第三章 地獄に救い 3.遅刻
『カルキ』の脅威が唯可へ迫る。
何とか投稿できました! 良かったです。
蟻、蚊、サソリ、ハエ、ゴキブリ、カブトムシ、カナブン、ダンゴムシ、てんとう虫、ウジ虫、毛虫、イモムシ、ダニ、カメムシ、アブラムシ、アブ、ノミ、ハチ、シラミ、ドクガ、シロアリ、クモ、ゲジ、ヤスデ、カマドウマ————。
あらゆる害虫が爪先から頭頂まで一気に駆け上がってきたかのような感触がまずあった。
「おぇ……!」
全身が蟲に包まれると、次に襲ってきたのはチクチクとした痛みだった。
体中にこびり付いた無数の蟲が小さく、ゆっくり——だが確実に全身を蝕んでいた。
それだけで、頭が狂いそうになっていく。
彼は、こんなものを受けたのか?
こんなの、耐えられるわけがない。
壊れたい。壊れたい。壊れたい。
「いやあああああああああああああああああああッ!! イヤダ、嫌だ! 殺して! 死にたい!! 死にたい死にたい死にたいッッッ!! 死にたいよォオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!」
「ひゃははははははははははははははははははははは! ひー! ふはっ! あははは! 面白い! くっく……! ぶはーッ!! う、ああ……最高です。その反応ですよお。その反応が欲しかったのです。ああ……彼もこんな風に泣き叫んでくれれば最高だったのですがねえ」
涙を流して地面をのたうち回る唯可を見ながら大爆笑するヴァイス。
彼は腹を抱えながらその場にうずくまるようにして笑っている。
「きひっ! あははは!」
「あ、げえびゅ! あ、がっ……か……ッ」
目に涙さえ溜めて笑うその姿は、まさに外道そのものだった。
「あ、だ、だずけ、て……、ゆ、…………け」
ゆっくりと、少女の崩壊が始まる。
屋上には、ただヴァイスの笑い声だけが響いていた。
☆ ☆ ☆
同時刻、友介の背筋を薄ら寒いものが走り抜けた。
(何だ、これ……なんか……とんでもなく嫌な予感がする)
眼前では巨大な竜巻があらゆるモノを吸い込みながらその勢いを増していっていた。
突如現れたあの竜巻がなんなのか分からないが、少なくとも科学圏が用意したものではないだろう。おそらく、魔術師——否、ヴァイス=テンプレートが作り出した竜巻だ。
彼は自らを神話級魔術師と名乗っていた。
友介は魔術には疎いが、神話という言葉から想像するに、これくらいの事は出来るのだろうと適当に推測する。
(あれに巻き込まれれば……まあ普通の人間なら十中八九死ぬだろう)
しかし迂回している暇はない。
いや、ここで立ち止まっている時間すらない。
(やっぱやるしかねえのか……?)
彼は口を僅かに引き攣らせて笑った。
このまま真っ直ぐ技術省へと突っ込めばほぼ百%の確率で竜巻に巻き込まれてしまう。それはすなわち死を意味している。
右眼の力で竜巻の進路を先読みできれば、あるいは無傷で技術省に辿り着くことも可能だろう。しかしそれも大きな賭けだ。好き勝手に暴れ回る竜巻の進路を完璧に予想することはほぼ不可能と言って良い。
彼の『眼』は特別だが、かと言って万能という訳ではない。あくまで人間を越えた領域にあるだけであって、神の域にはほど遠い。
それでも。
「ふー……っ」
自分の命よりも優先すべき何かのため。
安堵友介は迷うことなく駆け出した。
☆ ☆ ☆
「はてさて。すでに時刻は十一時半を回っていますが……」
近くでのたうち回る少女を意識から外して、ヴァイス=テンプレートは自らの魔術で作り出した竜巻を眺めた。
竜巻は今なおその勢いを弱めることなく霞ヶ関の街を蹂躙している。
先ほどまで聞こえていた、魔術師による魔術の轟音も、科学圏の兵器による発砲音も、矮小な人間の怒号や悲鳴も——。
天災はそれらちっぽけな人類の全てを呑み込んで、破壊し、蹂躙する。
竜巻が通った後に残るのは更地のみ。
(私が呼んだ魔術師達も全滅してしまったでしょうねえ)
すでにヴァイスの制御を離れたあの竜巻は、ヴァイス達がいるこの技術省を襲ってもおかしくない。
しかしそれでも、彼は僅かばかり目を細めただけで、その瞳には恐怖を始めとした弱い感情を孕んではいなかった。
端から見れば何も映していないようにさえ見える瞳。
だが。
実際は違った。
(……安堵……ッ)
その瞳の底には。
その顔の裏には。
その胸の奥には。
どす黒い負の感情が渦巻いていた。
長い年月をかけて煮詰めに煮詰めた、ドロドロとした醜い思い。
ヴァイス=テンプレートの全てを奪ったあの男への復讐を果たすという、とても単純な目的。
(あの日、僕は誓った……)
あくまで無表情のまま、彼は目の前の竜巻を眺める。
(たとえこの身が滅び、記憶が滅び、思い出が消え、大切な人の顔を思い出せなくなったとしても、あの時誓った復讐だけはやり遂げる。僕の選択を彼女が喜ばなかったとしても、僕は僕のためだけに戦う)
もうすでに、愛しいあの人の顔を思い出せない。
胸にあるのは、奴らに復讐してやるというその思いだけ。
最も大切だったはずの記憶は風化してしまった。彼を救ってくれるはずだった思い出は、くだらない憎しみによって上書きされてしまった。
それでも——。
「それでも僕は——」
彼は振り返ってそこらで瀕死になっているであろう少女へ目を向けた。
彼女を殺せば、安堵友介に自分と同じ苦しみを与えることが出来るだろう。
大切な人が苦しんでいるのに何も出来なかった無力感に苛まれ、ただ無為に残りの人生を過ごす。
「くっく……」
想像しただけで愉快な光景だった。
もう一度時計を見た。時刻は十一時五十分。約束の時間よりも十分ほど早いが——
「だからこそ、復讐として成り立つんですよねえ」
彼は口元を引き裂いて気持ちの悪い笑みを作った。
右手を軽く振ると獅子の面が現れ、それを被る。
ゆっくりと。
ゆっくりと地面で苦しむ空夜唯可に近付いていく。
維持神ヴィシュヌの第四の化身『ナラシンハ』の怪力で唯可の首の骨を折ってやる。
ヴァイスは唯可の上へまたがると、そっとその首に指を這わせた。
「が、びゅ……。あ、れ……?」
『カルキ』の呪縛はすでに解除している。
故に、唯可はすでに正気を取り戻していた。だが、入れ替わるように新たな驚異が目の前に立っている。邪悪が自分にまたがっている。己の首にその指がめり込もうとしている。
「な、に……? やめて、やめて……。い、嫌だよ……」
「何が?」
「し、にたくな、い……。まだ、死にたくない! まだ。まだ!」
「でもあなた、さっきは死にたいとか殺してくれとか言っていたではないですか? だから殺してあげようというのに、どうして?」
「嫌だ! 違う! あんなのは違うッ!! あんなのは私の本心じゃない! だって、だって……!」
すると彼女は、耳障りな笑い声を上げるヴァイスに向かって、目に涙を浮かべ、悲哀に満ちた顔でこう言ったのだ。
「いや、だよぉ……! 死にたくない……っ。ゆうすけに会いたい……」
それを聞いたヴァイスは、ニィ……ッ、と笑みを引き裂いて、
「大丈夫です。二人とも地獄で再会できますよ」
願いは、聞き届けられなかった。
そして。
ヴァイスの指が、
唯可の喉へゆっくりとめり込んでいく。
ギリギリと音を立てる程の力。
ヴァイスは高揚していた。
やっと殺せる。あの男の大切なモノを壊せる。
「はあ……っ! これで対等だ!」
指に込める力をさらに強くする。目元に涙を浮かべる唯可に対する慈悲や同情は皆無だ。
(い、やだ……っ。死にたく、ない。友介に会いたい……。助けて……)
誰に届くこともない願いが、小さな口から漏れ出る。
どうしようもない本能が。
剥き出しの感情が。
少女の中で暴れ回って、そのほんの一部が彼女の口から小さく放たれた。
「会い、た、いよ……ゆう、す、け……」
「だから無駄だと言ってい
「その手を離せクソ野郎ォ!!」
ヴァイス=テンプレートの顔面を、真横から跳んだ影が靴底で蹴り飛ばした。
「へ……?」
何が起きているのか分からなかった。ただ命の危機から脱することが出来た。それだけは分かった。
影が着地する。
唯可の前に立った。
守るように。
「よくも唯可を散々痛めつけてくれたな」
声が聞こえた。
聞き慣れた、愛おしくて仕方がない声が。
時間が止まったかのように世界がゆっくりと動いていく。
空夜唯可はぼやける視界の中に愛おしい少年の顔を見つける。
そして。
世界が時間を取り戻した。
そこにいたのは。
(————ああ)
他の誰でもない。
両の手に拳銃を携えた、目つきの悪い少年————安堵友介だった。
ありがとうございました。
次話から少しの間だけちょっとした欝展開が続きます。




