第三章 宴 4.架橋
戦況は圧倒的であった。
どれほどの天才といえど、神の如き力を持つ超越種を相手にすれば後手に回らざるを得なかった。
ジークハイル・グルースの用いる魔術は大きく二つだ。
一つが身体能力増強。
そしてもう一つが電気の放電による磁力発生。
シンプルかつ地味なものである。しかしてそれも、使徒が使うとなれば話は別。その拳と脚は鋼の如き硬さを誇り、繰り出される拳撃は銃撃の比ではなく、振り抜かれる蹴撃は斬撃よりもなお鋭い。
一騎当千、万夫不当。
無双の雄が空を縦横無尽に飛翔し、紅蓮の花火を作っていく。
「っらァッ!」
既に三機もの無人ヘリをガラクタに変えたジークハイルが次なる得物を定めて飛ぶ。一瞬にして三機を破壊したことにより浮いたその機体に肉薄すると、すかさず拳を叩き込む。
しかし、拳を振り抜こうと体重を前へ倒したその瞬間、視界がオレンジに染め上げられた。一瞬の閃光。凄まじいまでの光量に目が眩み、刹那にも満たぬ間だけ動きが止まる。
直後、ジークハイル目掛け炎が噴き上がり、その全身を包み込んだ。先ほどまでのような、機体の損傷による爆発ではない。あらかじめ機内に仕掛けを施された、自爆を前提として作られた機体。その本領の発揮だ。
指向性の爆発は熱量、光量、轟音の全てを刺青の少年に突き刺した。――そう、突き刺したのだ。包み込んだのではなく、槍のように鋭利な爆炎が少年の腹に直撃した。
同時。閃光、暴発。
ジークハイルの視界は塗り潰され、音の奔流が少年の聴覚を潰す。
「うっわ……」
その光景を見ていた草次が戦慄の声を上げた。
とは言っても、その爆発の規模を指しての声ではない。
蜜希の鮮やかな手際に対してのものであった。
三機のヘリの破壊から四機目の自爆による反撃は、全て蜜希の隊列操作によるものであった。
先に変則的な隊列と述べたのは、真っ先に破壊された三機の位置が浮いていたためだ。他の七機に比べ、その三機はほんの少しだけ突出していた。それも、友介のような『眼』やカルラのような異常に発達した感覚を持っていなければ察知できないような微細なズレ。戦闘要員である草次や千矢ですら察知できぬほどの小さな違和感。
本来ならば気付かれないような変化。しかし、今、知識王メーティスが相対するは『雷闘神』ジークハイル・グルース。それも枢機卿において最も身近で戦いを感じてきた野生の戦士。拳一つで弱肉強食の戦場を生き抜いてきた無謬の拳闘士。ならば、微細な隊列のずれなど簡単に気が付くだろう。
――その、彼の優秀さを利用したのだ。
しかしここで、彼女がジークハイルと戦うにあたりなぜこれほどまでに有効な手段を立てられたのかという疑問が残る――が、それも至極簡単に説明できる。
というのも、認識すらされないような闇の奥底で活動する、日陰者ばかりの楽園教会の団員の中で、彼だけはそれほど深くない位置の闇にいるのだ。彼の名は、少し裏の事情に詳しければ簡単に知ることが出来る。
世界中の戦地に出没するとある刺青の少年。主な出現場所は、スカンディナビア半島『北欧禁制地区』と呼ばれる世界で最も激しい戦場。冷戦状態とされている今の時代において、唯一戦火の絶えないとされる生きた地獄。
その戦場に、戦車を投げ、ヘリを振り回す悪魔が出現するという話は有名であった。そして蜜希ほどの天才ならば、それが噂でなく真実であるという裏を取るのは簡単だ。
そしてそんな彼が、ただ力が強いだけの大馬鹿であるはずがない。その頭は、こと戦争という土俵においては無類の性能を発揮する。
話が逸れたが、蜜希がジークハイルを相手に立ちまわれているのは、最初から彼の情報はあったが故ということ。知識王メーティスは、『情報』という、戦いにおいて最も重要な意味を持つ『力』において圧倒的優位に立っていた。
そして当然、ジークハイルは敵の一人――それも男の後ろで守られているような少女――が世界最高の頭脳を持つという伝説の存在だとはつゆほども考えていない。
故、この戦いは『情報』という武器を遺憾なく振り回した蜜希に軍配が上がる――そんな甘い話があるはずがない。
『安堵くん、五秒後にジークハイルを包むあの爆炎を崩呪の眼で壊すのよ。川上くん、あなたは二秒後に時限式の爆弾を投げて。魔術で爆音を設定したりできるかしら?』
「可能だ」
千矢の答えに満足したように息を吐くと、蜜希はさらに続けた。
『タイマーは六秒に設定して。そして草加くん――あなたは私が合図をしたら機関銃で雷闘神を挽肉にしなさい』
常のオドオドとした少女からは想像も出来ないような落ち着いた声がスピーカーから流れる。淫靡にすら聞こえる声音に、困惑しながらも友介が従う。対して、草次と千矢は既に彼女の変貌ぶりを知っていたため困惑は小さい。――もっとも、驚きが少ないだけであって慣れているわけではないが。
『草加君、いまから機体を上に向けて大きく上昇するけど、きちんと狙えるかしら?』
「当然」
『いい子ね』
「いい子って……」
この場で唯一近接専門のカルラは、手持ち無沙汰な様子で蜜希の変貌ぶりにツッコミを入れていた。
彼女に割り当てられた仕事は『警戒』――イレギュラーの事態が起こるようならば事前に知らせることが彼女の役割である。
蜜希の天才的な頭脳をもってすれば敵が使徒であろうと、一人ならば不測の事態は起こりえない。
故に彼女が警戒すべきはたった一つ。
新手、あるいは援軍の存在だ。
しかし現在、それらが襲撃してくる様子はない。
『じゃあ、行くわね』
クスリ、と艶美な笑みが漏れてくる。
瞬間、五人の体に凄まじい負荷が掛かった。それは蜜希も例外でないはず。しかし、非力であるはずの彼女から苦しみの気配が伝わってくる様子はない。それどころか、どこか淫靡な吐息が漏れるだけ。
そしてそれを聞きながら、千矢が蜜希の指示通り時限式の爆弾を投げ落とした。さらにその三秒後、急激に変化する視界の中、ジークハイルを覆っている爆炎へ銃口を向けていた友介がその引き金を引く。
黒点を貫いたことにより爆炎に亀裂が生まれ――ガラスが砕けるような音と共に炎が晴れた。
同時、千矢が投げ落とした爆弾が爆発。あらぬ位置で小さな花火を咲かせた。
炎が晴れた向こうには、ジークハイルが獰猛な笑みを浮かべて爆発の起きた空間へと視線を注いでいた。
しかしその表情がほんの一瞬怪訝の色を浮かべる。
紅蓮の霧が晴れ、視界を確保した直後に起きた爆発。その閃光をマズルフラッシュと勘違いし、爆音を銃撃音だと錯覚したのだ。これにより彼の意識は今、無関係の虚空へと向いている。
『――今』
「言われなくっても!」
刹那、重機関銃が火を噴いた。一分で一二〇〇の弾丸を叩き込む大量殺戮兵器が一人の人間へ牙を剥く。
着弾――しかし。
「ハッハァッ! 狙いは良いが、分かりやす過ぎンだよッ!」
呵々と笑ってその場で体を捻る。まるで空中で踊るかの斯様な身のこなしによって、全ての銃弾を回避する。
「そんな無茶苦茶な……ッ」
引き金を引き続ける草次が文句を垂れるが、しかしそれでジークハイルの動きが鈍るわけでもない。
このままではらちが明かないと気付いたのか、蜜希が動いた。
さらにヘリをさらに二機、ジークハイルへと差し向けた。ミサイルと機関銃を発射しながら、着実に彼我の距離を埋めていく、
対してジークハイルの取った行動は異形そのもの。
彼は飛来するミサイルの一つを華麗に避けると、そのまま右手を伸ばし、彼方へ飛ぼうと推進していたミサイルを片手で鷲掴みにした。最新鋭の兵器が。ジークハイルの圧倒的な膂力の前にあっけなく掴まってしまう。
ジークハイルはおもちゃを手にした子供のように無邪気に笑うと――
「ヒャッッッッッッッホォォオオオオ――――ッッ!」
それを、友介達が乗るティルトローターへと力の限り投げつけた。
「は、はァッッ?」
「ちょっ、さすがに意味分かんなさ過ぎでしょッ!」
友介が素っ頓狂な声を上げ、カルラが怒りとも困惑とも取れない声を上げる。
しかし彼らの混乱など無視して、ジークハイルの投擲したミサイルは、本来の使用で発射される速度を遥かに上回った勢いで飛来する。
「っざけんなよ、非常識過ぎんだろうがよォッ!」
友介がすかさず染色を発動しようと意識を高めるが、しかし――その兆しすら見えなかった。
「ぐ……くそ、が……いい加減にしろやッ!」
怒声を上げるも、それは虚しく響くだけで状況の打開にはつながらない。苦肉の策として崩呪の眼を使用してミサイルを迎撃。これでなんとか、敵に奪われたミサイルの弾頭の投擲によって墜落するという間抜けな事態だけは回避した。
だが――
このほんの数秒後、彼らの網膜に、さらなる非常識が焼き付けられることになる。
最初に、無人ヘリの一機がジークハイル目掛けて突進した。空中で銃弾を避け続けられた彼も、これほどまでにサイズに違いがあれば避けることが叶わなかった。
巨大なヘリは無情にも一人の少年を捉え、勢いを殺すことなく近くのビルへ激突した。当然ながらビルの中が無人であることは確認済み。手加減も減速も不要。
無数の破砕音が鳴り響き。ビルの側面の窓の全てが砕け散った。その破片が刃の雨となって地上に降り注ぐ。風に煽られたガラス片が四方へ飛び、激突によりコンクリートまでもが巨大なブロックとなって地上へ落ちる。粉塵が晴れる気配はなく、ビルに突き刺さったヘリのしっぽが薄っすらと浮かび上がっている程度だ。
常人ならば即死。無数の肉片となって然るべき。
――――だが、彼らが相対するは使徒。あのジブリルフォードと肩を並べる真なる傑物。
ぱらぱらとコンクリートの細かい破片が落ちていく。
直後。
自動車の正面衝突が起きたかのような凄まじい音が炸裂した。もはや爆発とも呼べる音の奔流の源は、当然ながらビルに突き刺さった無人ヘリから。
起きた現象は至極単純。ヘリが縦横無尽に振り回されたことにより、周囲のコンクリートを破砕していたのだ。
内側から爆発したかのように粉塵が晴れ。振り回されてビルを破壊するヘリがあらわになる。
無人ヘリの尾部を握り、まるで斧か何かのように片手一本で振り回すジークハイル・グルース。
「んじゃ」
彼は右手にヘリを握ったまま近くのヘリへ飛び移ると、拳を叩き込み機能を停止させる。しかし、先までのように爆発する気配はない。
だが――、
「攻守交替。次は俺の番な」
揚力を失って落下しかけたヘリの尾部を左手一本で掴み、左右のヘリを自らの頭上で叩き合わせた。
火花が散り、破片が飛ぶ。耳障りな音が五人の耳朶を撫で、明らかに変質した気配が充満する。
「すぐ潰れんなよォ……?」
そして始まる蹂躙劇。
残り四機となった無人ヘリの一つへ一直線に飛翔すると、右のヘリを叩き付けた。上から下へ一文字に振り下ろされたヘリは、もう一方のヘリのプロペラを容赦なく叩き折り、さらにその機体を拉げさせた。
金属片が八方へ跳び――直後、爆破。
当然破片が飛び散る。自動車サイズの手榴弾が爆発したようなもの。爆炎と共に四散する致死の刃が球状に放射された。
それらは残り三機の機体に重大な損傷を与えると共に、友介達が乗るティルトローターにすら届き得た。
「――っ、な……ッ、伏せろッッ!」
友介が叫ぶよりも速く、他の四人は先に体を丸めて身を守っていた。
機内に致死の嵐が吹き荒れる。鍛えられていない天然の刃が壁や天井に突き刺さる。
一瞬のことであったが、友介からしてみれば永遠の様に感じられた。まるで生きた心地がしない。破片が一つ、どこか急所に当たっていれば即死していたのだ。
「だい、じょうぶか……ッ」
「ええ、なんとかね」
「俺もいける……」
「こっちもだ」
『私も無事よ』
しかし己が身の無事を喜んでいる暇もない。
視界の向こうでは悪魔が笑っていた。
彼は言っていた。次は俺のターンだと。
彼の攻勢は、まだ始まったばかりだ。
「そんじゃァ、続きだオラァッッ!」
そしてジークハイルがさらなる追撃を掛けようと前景の姿勢を取った、その瞬間――、
「馬鹿が。〝それ〟には騎士が乗っている。潰してどうする」
紅蓮が、噴き上がった。
その現象を言葉で表すには、そう形容する他なかった。
炎? 業火? 何だそれは生ぬるい。空を染めた紅蓮の奔流は、その程度の卑近な語彙では表現できるものではない。
噴出する熱。湧き上がり続ける紅蓮。無限に焦がす永久機関。
天上天下を焼き尽くす。地獄の巨神が空を穿つ。物皆全て灰と化せ。
遍く我欲を焼き尽くす、焦熱地獄が顕現する。
「優しく壊せ、阿呆が」
「――――ッッ、っ、な、ァッ?」
声は、機内から。
至近から届いた声に、五人が瞠目する。あの蜜希ですら、動揺を隠しきれていないことがスピーカーの向こうから伝わってくる。
ベルトを外す暇などない。それどころか、何かを叫ぶ気すら時間すら与えられなかった。
「降りろ。目障りだ」
紅蓮の髪は左右が刈り上げられており、そこにラインが入っている。黄金色の瞳は炎のような髪とは対照的に、絶対零度が如く冷え切っている。右頬に深々と刻まれた火傷の痕は、痛々しさよりも威圧感を与えてくる。
纏っている服はどこからの宗教の礼服だろうか。紅蓮の赤を基調とし、所々に金の刺繍を施された礼服は、彼の印象に見合った苛烈なものだ。
友介は直感で理解した。
この男もまた、枢機卿。
纏う覇気の種類は似ても似つかぬが、その絶対値あるいは総量は前者と同等。十機のヘリを呵々大笑して手玉に取るあの使徒と、全く同等の存在感を放っていた。
「第十神父、『紅蓮焦熱王』」
名乗りと同時、彼は意味深にカルラを一瞥し、直後、彼の足元から真下へ向けて紅蓮の槍が射出された――しかし変化はそこで止まらない。
機体底部から突き出た紅蓮の槍は開花する。蕾が咲き誇るように、無数の線に分かれて開いていく。
それはあるいは、逆さ向きにしたイソギンチャクのようにも見えるだろう。不規則に揺れるそれら無数の紅蓮の線。
「ここに首を置いて行け――黙示録の使徒。穢れた英雄。我欲を振り乱す染色の走狗が」
その意味は分からない。しかし、友介へ向けて放たれたその言葉には、並々ならぬ赫怒が込められていた。
そして――。
「――まずは堕ちろ」
それら無数の紅蓮の線が、天へと昇る流れ星と化す。ゆらゆらと不定形だったそのベクトルが指向性を手に入れ、我先にとティルトローターを貫いていく。
結果、機体は完全破壊。友介達を殺害する気はなかったのか、あれほどの破壊に晒されえておきながら誰一人直接の外傷を受けておらず、また、ティルトローターが爆発することもなかったため、奇跡的に命を繋ぐことはできた。
しかし、代わりというのはあまりに絶望的なことに、五人全員が空へと投げ出されてしまう。
「しま――っ」
声を上げる暇もない。久方ぶりに感じる不快な浮遊感に心臓を掴まれ、友介の思考が一瞬空白に染まりかける。
しかし、
「友介、掴まって!」
「――ッ、サンキュッ!」
伸ばされたカルラの手に気付いた友介がすかさず手を伸ばす。
さらに視界の端に映る蜜希へ手を伸ばす。しっかりとその細い手を握る。その向こうには草次がいて、その草次は千矢の手を握っていた。
「――――っ」
左から、カルラ、友介、蜜希、草次、千矢と順番に架け橋を作り、地面へと落ちる。
絶体絶命。だというのに、なぜか友介の胸中は少し満たされたような、あるいは救われたような気持ちになる。
その感情の正体を掴む、その前に――
「来るッ!」
「てかその前に着地を何とかするぞ!」
第六感を持つ風代カルラが危機を察知し、叫ぶ。続くように友介が声を荒げた。
もはや彼の心の中にあった暖かなものが覆い隠され、現実へと意識を向け直す。
「くそ、誰かなんか手はねえのかッ!」
「安全に着地する方法ならあるぞ」
「あるのかッ?」
応えた千矢に友介が喰い気味に尋ねた。
「ただしいくつか忠告がある。まず、少し衝撃があるから覚悟しろよ。そしてもう一つが――手を放すな」
彼は、力強くそう言い切った。
「ある程度地面に近付かなければならないからな。途中で恐怖に駆られて手を放そうものならその瞬間に死が待っていると思えよ」
手を放すな。
ただそれだけの言葉が、どこか優しいものに聞こえるのは錯覚だろうか。
――分からない。
それでも。
「行くぞッ!」
この時、安堵友介は何かを手に入れたのだと確信した。




