第三章 宴 5.恐怖と想い、後悔と決意。
千矢は大きく声を上げると、懐から一枚の札を取り出してそれを地面へと叩き付けた。
直後、爆風が地面へ向かって吹き荒び、その何割かが地面を垂直に反射し、重力に引かれ一直線に落ちていた友介達五人を、地面から数メートル上方でほんの僅かだけ真上へ押し上げた。それにより自由落下の運動エネルギーが霧散、多少の衝撃が体を襲ったものの、五人は無傷で地面に降り立った。
「なん、とか……ッ」
なった――そう口に仕掛けた所で、友介の背筋に強烈な悪寒が走る。まるで氷柱を脊髄に埋め込まれたかのような強烈な寒気。ヴァイス=テンプレートや土御門狩真が発する、どろりとした粘質な害意とは異なる、圧倒的強者が持つ、刺すような冷気だ。
息をつく暇もなく振り返る。
他四人も同様の恐怖を覚えたのだろう。気付けば皆が、背後に降り立っていた紅蓮の使徒へ体を向けていた。
目を逸らさない。足を退かない。
恐怖に負けた行為のそれら全て、目の前の捕食者からすれば格好の的である。その事実を、戦いを地肌で経験したことのない蜜希ですら感じ取っていた。
あまりに唐突な登場故に先は気にも留めていなかったが、目の前の使徒はフードを被り頬に裂傷を受けた素顔を隠していた。
ただ、フードの隙間からのぞき込む紅蓮の髪と、その奥から垣間見える黄金色の瞳を見れば、この男もまた一騎当千の神話の体現者――魔術の秘奥に辿り着きし描画師であることは自明と言える。
何よりも。
「〝穿て、喰らえ、復讐譚はこの手にあり。
許さぬ認めぬと吠えるがいい。声を枯らしてお前の慟哭を知らしめろ。
万象一切灰燼たれ。祖は業火。紅蓮の王が聞かせよう〟」
その紅蓮が、証左であった。
「『神話起動――紅蓮巡り』」
直後、使徒の魔術が起動する。
世界を喰らう紅蓮の奔流。それらが波濤となって押し寄せた。
「――――ッ! 下がれェッ!」
対して友介も崩呪の眼で対抗。紅蓮の津波の急所を貫いて叩き潰した。
ガラスの破砕音にも似た豪快な音が響き渡った。業火が破片となって降り注いだ。
未だ千度を超える熱量を持つであろう、それら真っ赤な破片が五人の頭上へ落とされる。
「避けなさいッ!」
カルラが叫ぶも後の祭り。忠告は無意味で空虚な音でしかなかった。
「――っ」
息が詰まる。
いくら崩呪の眼といえどこれら全てに対応することは不可能。
染色ならば目の前に映る光景全てを塵と切り捨て砕け散らすことは可能だろう。
しかし――今、友介は染色を発動できない。原因は不明。
「く、そ……ッ!」
必死に己が心象に訴えかけ、この理不尽を打破しろと願う。だが、彼の染色がその思いに応える気配はなかった。
焦燥に駆られ嫌な汗がぶわりと噴き出た。このままでは皆殺し。一人残らず業火の雨に打たれて焼け死ぬ。
(クソ、クソ、くそくそくそッ! クソがッ!)
そして巻き起こる大爆発。
天と地が入れ替わったかのような衝撃が少年たちを襲う。
閃光が網膜を焼き、轟音が鼓膜を激しく殴る。背中に衝撃を感じたような気もするが、それが地面に打った際のものなのか、あるいは爆発に背を叩かれたのかを判ずることもできない。
やがて身体の感覚を取り戻し、うっすらと目を開けて周囲へ目をやった。
既にその身は満身創痍。立ち上がることすらままならぬこの体たらくでは、逆転どころか生存できるかすら怪しい。
辛うじて四肢は繋がっているし、激痛を無視すれば立ち上がって戦えないこともないだろう。
しかし敵は楽園教会の枢機卿。
世界を染める使徒二人。
染色を使えず、満足に身体を動かすことすら叶わない描画師一人が足掻いたところで何ができるわけでもなかった。
周囲を見渡せば他の四人も同様にして地に這いつくばっているようであった。
しかし四人の内の誰にも致命傷や四肢の欠損はなく、まだ動ける様子ではある。
そこまで推測してようやく、紅蓮焦熱王と名乗ったあの少年が手心を加え、彼らを行動不能に追いやるだけに留めたということに気が付いた。
だが、その理由は?
それを求め、視線を彷徨わせた彼の目が、それを捉えた。
それを求め、意識を集中させた彼の耳が、それを拾った。
「あ、……ぁ、……っ」
腰を抜かしたように尻餅をつき、紅蓮の王を見上げる赤い少女。
金色の瞳が、黄金色の瞳とぶつかっている。
ずっと握って離さなかった長刀を転がしている。常に刀を握っていたその右手と左手は、地面を突いて、紅蓮の少年から逃げようとしていた。
足がアスファルトを蹴ろうとするも、上手くいかない。
結局、彼女の身体は、逃げようとする意志に反して一ミリたりとも動けていなかった。
瞳に涙を溜めているのは、自らの終わりに悲観しているから。
そうして。
そうして、彼女は口にする。
その、言葉を。
楽園教会が十の枢機卿の一柱――第十神父『紅蓮焦熱王』と名乗った彼を、こう呼んだ。
「――お、おにぃ、ちゃん……っ」
「久しぶりだな、愚妹。罪を忘れて生きた二年間はどうだった」
意味が、分からなかった。
「もう貴様の自由は終わりだ。陛下もこれまではお前の勝手を許していたが……時が来た」
――何を、言っている。
――カルラが、妹?
――あの紅蓮の悪魔の妹だと?
友介は周囲を見渡した。これまで激痛でそれどころでなかったが、改めて視界を外へ向ければ、そこは地獄絵図であった。ビルは倒壊し、人は焦げている。友介達五人は殺害の対象に入らなかったものの、逃げ遅れた顔も名前も分からないどこかの誰かは、紅蓮の少年が巻き起こした爆発によって走馬灯を見る暇すらもなく焼死体とされた。
一面は焼け野原。更地と言って過言はない。
その悪魔と、カルラが……
血を分けた兄妹だと?
「うそだ……っ」
それは、認められなかった。
ありえない、ありえないありえない。
だって、彼女は――ッ、
だが。
「葬禍王が一柱『統神』コールタール・ゼルフォース陛下の命により――」
「い、や……やめ、て。言わ、ないで……ッ!」
その先が彼の心の中で言語化される前に、さらなる真実がここにいる少年を打ちのめした。
「やめてよぉッッ!」
「楽園教会が十の支柱たる枢機卿。第一神父『鏖殺の騎士』風代カルラ。五一四七の命を散らせたその罪、今こそ償うため、その命を献上しろ」
何かが。
少年の中の何かが壊れた。
決定的に歯車が狂った。
目の前の全てが信じられなくなっていた。
楽園教会?
枢機卿?
第一神父?
鏖殺の騎士?
挙句の果てに、五千の命を散らせただと?
どれ一つとして少年の脳は許容しない。何一つ、彼の脳は受け付けようとしなかった。
そしてそれは、他の三人にも言えた。
「なん、だって……?」
「う、そ……」
呆然と草次と蜜希が呟く。意味が分からないという困惑と、そして――。
「騙した、のか……」
地獄の底から響いた声は、果たして誰のものだったのか――愚問、論ずるまでもない。
川上千矢。
楽園教会に並々ならぬ憎悪を抱く凡人が、眦を吊り上げてカルラを睨み据えていた。
「騙していたのか……っ?」
「ぁ、いや、ちが……っ」
瞳に涙を浮かべた少女が、縋りつくような表情で千矢を見た。
友介の知らない顔。友介の知らない表情。友介の知らない――少女の、恐怖。
必死に手を伸ばしていた。言葉にせずとも、彼女が何を望んでいるのかなんて分かった。
「わたっ、わた、し……」
「お前は、俺の妹が――雪が人体実験のモルモットにされていることも知ってたんだろうッ! それを、それを知ってながら、お前は――ッ!」
「ま、って……ちがう、ちがうの……わた、しは……なに、も……っ」
「黙れッッ! 言い訳なぞ聞きたくないッ!」
怒声が、少女の心を打ちのめした。
「お前が騙していたことは事実だろう。教会の人間であることを隠していたのは真実なのだろう? 俺は、俺はあの日……ジブリルフォードと対峙した時に、お前の前で醜態をさらした。枢機卿の一人に我を忘れた俺を、お前は……笑っていたんだな」
「ちが――」
だが――、
「口を開くな愚妹。誰が発言を許可した。貴様に弁明が許されると思っているのか?」
「――ぁ」
たった一言。
兄であるはずの男からの無情な声によって、悲痛に顔を歪めた少女が言葉を詰まらせる。泣きそうになって、今すぐにでも言い訳をしたいのに、できない。
それを知ってか知らずか、バルトルートは表情を何ら変えることなくこう告げた。
「それに、知らなかったでは済まされるわけもなかろう。お前も教会の枢機卿。共犯者。僕たちと同じ大罪人だ」
「――――」
そして兄の言葉を聞き、共に過ごしてきた少年の真実を知ったカルラの瞳が、今度こそ絶望に染まる。
「そんな……」
草次が、大切なものを裏切られたかのような表情を浮かべていた。
「な、なん、で……っ」
蜜希はその気弱な瞳に涙を浮かべて、いやいやをするように首を振っていた。
「ふざけてる……っ」
千矢が、怒りを隠そうともせずに低い声を漏らした。
そんな彼らを見た瞬間に、友介の中でまた何かが壊れた。
いや。
これに比べれば、さっき壊れたものなど小さなものに過ぎない。
今、彼の中で壊れて拉げて潰れたそれは、きっと手に入れかけていたものだったから。あと少しで、ほんの少しで手に入れられそうだったのに。
それが、まるで、指の間をすり抜けていくように零れ落ちた。
それはきっと、そう――絆だとか。友情だとか。仲間だとか。
そういう、とても大切なものだったはずなのに。
空で造った架橋は、端から順に崩れていった。
手のひらに残っていた優しいぬくもりが、空気に溶けて消えていく。
あの時感じた不思議で暖かな感覚が。
掴みかけた大切なぬくもりが。
全部、台無しになった。
その瞬間、少年の心も折れていく。少しずつ、少しずつ。枝葉から幹へと近付くように、大切なものが折れて、枯れて、灰になる。
友介は、ちらりとカルラを見た。
少女の目に少年の姿は映っていない。
中途半端に口が開いた状態で固まって――やがて伸ばしていた手をだらりと下ろした。
そして。
「行くぞ」
消沈し、まるで電池が切れたかのように瞳を虚ろにした少女が、兄に乱暴に立たされて、連れて行かれる。
それを、友介も、草次も、蜜希も、千矢も、黙って見ていることしか出来なかった。
ふらり、ふらりと魂が抜けたかのように頼りなく揺れるその背中はとても小さい。
ずっと隣に立ってくれていたのに。
こんな馬鹿で間抜けな自分のことを、カッコイイと言ってくれたのに。綺麗で真っ直ぐで純粋だと――そう肯定してくれたのに。
何も、出来なかった。
何も、言ってやれなかった。
さらに。
「ジークハイル」
「どしたよ、バル」
いつからこの場にいたのだろうか、名を呼ばれた白髪の少年が、薄ら笑いを浮かべながら友介たちの前へ姿を現した。
「殺していいぞ。用済みだ」
「――なっ」
虚ろだったカルラの瞳に意志の光が再度灯るも、それを無視して白髪の少年が挟んだ。
「謁見は?」
「不要だろう。あれが陛下の宿敵だと? 寝言は寝て言え。――それにもともと、貴様もその資格があるのかを試すためにあれほど派手なことをやったのだろう?」
「どうだかなァ。ま、でも、期待よりは下だったわ。少なくとも以前までのお前の見込みは外れだ。染色は使えねえし、度胸も今一つ。今回は陰険陰陽師の言う通りだったなァ」
そうして肩を回しながら友介達に近づいて行くジークハイル。
満身創痍の彼らは、悪魔が近付いて来ているというのに動く様子がない。
否、動けないのだ。
身体的なダメージもそうだが、何よりも、風代カルラの真実を知ったが故に。
「まっ。ま、って……」
赤色の少女は静止の声を上げようとしたが、声が震えてきちんとした言葉になってくれなかった。精神が擦り切れ、憔悴した彼女は声すら満足に出すことも出来なかった。
それでも、それでも。
「まって、ください……お願い、します……」
震える声で、今にも泣き出しそうな顔で、そう懇願していた。
「おねがいします、おねがい、します……わたし、ちゃんと、やりますから……ちゃんと、ちゃんと……昔、みたいに……、――っ」
その先の言葉を、カルラは口に出来ない。したくない。絶対に、したくない。
だから。
代わりに、彼が告げる。
どうしようもない現実を。
ままならない真実を。
これから彼女を待つ、運命を。
彼女と彼らに芽生えかけていた大切な何かを壊してしまう、たった一言を。
いとも簡単に告げた。
「また殺す――か」
「――ッ、ひっ、い、嫌……ッ」
カルラが恐怖に顔を引きつらせる。息を呑み、瞳に涙を溜めて拒絶する。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 嫌だッ! 嫌なのッ! 嫌ッ! 嫌嫌嫌ぁッ!」
駄々をこねる子供のように、何度も「嫌」を繰り返した。
これほどまでに何かを拒絶する彼女を、友介は見たことがなかった。
これほどまでに何かを恐怖する彼女を、友介は知ろうともしなかった。
呆然と、かつての相棒を眺めていた友介へ、バルトルートが声を投げた。
「この中で貴様がこの子と仲が良かったらしいから、教えておいてやる」
セリフにどこか違和感を覚えたが、どうでも良い。
「こいつは人殺しだ。過去に、その手で多くの人間を殺した」
だから、何だ。
「そして、これからも殺す」
それは――
友介は未だ「嫌」を繰り返すカルラを見る。彼女は人殺しを嫌がっている。絶対にしたくないと訴えている。
かつて彼女は人を殺したのだという。それが真実なのか虚偽なのかの判断は友介にはできない。
ただ一つ、彼女が誰も殺したくないと思っていることだけは分かった。悲痛な表情で首を振り、金切り声を上げるその姿を見れば誰であろうと分かること。
だけど、敵は強大で。
だから、彼女は選ぶしかなかった。
絶対に嫌だけど。怖いけど。叫び声を上げるほど拒絶しているけど。
それでも。
少女は。
「嫌だよ」
『それ』が、元に戻らないものだとしても。
「嫌、だけど……っ」
二度と一緒にいられないのだとしても。
「でも……」
彼女は、彼らのことが■■■だから。
「私、やります……」
何を、などと聞く必要もなかった。
「もう――」
それは、彼女が最も恐れていたことだけど。
それでも。
もっと、もっと……それ以上に怖いものができたから。
「私が、私じゃなくなってもいい」
「――――ッ」
その、瞬間。
彼女の頬に浮かんだのは、笑みだった。
絶望の淵に立たされているというのに。
少女を殺す絶望はすぐそこに来ているというのに。
それでも彼女は、最後に笑った。
笑った、そう――笑ったのだ。
こんな、絶望的な人生の岐路に立たされておきながら。
理不尽としか言いようのない選択肢しか存在しないというのに、少女は淡く笑ったのだ。
「ああ――」
その、瞬間。
その微笑を目にした瞬間に。
「ふざけんな」
ようやく、気付いた。
「そうだよ、ふざけんな……ッ」
心底のさらに奥で煮え滾る激情に。
彼を焦がす、破壊を紡ぐ心象世界が胎動する。
――認めるか、許せるか。
――この馬鹿に。
――カルラに。
「俺の大切な相棒に――こんな理不尽を押し付けて堪るかァアアッッ!」
刹那。
崩壊する世界。運命の鎖が引き千切られ、黙示録の行軍が始まった。
亀裂が走る。理不尽を体現するこの世界に。
崩壊が起こる。不条理を強制するこの現実に。
処刑執行――不幸を許容せぬ安堵友介の染色が、混沌たるこの世を終わらせんと猛り狂う。
「――『染色』――」
さあ、少女を救え。
「――――『崩呪の黙示録』――――」
この世の運命世界理不尽不条理不幸――万象一切撃ち砕け。
運命の歯車は確実に狂い、世界崩壊へと大きく舵が切られていく。
初めに、彼の視界に亀裂が走った。
それはあらゆる『負』を受け付けぬという覚悟の証左。彼の心象が流れ出し、世界そのものに復讐を遂げている。
それはまさしく世界の破壊に他ならない。
この世界の否定。
人として生きる以上絶対に起こり得ない矛盾を、しかしこの英雄ならば成し遂げる。
「な、に――ッ」
「――ク、クハハッ」
バルトルートとジークハイルがそれぞれ違った反応を見せる。
紅蓮の王はどこまでも傲慢に、その反撃が気に入らぬと口元を歪めて。
白亜の拳闘士はどこまでも享楽的に、その反撃こそを待っていたと口元を綻ばせて。
そして――。
「ぇ……?」
鏖殺の騎士は、どこか浮遊した声を上げて、自らを優しく抱きあげる相棒を見上げていた。染色の崩壊によって敵を攪乱し、カルラを奪い戻したのだ。
「下がってろ」
小さくそれだけ告げると、カルラを降ろし、彼は少女ですら視認できぬ速度で駆けた。彼女が認識できなかった理由には、当然ながら動揺という心理的要因もあったのかもしれない。
しかし、真に彼の動きを補足できなかった要因は極めて単純であった。
少年の速度が上がっているのだ。
染色に至ったことによるアドバンテージ。
それを存分に生かしながら、救世の処刑人――黙示録を操る裁断者がまず拳闘士の懐へ潜り込んだ。
「――あ?」
先までの速度ならば絶対にありえぬ所業――否、偉業。
しかし今、『この瞬間』ならば話は別だ。
単純な速度によって彼の意識を振り切り間合いに切り込んだのではない。
常人レベルの身体能力しかなかった先ほどとの速度の差によって完璧にタイミングを逸らし、友介は百戦錬磨の拳闘士の虚を突き、絶対不可侵たる魔獣のはらわたに切り込んだ。
しかし、これでは銃のリーチを殺し、むしろ敵の間合いへ己から踏み込んだに過ぎない。
あまりに蒙昧――否である。
友介は知っている。この拳闘士に得物の差は関係ないと。音速を超えた弾丸であろうと、正面から撃ったところでたちどころに回避されてしまうのがオチだ。
故にその壁を打破するためにはこれしかない。
ゼロ距離射撃。
本来不可能であるはずの接近を、染色発動による一瞬の動揺と、急激な速度の変化によって成し遂げたのだ。
しかし――、
「あっめェよ」
当然これで捕まえられるのならば、彼は常勝不敗足り得ない。戦場を生き抜く以上、この程度のイレギュラーなど取るに足らぬ乱れに過ぎぬもの。
故、ここで第三の揺さぶりだ。
ただし、既に仕掛けは終わっている。
『崩呪の黙示録』による世界の崩壊。バルトルートとジークハイルの二人は直接の崩壊に巻き込まれることこそなかったが――しかし。
この染色を、他者の染色に対してではなく、現世そのものに対して使用する場合、『揺り戻し』が起こる。
世界に亀裂が入った後、その隙間は当然ながら『無の空間』となる。有の世界に無の空間が紛れ込めばどうなるか――起こる現象は論ずるまでもないだろう。
物理に当てはめて考えてみれば、分かりやすい。
気体で満たされた空間に、突如真空の空間が生まれればどうなるか。回答は至極単純、空気が真空空間へと流れ込む。
ならば世界に置き換えた所でそれは変わらない。
ただ、規模が異常であるというだけ。
端的に言えば、竜巻が起こった。
ほんの一瞬、刹那にも満たぬ間。
大地が、大気が、瓦礫が、地下水が――それら全てが巻き上げられる。
それによりジークハイルとバルトルート、二人の使徒が決定的な隙を晒す。
「――――っ」
完璧なる隙。千載一遇の好機。ここを逃せば勝てる道理はなし。
故に外さぬ、決めてやる。
「――崩れ落ちろ、外道ッ」
叫びあげると同時、背後にて魔術を行使せんと構えていたバルトルートさえ巻き込んで亀裂が世界に刻まれた。
しかし。
「チッ、小癪な」
「ハッハァッ! いいね、いい線言ってるじゃねえかッ! さっきとは段違いだ。今なら食ってやってもいいッ!」
「お断りだっつぅー……のッ!」
ジークハイルは凄まじい膂力でもって大きく跳躍し、染色の効果範囲から逃れた。
また、バルトルートにはそもそも染色の効果が及んでいない。衝撃が彼の皮膚に接触した瞬間、彼の皮膚数ミリの位置で霧散し――直後、その衝撃が全て外界への爆発へと変換された。それはさながら反射のように。
好機を逃した友介。だが――その瞳に絶望はなかった。
理由は二つ。
一つは、彼の攻撃は完全にいなされたわけではなかったから。
ジークハイルは攻撃圏内から逃れたものの、その余波までを凌ぎ切ることは不可能であった。彼は無の空間による『揺り戻し』により体を思い切り地面へ叩き付けられた。バルトルートも、どれほど強固な盾といえど、友介の黙示録の呪いを全て反射することなど不可能であった。衝撃は反射の壁を通り抜け、彼の体へ確かにダメージを与えていた。
そして二つ目は――。
「お前だけは動いてくれるって信じてた。――草加ッ!」
「応よッッ!」
そう。
彼はこの場でたった一人だけは、己と共に立ち上がってくれると信じていた。
草加草次は全ての『女』の味方である。誰か、困っている少女がいるならば、損得勘定抜きにして、彼は戦場へと己が身を躍らせていく。それは自ら掲げた信念故に、決して違えられることはない。
対物ライフルを二丁、両手に握り、その銃口を使徒へと照準――発砲。
鼓膜を破きかねない轟音を発し、音速超過で弾丸がそれぞれ使徒へ直進する。
「おいおい、こんなバカもいやがんのかッ!」
「小賢しいと言っている」
乗用車程度ならば容易に破壊する威力を持つそれら弾丸を前にして、しかし使徒は動じない。
そう、動じなかった。
彼らにとってそれらは塵芥に過ぎないのだから。
そして。
それこそが、勝因。
そこが分かれ目。勝者と敗者の区切りであった。
ジークハイルは首を振って弾丸を避け、バルトルートは回避すらしない。白亜の拳闘士を素通りした弾丸は背後のビルの壁面に激突し、巨大な穴を生み出した。紅蓮の王に接触した弾丸は、しかし、ものの一瞬で蒸発し、その威力と同等の爆発が外界へと放たれた。
「ぬわっ!」
草次が慌てて爆発の射線から逃れると、彼のいた場所を真っ黒な炭に変えてしまった。
「って、ただの鉛玉かよ」
ジークハイルが落胆した声を漏らし、
「無駄な足掻きだな。塵に似合いだ」
バルトルートが侮蔑の視線を草次へ送る。
その瞬間、草次の口元が笑みの形に変化する。
その視線の先。
「俺の勝ちだ」
「なに――?」
「テメエ、なにを……?」
たった一瞬目を逸らした隙に、二人を己の間合いへ収めた処刑人が、殺意の奔流を叩き込む。
「――使わなかったな、『染色』を」
「――っ」
「カハッ」
自らの勝因を語った友介は、しかしあと一歩足りないと思っていた。
それは彼らを完全に停止させる術だ。
虚を突き、完璧なタイミングではあるが――これで取れるのならば先の一撃で決まっていたはず。
ただし、これで決着となる可能性も十二分にありえる。
故に友介は、この一撃に全てを込めつつ、しかしその数手先まで読みを進めた。
それはひとえに、彼の右眼があってこそ。染色を発動すれば彼らがどのように動くのか――それは手に取るように分かるから。
そして。
処刑が執行された。
「これで……終わりだァッ!」
ギロチンの銘は『黙示録』、崩壊の呪いを宿した断頭台が、世界を台座に唸りを上げる。
これで終わるか、それとも刹那を巡る殺し合いがまだ続くのか。
このまま刃が落とされれば、勝率は五分。戦果は常に、雲耀の先にしか存在せぬもの。
そして。
戦争とは往々にして揺れ動き、惑い、彷徨うものだ。
ここに、一人の異分子が紛れ込む。
「否だ。ここは始まり。我らの聖戦の幕開けに過ぎない」
まるで世界から溶け出したかのように、一人の男が姿を現した。
銀の長髪と美麗な顔立ち。右眼を覆う禍々しい眼帯に、純白の軍服とコート。それらは金の刺繍があしらわれており、その風格をどこか気高いものへと昇華させていた。
口元がゆるくカーブを描いて笑みを形作る。その微笑は、同性である友介すら引き込まれてしまいそうなほどに美しく、しかしどこか破滅的なものであった。
「お初にお目にかかれて光栄だよ、我が宿敵」
その顔を、知らない者はいないだろう。
魔術圏西日本帝国『帝王』――『魔神』コールタール=ゼルフォース。
世界最強の魔術師。
魔術圏最強の男。
その彼が、なぜ、ここに――?
「ここはきちんと名乗っておくべきかな」
しかしそれより早く、変化は訪れる。
落とされるギロチン。断頭台に割り込んだ哀れな男に、黙示録の呪いが叩き込まれる。
「俺は楽園教会が五つの主柱『葬禍王』が第一席。『統神』コールタール=ゼルフォース。秩序を愛する覇王なり」
魔神を中心に広がる亀裂。
中心。
そう、破壊の中核。
黙示録の渦中にて、しかし魔界の王は余裕の笑みを崩さない。
そして。
彼が取った行動は至極単純なものであった。
手を前に。
破壊の全てを片手で受け止めてやろう。
その心象、この右手があれば退くまでもない――そう告げるように、指を広げて破壊の亀裂を迎えた。
破砕、崩壊。天地転覆。
下界の全て、これより崩壊の調に汚染されよと。
過去最大の出力でもって破壊の奔流が一人の男へ殺到した。
もはや音と呼べぬ世界崩壊の交響曲が流れた。
世界が、割れた。
空に、大地に、亀裂が走り世界を潰す。割って潰して叩いて砕く。
その破壊、もはや人外の域。
神話と肩を並べるほどではないものの、しかし区画を丸ごと更地に変えるほどの破壊力は備わっていた。
全身全霊。
己の全てを込めた一撃必殺。
小さきを呑み込む大破壊。世界を狂わす毒の願いは。
「ふむ。――悪くない」
その手のひらに、うっすらとした痕を残しただけであった。
「な、ぁ……? あ、あ……ァ?」
「悪くないと、そう言ったのだよ」
「――――ッ」
今の一撃は、全力だった。
人が消えたことを良いことに、この区画丸ごとを更地に変えるつもりで放った至高の一刀だったはずだ。
あの威力を前にすれば、土御門狩真の染色であろうと、一撃で粉砕できたかもしれぬ――それほどの一発。
この戦いに幕を下ろすつもりだった。
完全な勝利を手にするはずだった。
風代カルラを、救えるはずだったのだ。
しかし、現実は違う。
「クソがァアアアアアアアアアアッッッ!」
しかし認めない、許さない。
友介はさらに立て続けに五度、秩序の覇王へ崩壊の法を叩き付けた。
世界が割れる。割れる、割れる。
しかし。
「素晴らしい。これほどまでとは。割り込んでよかった。斯様な破滅を受けてしまえば、なるほど――俺の宝石といえど、染色を使用していないとなれば、無傷でいることは叶わなかったであろう」
届かない。
届かない、届かない。
どれだけ全力を込めようとも、目の前の覇王を打倒できない。
「が、ァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
故に少年は進化する。打倒しようと、越えようと、目の前の巨悪を滅ぼさんと猛り吠える。
覚醒。
覚醒、覚醒、覚醒。
覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒覚醒。
滅ぼせぬ圧倒的な光を前にして、黙示録の処刑人が進化と脱皮を繰り返す。
既に周囲は更地となり、しかし覇王は笑うのみ。
その足を一歩後ろへ押しやることすら出来ずにいた。
そして――。
「では」
世界は、
運命は、
甘えを許しはしなかった。
「次は俺か」
直後。
少年の全身が激痛を発した。気付けば身体は空に浮いており、その至る所に痣と切り傷が刻まれていた。
「ぁ……?」
理解できない。補足不能。
脳が現状の認識を行わない。
逃避、拒否、齟齬。
「が……ッ!」
そうして思考を止めている間に、さらに十八の衝撃が少年を襲った。
――な、にが……。
さらに二十。
三十。四十。五十――百。
ものの一瞬で、紅蓮の王と白亜の拳闘士を相手に奮闘していた黙示録の処刑人が、血と肉の袋と成り果てた。
どさりと落ちた少年に意識はなく、既に戦える状態ではない。
その一瞬の蹂躙に、バルトルートは何ら表情を変えず、ジークハイルは口笛を一つ鳴らした。
「さっすが、陛下」
そして、もう一つ――。
「ゆうすけぇッッッ!」
悲痛な叫びがあった。彼に守られていた少女は、顔面を蒼白にして真っ赤な肉袋と化した少年へと駆け寄った。
「少し加減が上手くいかなったようだ。すまない」
コールタールが手加減が出来なかったことを謝罪する。
「あ、なんっ、で、なんで……」
しかし、カルラは聞いていない。
「いや、いやぁ……いやだ、いやだよ。死なないで……死なないで! ゆうすけ、ゆうすけ起きてえ! いや、いやぁ……っ」
守ってくれようとした。
助けてくれようとした。
その代償が、これ。
風代カルラを救おうとしてくれたから、こうなった……?
「いやだ、ごめんなさい。ごめんなさい……ごめん、わたしが、わたっ、わたしが悪かったから……ごめんなさい。ごめんなさい……うぅうううあああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! ああああああああああああああああっッ!」
何度も謝罪を繰り返しているうちに、とうとう少女の中の何かが壊れた。
「ぁ、ああああ……っ! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ、あああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」
大切なものだった。
自分の命よりも、自分の意志よりも。
何に変えても守りたいと思えたものだったのだ。
誰も殺したくないと思った。もうここから動きたくないと思っていた。誰とも関わらなくてもいいから、自分が自分のままでありたいと思っていた。
それでも。
自分が自分でなくなってしまうのだとしても。
この風代カルラの体を、どこの誰とも知らない殺人鬼に奪われてしまうのだとしても。
たとえ、私という意思が消えるのだとしても。
それでも、彼らを守るためならば捨てられると思った。
だって、彼らは私の時間を進めてくれたから。風代カルラという少女の凍ってしまった時を、甘やかに溶かして、その針を共に押してくれたから。
断崖の行き止まりの前に立っていた少女に、前へ進むための橋を作ってくれたから。向こう側があると、まだ進めるのだと教えてくれたから。
なのに。
「ゆうすけ……ゆうすけぇ! いや、死なないでっ! お願い死なないでッ!」
そんな彼女の宝物は、無残に引き裂かれた。
八つ裂きにされた。潰されて壊された。
「カルラちゃん……」
「……っ」
「風代……」
草次と蜜希、そして千矢が彼女の悲痛な懇願を聞いていた。
ぼろぼろと両目から大粒の涙を流しながら、少女は縋りつく。
「カルラ――」
「……けっ」
バルトルートが意味ありげに両目を細くし、ジークハイルは舌打ちを打ってその場に背を向けた。
「どこへ?」
「……興が削がれたんでどっか行きますわ」
「気分を害してしまったかい?」
秩序の覇王の問いに、白亜の拳闘士はゆるゆると首を横に振る。
「そんなんじゃねえっすよ。ただ――やっぱ戦場に女子供は邪魔だなって思っただけっす」
「なるほど。厳しいが、一つの真理かもしれぬな」
「ええ、んじゃ、俺は先に戻ってます」
「ああ、俺もすぐに追いつくよ」
そうしてジークハイルは地を蹴ってその場から消えた。
会話が消えて、カルラのすすり泣きだけが聞こえていた。
「行くぞ、カルラ」
友介に必死に縋りつくカルラの腕を引いて立たせようとするバルトルート。
「いやあぁッ! いやだ! 友介が、だって友介がぁ……っ!」
しかしカルラは聞き入れようとしない。瀕死の友介を放ってどこかに行きたくはないと、まるで小さな子供みたいに泣き出した。
「友介を助けて! 助けてよぉ……」
「――、来ないならそいつを殺すが?」
「――――っ、ぅ、ぅううう……っ」
だが、兄のその一言の前に、動けなくなってしまう。
友介は今にも死にそうなほど衰弱している。彼を放っておきたくない。
けれど、ここでずっと駄々をこねていればそれこそ彼は殺されてしまう。
だから。
「わか、った……」
赤髪の少女は、ゆっくりと、名残惜しそうにその場を離れた。
一歩、二歩と少年の元を離れて行き。
最後に一度だけ振り返った。
「――ごめん、ね……っ」
そうして、少女は――
ありえないものを、見た。
「ふざ、けんな……」
全身を血の赤に染め、息も切れ切れ立ち上がる一人の少年。
右腕をだらりと力なくぶら下げ、右眼は開いていない。右腕と同様に力の入っていない右脚に、しかし無理やり力を込めて。
敗残した処刑人は、まだ折れてはいなかった。
「もう……っ、取られて、たまる……か……ッ」
「――やめ、て……」
「もう、目の前で、……ぐぁ、ァ……ッ! ぎ、ぁ。……ぁ、何も……何もできずに、奪われて……、たまるか……ッ」
「お願い、もう、もういいの……私は良いから、逃げてよぉッ!」
「もう二度と、あんな後悔して……たまるかァッッ!」
カルラが何か言っている。知らない、聞かない。うるさいから黙っていてくれ。
これは、俺がやりたいことなんだ。
意識は朦朧で、立っているのもやっとなぐらい。自分が何をしているのかも分からないほど消耗していて、逆転の目なんてどこにもない。
それでも、少年は立ち上がった。
だって、もうあんな思いはたくさんだから。
いつかのように、大切な何かを、手の届く位置にいながら取り上げられるのは嫌だったから。
「俺のカルラを返せええええええええええエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッッ!」
そして、振り絞られる全力。
振るわれる最後のギロチン。
「――素晴らしい。やはりあなたは最高だ。我が宿敵、俺は貴方を祝福しよう」
苦も無く叩き潰された己の刃。その光景を決して忘れぬとその目に焼き付けて、少年は意識を闇の底へと落としてしまう。
落ちていく。
深海の底まで落ちていく。
その間際。
薄れゆく意識の中、彼は暗い海の底で叫んだ。
――楽園教会、今からお前ら全員俺の敵だ。
――お前らの作り出す悲劇と地獄、残らず俺が撃ち砕く……ッッ。
そうして意識は沈んでいく。
深い、深い海の底へと。




