第四章 門出 1.やっと。
光が差し込んだ。
ぼやける視界に見えるのは、白い天井だ。
薬品の臭いが鼻を突き、ピッ、ピッ、と等間隔で鳴る電子音が友介を嘲笑っているかのようだった。
靄がかかったような意識が、一秒を経るごとに少しずつ鮮明になっていく。
試しに喉を震わせてみると、声ともつかぬ息が漏れる。
そこへ、声を掛ける者があった。
「友介くん!」
「あ、あん、どくん……っ」
目を覚ました友介に、草次と蜜希が切迫した声を投げた。
「ぁ……ぐっ! ――お、まえ、ら……」
千矢は少し離れた所から友介を見つめており、声を出すことこそなかったものの、その表情からは安堵が見て取れた。
だが――、
「カル、ラ、は……?」
痛む体を無視し、必死に上体を起こして周囲を見渡すも、そこに、慣れ親しんだ赤い髪の少女の姿はなかった。
聞き慣れた彼女の軽口は、聞こえてこない。
「ちょっ、まだ治ってないのに……っ」
「そ、そそ、そうだよ、安静に、してな、きゃ……」
「でも、カルラは……、カルラは、どうしたんだよ……ッ」
「――っ、それ、は……」
友介の問いに、草次が口ごもった。それが、答え。
「風代は、連れて行かれたよ」
「――――ッ」
答えたのは千矢。彼女に怒りを抱いているはずの少年だった。
「クソッ!」
また奪われた――その事実を認識した瞬間、腹の底で抑えきれぬ憤怒が爆発した。
彼女を連れ去った楽園教会に、ではない。
また何もできずに奪われた己自身に、どこまでも苛立っていた。
「なんで……」
その問いは何に対してのものなのか。誰に向けたものなのか。
「なんでこうなるんだッ!」
拳をベッドに叩き付ける。
いつもそうだ。いつも、いつも奪われて後悔する。
砕かんばかりに歯を噛みしめて、爆発しかけた怒りを無理やり抑え込んだ。
やがてゆっくりと力を抜くと、先までの激しい様子からは想像も出来ぬほど静かな声で問いを投げた。
「なあ、俺、どれくらい寝てた?」
既に日が傾き始めていた。楽園教会の枢機卿たちが暴れたのは夜なので、少なくとも半日以上は目を覚まさなかったのだろう。
「三日くらいかな」
「そう、か……」
どうやら想像していた以上に眠ってしまっていたらしい。
これでは、今から敵を追いかけた所でその尻尾を掴むことすら出来ぬだろう。何せ敵は楽園教会。闇の中の闇にして、存在しないとされる秘密結社だ。
「つぅーか友介くんすっげーな。もうほとんど傷が治ってんじゃん」
そこで、草次が明るい調子で、ふと話題を変えた。おそらく沈んだ空気になることを拒んだのだろう。彼は馬鹿なように見えるが、こう見えて空気は読めるタイプだ。
「そうだな。多分だけど染色を手に入れた影響だろ。あれは人を一つ上の段階に押し上げてるようなもんだから、ちょっと常人よりも優秀な身体になるらしい」
それは先にも身を以って体験した。
ジークハイルのような滅茶苦茶な膂力を手に入れられるわけではないが、染色に至った者は回復力や免疫力などの向上、そして筋力の上昇の恩恵を得られるのだ。
草次の思惑に乗ったわけではないが、友介が応えたことにより部屋の空気は幾分柔らかいものになった。
やがて日が暮れ、面会の時間も終わる。
三人が順番に出て行く。草次、蜜希がまず扉を抜け、最後に千矢が出ようとしたところで、彼はふと思い立ったように立ち止まり、振り向いた。
「おい安堵、お前、風代を――」
「行けよ。もう面会時間は終わりだ」
きっぱりと、言い切った。
それは、静かだが確かな拒絶。その話題を出すなという意思表明だ。
その声は、当然、千矢の近くにいた草次や蜜希の耳にも届いた。
しかし、彼らは寂しそうに表情を曇らすだけで、それ以上何かを口にすることもなかった。
そして問いを投げた本人である千矢は、「そうか」とだけ小さく漏らした。
「私物はベッドの脚に置いてあるリュックの中に全部入れている。一応、暇つぶしになればと思ってな」
それだけを告げると、彼は友介から視線を切った。
「そうか。じゃあな」
友介の別れの挨拶を最後に、病室の扉が閉められた。コツコツという足音が遠くへ離れて行き――やがて聞こえなくなった。
そして――。
「――――」
彼は、『私物』を持って立ち上がる。
中には、二丁の拳銃と、着替えが入っていた。
カルラを憎悪しかけた千矢だったが、友介を庇う彼女の姿に何かを感じたのだろう。彼にはもう、カルラに怒りを感じている様子はなかった。
「ふぅ」
息を吐いて千矢を頭から追い出した。
拳銃を握り、肩を回す。
体は動く。
戦える。
それだけを確認すると、彼は病院から抜け出した。
☆ ☆ ☆
体が重い。
疲労が抜けていない。
まるで鉛のコートを背負っているかのようだった。
それは体が拒んでいるのか、心が弱っているのか。
そんな、自分のことすらも分からないほどに、少年は弱っていた。
そこかしこからすすり泣きが聞こえる。家を奪われた者、友を奪われた者、家族を奪われた者……数え上げればきりがない。
楽園教会の枢機卿による大虐殺。
先日のジブリルフォードと狩真の襲撃によって負った傷が塞がっていないというのに、さらなる惨劇が彼らを襲ったのだ。その疲弊は計り知れない。
いつもならば街灯やビルの灯りで掻き消される星々の輝きが、街が軒並み破壊され、灯りを失った今では鮮明に見えた。
瓦礫の転がる道を、安堵友介はゆっくりと歩いていく。
何のために? ――そんなものは決まっている。カルラを救いに行くためだ。
しかし、少年はどこへ行けば良いのか分からない。何をすればいいのか、思い当たる案や策が一つとして浮かばなかった。
ただ緩慢に、茫漠とした目的だけを持って、目指す場所すら分からぬまま、馬鹿のように彷徨い歩く。
「……っ」
そうだ、まずは魔術圏に入ろう。西日本に行けば魔術師がいる。上手くすれば唯可と再会できるかもしれないし、彼女に助力を頼んでもいいかもしれない。
とにかく、国境を越えるのだ。
途中に『あの街』があるかもしれないが、知ったことではない。
過去のトラウマを気にしている暇はない。
それよりも大事なものがあるのだから。
「――――ッ」
そう自分に言い聞かせた所で、ようやく、少年はその気持ちのおかしさに気が付いた。
「は、はは……っ」
そう――
風代カルラが、安堵友介にとって、いつの間にか大切な存在になっている。
そんなことに、今、ようやく気が付くことが出来た。
失ってようやく、彼女がどれほど彼の胸の中で大きな存在だったのかを、知った。
「ははは、はは……」
いつからだろう、何故なのだろう。
あんなに嫌いだったはずなのに。
顔を合わせれば喧嘩ばかりをして、罵倒を浴びせ合いながら時には取っ組み合いになることだってあった。
出会いなど最悪。目を合わせるなり罵倒を浴びせられた。
互いに第一印象は地の底の底の底であった。
ついこの間だって晩御飯が遅いだとか、料理が下手だとか言って喧嘩をした。
友介がクラスではぶられていることをあの少女は大笑いして、友介は殴りたくなる衝動に駆られるほどだった。
それでも。
『だったら』
積み重ねてきた時間があった。
『こんな所で寝てんなッ!』
突き合わせてきた言葉があった。
『そう思うなら立ちなさいよッ! アンタの心はそんなに綺麗なんだから誇りを持てばいいのよッ! ビビるな! ヘタレるなッ! 諦めるな怖がるなッッ! 過酷な運命も残酷な真実も全て受け入れて前に進めッ! それがアンタに求められるもんでしょッ!』
嫌いだなんだと言い合いながらも、隣に立って、一緒に戦った。
『アンタは私と違って綺麗だッ! 誇り高くてカッコイイじゃないッ! 誰よりも純粋な心を持った優しい人間でしょうがッッッ!』
そして。
『違わないッ! 私が保証する! アンタは、安堵友介は、誰よりも、この世の何よりも気高くて純粋で強くて誇り高くて優しくてカッコ良くて可愛い……最ッ高の男の子だァあッッッ!』
「――あいつは、救ってくれた……っ」
その瞬間。
少年の両目からぼろぼろと涙が溢れてきた。
「そうだ、そうだよ……あいつは、俺を助けてくれた……ッ」
絶望の淵にいた。何もできないと怖がって、断崖の前で座り込んでいた少年を無理やり立たせてくれた。
お前は綺麗だ、カッコイイ、と。
この世の誰よりも優しい、と。
――失いたくなかった。
――奪われたくない存在だった。
そうだ。やっと気が付いた。
さっきも口にした言葉。
あの少女は。
風代カルラは――ッ!
「友介くん、どこ行くんだよ」
声は、よく知る誰かのものだった。背中にかかる優しい声音の主は、彼と同じチームで戦う茶色い髪の少年のものだ。
全ての少女の味方を自称する男、草加草次が、安堵友介の後ろに立っていた。
少年は後ろに彼がいることを分かっていながら、振り返りもせずにこう告げる。
「――っ、ちょっと……遠出だ。やらなきゃならねえことがある」
あえて、彼は突き放した。
これは俺がやるべきことだからと。
これは、俺がやりたいことだからと。
巻き込むわけにはいかない。少年の我が儘に、関係のない彼らを連れてはいけない。
足を止めた友介は、そのままゆっくり歩き出す。
これは自分が片付けるべきことだから、お前たちは来るなと――そう言外に告げていた。
「じゃあな」
そして少年は歩き出す。
男は一人、孤独な戦いに身を投じる。
だが――。
「行かせないよ」
そんな言葉が、あった。




