したそれだ。
心を手にした今にして、カルラは思わざるを得ない。
なぜ兄は、こんな悍ましい声を放つ男に付いて行こうと思ったのか。
たとえあの場で助かる最善がこれに着いて行くことであったとのだとしても、これだけは選んではいけなかった。たとえどれほどの危険があったとしても、自力であの地獄から抜け出すべきだった。
聞くだけで悪寒が走るような声。これほどまでに非人間的な音声を発することのできる者が、いったいどうして信用できたのか。
兄が自分を守るための決断だとは理解している。
まだ十歳の少年が、たった一人の家族の命を背負っていたのだ。縋りたくなる気持ちは大いに理解できるし、その判断で助けてもらったことそのものには感謝もしている。この決断は確かにカルラを炎から守ったのだから。
ああ、分かっている。自分にこんなことを思う資格がないことなど。彼女は兄に感謝することこそあれど、その決断を責める権利はどこにもない。
しかし、それでもなお、思ってしまうのだ。
やはり、これに着いて行くという決断は間違っていた。
与えられた選択肢の中で、最も選んではいけないものだった。
『どうした? 姿が見えず声だけが聞こえるのがそんなに怖いのか? 年相応の反応を出来るようになったじゃねェか。喜ばしいぞ、寿ごう。晴れておまえも、不出来な人類の仲間入りだよ。まあどうでもいいが』
しばらく男の声を聞いてようやく、響き渡るそれが物理的に大気を震わす振動ではなく、脳に直接語られているのだと気付いた。
少女は擦り切れた心を痛めつけてでも奮い立たせ、響く声に思念を返す。
(関わらないで)
『厳しいなー』
無碍な言葉に、男は堪えた様子はない。笑っているように聞こえるが、そうじゃないはずだ。おそらくこいつは、カルラがどう罵倒しようとも飄々と受け流すだろう。
銀髪の男――コールタール・ゼルフォースのように底なしの大器で受け止めるのではない。
むしろ逆。
こいつは、そもそも器を持っていない。人間性というものが、完全に欠如している。
そして、それ以上に分かることが一つもない。
まったくもって底知れない――否、底などない。
あの秩序の覇王とはまた異なる方向性の超越性を秘めた、混沌の雑種とも呼ぶべき虚無。
『まあ、私が君に声をかけたのは、一つ提案があるからだ』
(提案……?)
『ああ。提案。単刀直入に言うぞ。おまえをここから出してやる。逃げろよ』
(なんですって……?)
『疑問に思うことなどあるか? おまえは今日、鏖殺の騎士としての完成を待たぬまま、『誕生』を果たした。ならば当分は用済みだ。必要になれば、君を奪い返すためにあのキチガイどもが動くだろうが……まあ、ひとまずは逃がしてあげようというのだ、麗しいレディよ』
(ちょっと、いったいどういう……ッ!)
抗議を上げる間もなく、目の前に『孔』が生まれた。どこかで見たような気もする『孔』だった。
少女は困惑を隠しきれないまま立ち竦む。
言っている意味が分からない。それに、この声の言いなりになって、流れに身を任せていいことが起きるはずがない。それは先ほどすぐに理解したことだし、実際己は今最悪の状態にある。
だから、いらない。
自分で逃げると――そう告げようとした瞬間のことだった。
『早く行くがいい』
だが、不意に背に力が掛かり、少女は『孔』へと突き飛ばされた。
あらゆる混沌が詰め込まれた、極彩色の虚の中へと。
「あ、く、ぅうう……ッ」
瞬間、全身を不快な浮遊感に襲われ、少女の体が何処かへと飛ばされた。
それは、まるで。
☆ ☆ ☆
それはまるで、数千年の時を一秒で旅したが如き跳躍であった。意味の分からない、時間も空間も、自己と他者もが入り乱れ、その境界線が希薄になる――否、もはや全てに線引きはなく、故に渾然としたカオスが少女の自我を融かしにかかる。
そんな気の狂いそうな空間を、少女は光の速さで飛び越えた。
そして――――
☆ ☆ ☆
第八章 今は語られぬ、赤い涙 ――Holocaust―― 4.■■■■■の■■■
第八章 今は語られぬ、赤い涙 ――Holocaust―― 4.風代カルラの誕生祭




