北塔の賢者
「ねぇ、知っていて?あの子、あたしから逃げようとしているのよ」
毒々しいほどに赤い唇が笑みを形取った。
「止めてくれるわよね。お友達のあなたの言うことならあの子だって考えるもの。止めてくれるわよね」
唇と同じ赤のマニキュアをした白い手が俺の頬をなぞった。
「あたしのために」
この台詞は自分に自信がなきゃ出てこない。確かに彼女の美貌は人に誇るに足るものだった。でも、俺はこの人が怖くてしょうがなかった。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなるのだ。
「ロイが止めても僕がやめるわけないでしょう」
いつの間にか姿を現していた『あの子』、ティムが俺をこの状態から救ってくれた。
「お前、食事当番だろ。行けよ」
擦れ違いざまに一つ肩を叩くあたりがやっぱりこいつだった。
彼女が、北塔の賢者が手放したくなくなるのもわかる。わかるけど。
「僕はあなたが妨害しようと昇格試験は受けます」
「あたしの許しがなくて受けられると思っているの?あなたはあたしの弟子なのよ。師匠の許しがなくて試験が受けられるかしら。前例なんかないわよ」
「例は僕が作ればいいだけです」
階段を下りる俺の耳に師弟喧嘩が聞こえてくる。
「あたしは許さないわ」
双方とも自信家だから怒鳴り合いなんかしないけど、そっちの方がよっぽどましなくらいに冷え冷えとした会話だった。
階段を降りきって外に出るとまず中央塔が目に入る。この学校の中心、あの塔には俺たちが見ることも許されない魔法書が大量に眠っているという。何人たりとも入ることは叶わない神聖な場所だった。
俺はティムがいつか中央塔の賢者と呼ばれ、あの塔の主人になるだろうと思っている。全くあいつは天才だった。この魔術師養成学校『魔法の都』の長い歴史の中でも指折りの天才だった。中央塔の他にもあと四つ塔があって、それぞれに塔の賢者という学校のトップの連中がいるけど、ティムが近いうちにそれになるっていうのは確定的だった。とは言っても、今のあいつは北塔の賢者に師事する魔術師見習いの身分でしかなかった。魔術師にならなければ全寮制の学校から出ることも叶わず、師匠の許しがなければ魔術師の昇格試験も受けられない、そんな存在だった。
ティムの場合試験を受けることはまず北塔の賢者が許さない。彼女の弟子への執着はすさまじいものだった。
金髪の背の高い美青年というのがティムの外見上の評価だった。彼女にはティムの容姿も、ティムの才能も手放しがたいもの。けれど魔術師になればティムは自由を手に入れることができる。彼女のそばを離れるのは自由で、そしてティムは彼女を嫌っていた。 まあ、俺にはどうしようもない問題だったから、見守っているしかなかった。
ティムに魔術師昇格試験があるように、俺にも見習い昇格試験が待ちかまえていた。俺は未だに見習いよりも下の生徒と呼ばれる身分だった。見習いになれば今やっているような理論だけでなく、魔法の実践もさせてもらえるようになる。俺にとっては今が正念場というべきで、はっきり言って北塔の賢者の師弟争いに関わっている暇はなかったけど、ティムは俺の友達だった。つまりはそういうわけだった。
俺が久々に北塔の賢者に呼ばれたのは十日後、見習い昇格試験が終わったその日のことだった。
その前までの一日とあけず呼び出されていたことを思い出すと恐ろしいくらいの間隔で、あの日に一体どういう論争が行われたのだかを思うと気も遠くなるほどだった。
「合格おめでとう。今日からあなたは魔術師見習いね。そしてあなたの師匠となるのはこのあたしだわ」
開口一番そう言った彼女に俺は言葉を失った。
実際の所試験は終わったばかりで結果など出ているはずもなかったのに。
「荷物をこっちに移しなさい。塔の賢者の弟子は塔に住むと決まっているのよ」
俺は呆然としたままで、でもここで言いなりになるわけには行かなかった。
「あの、試験は終わったばかりで合格とは決まってはいないんですが…」
恐る恐るそう言った俺に彼女は嘲笑にも似た笑みを浮かべた。
「あたしが合格と言っているのよ。そうじゃないはずがあるかしら」
つまり彼女はそれだけの権力を持っているわけだった。
「だからといって見習いには師匠を選ぶ権利があるという決まりがあるのを忘れているわけじゃないでしょう」
冷ややかな声が後から聞こえてきて、俺はまたティムに助けられたことを知る。ほんの僅かにでも付け入る隙のない寒々とした口調だった。
「僕の時はすっかり失念なさっていたようですが。ロイまでを自由にできると思ったら間違いでしょうね」
「そうやってあなたはまたあたしに逆らうのね。だけど他の魔術師の誰が彼を弟子にしようと思えるの?あたしに逆らってまでね」
確かに彼女に睨まれればそれで終わりだった。誰が俺を引き受ける勇気を持ち合わせるというのだろう。俺はティムに目を向けた。
奴はやっぱり冷ややかな微笑を浮かべていた。
「東塔の賢者が」
俺がいないところでこいつは勝手に決めてきたようだった。けれど今はそれにすがるしか方法はなかった。東塔の賢者ともなれば彼女と同格。彼女に面と向かって負けない数少ない人の一人だった。
俺はこの北塔の賢者が怖かったし、苦手だったし、いわばこの人の前に出ると蛇に睨まれた蛙状態で、だからこの人でなければ誰に師事することになってもいいと思った。
「あのご老体がね。あはは、よくもね。よくもあなたあの老人を動かせたものね。条件は何?あたしの排斥かしら。あたし、あの老人には嫌われているものね」
「条件は僕が魔術師になることだけです」
「昇格試験は受けさせない。あたしがそう決めているのよ。弟子であるあなたがどうにかできることではないわ」
ティムの顔には動揺の影すらも見付けることができなかった。
「例は僕が作ると言ったはずです。あなた以外の塔の賢者と学校長の許可は既に下りています。僕は今日から試験ですから、もうここに戻ることはないでしょう。それからロイに手を出すのはやめておいた方が賢明でしょうね。もう学校ではロイは東塔の賢者に師事することになっていますし、いくらロイが北塔にいたとしても僕はここへは絶対に来ませんから。ロイ、行こう」
ティムに促されて部屋を出るとき俺はどうしてか振り返ってしまっていた。
屈辱に震える彼女の姿が俺の目に焼き付いた。その時、このままで終わるはずがないと思わずにはいられなかった。
それから俺は東塔の賢者に師事し始めて、それなりに楽しく忙しく充実した日々を送ることになった。
魔術師への昇格試験には数日を有するらしくティムの姿をしばらく見かけることはなかった。
俺が異変を知ったのは、俺の昇格試験の日から数えて五日目のことだった。
東塔の賢者は人使いが荒いというべきか当然というべきか、魔法の儀式に必要なものや様々なものの買出しは俺の仕事だった。見習は師匠の許可さえあれば学校から出ることもできるので、街のそういった店に俺は買出しに行った。
そこで店の親父が眉を顰めて小声で俺に尋ねた。北塔の賢者が最近良く店を訪れる、他の系列の店でもよく姿を見かけるという話だ、しかもうちにないような特殊なものを注文していく、一体彼女は今何の研究をやっているのかね。
北塔の賢者が自ら買出しなどをするのさえも妙な話だった。彼女は大方そういうことは弟子…はティムだからやらせないにしても俺や他の生徒連中にやらせていた。
しかも親父の言う特殊なものというのも気になった。
俺は彼女のことをある程度は知っているつもりだった。彼女がこのまま諦めるとは俺はちっとも思えてなかった。勿論当事者であるティムもそうは思っていなかっただろうが奴は今試験で関わる暇もあろうはずがなかった。
関わるべきでないということを俺は勿論知っていたし、他の奴がそんなことをしようとすれば間違いなく止めただろう。でも、俺はやっぱりティムと同じく当事者だった。彼女何をしているかぐらいは確かめておくべきだと思った。
店の親父に頼むと彼は快く彼女の注文品のメモを見せてくれた。
俺はそれを写すと学校に戻り、いろんな文献やらをあさって、彼女の目的を探し出した。
愕然としたといっていい。
俺はそれをティムに伝えたかった。でも奴は試験中でどこにいるかを俺は知らなかった。東塔の賢者に告げようかとも思った。でも俺は自分の調査結果に自信はあっても弁舌に自信はなかった。俺はなんといってもなりたての魔術師見習いで、彼女は年季の入った魔術師、しかも北塔の賢者と呼ばれる最高級の魔術師である。この調査結果にしても俺が勝手に見当をつけただけで本当は他の目的に使われるということも考えられるのだ。もしそうであったら彼女は勝ち誇り、俺を排斥するだろう。そればかりか、師匠である東塔の賢者にまで咎は及ぶかもしれない。
だから、俺は一人北塔に忍び込むという手をとらざるを得なかった。
北塔の最上階が彼女の部屋である。噂によるとその上にも部屋があって、そこが寝室になっているとかいう話だった。
多分あるとすれば彼女の部屋、もしくはその寝室だろう。
真っ暗な中を俺は手探りで階段を上り、その部屋のノブに手をかけた。中にも明かりはついていなかった。人の気配も感じられなかった。
それでも俺は細心の注意を払いながら扉を開けた。
階段や廊下と違って、部屋には窓があったから、月明かりで仄かに中の様子を見ることができた。よくこの部屋には呼び出されていたから、中の様子は良くわかっている。
代わりはなかった。とすると他の部屋…。
その時俺は部屋の隅に眼を止めた。見慣れぬものの存在を認めた。あれは多分、俺の考え通りのもの。布をかぶせられていてそれが何なのだか見えはしなかったけど、大きさから考えてもそれに相違なかった。
「あなたは素直でいいわね」
突然声がして明かりがついた。
振り返ると北塔の賢者が艶然として立っていた。
「罠を張ればすぐに食いつくし、騙しがいがあるというべきかしら、ないというべきかしら」
「罠?」
「ええ、当たり前じゃない。店主にああ言わせたのもあたしよ」
迂闊なのは俺の元々の性格だったけど、まさかこのように利用されるとは思ってもみなかった。
「じゃあ、あそこにおいてあるものも俺を騙す為の小道具ですか?俺を騙してどうするつもりです?」
「あら、小道具だなんて。そんな、あたしがあなたを騙す為だけにそんなことするわけないじゃない。ただ騙して面白がるなんてあたしそんなに暇じゃあないわ。あたしはただあなたにここに来てもらう用事があっただけよ。それも人に知られずね」
彼女は俺の脇をすり抜け、それの前に立った。
「これがなんだか、知っているんでしょ。でもね、あの材料だけじゃ足りないの。あたしの望むものには少し足りないのよ」
振り返って微笑む彼女の瞳にはある種の狂気があった。
「あたしが欲しいのは血の通った温もりなんだもの。このままじゃあそれがないのよ」
彼女は無造作に布を取り払った。
予想はしていたけれど、こう眼前に現れると言い知れぬ恐ろしさがあった。
それは人形だった。
精巧な、本当に人としか見えないほどに精巧な人形。その髪も肌もいろいろな材料を調合して人と同じ組織に作られたもの。
そしてその人形の顔立ちは俺のよく知る、俺の友人のものだった。
「上手に出来ているでしょう。あたしの最高傑作だわ。でもこれはまだ入れ物に過ぎないけどね」
ふふっと笑いを漏らして、嬉しそうに彼女はその人形の頬を撫でた。
「人造人間とはまた違う、機械人形。ちゃあんと動くのよ。あの子の声で愛をささやきもするし、あたしを抱きしめもする。でもそれじゃあ足りないと思わない?だってこれの頭の中は空っぽなのよ?あたしはあの子の姿を愛しているし、あの子の顔も声も愛しているけど、あの子のあの頭脳の性格も魂も愛しているのよ。…それで、あたしがどうすると思う?あなた調べてきたんでしょう?」
俺はここに来るべきではなかった。それを今はっきりとわかってはいるものの逃れられるすべはない。
「答えはなあに?」
それを口にするのが怖かった。肯定の返事が返ってくるだろうことが怖かった。けれど答えないわけにはいかなかった。彼女の視線が怖かった。
「魂を人形に封じ込めること」
俺の声はかすれた。
俺が愕然としたのはこのことだった。人形を作るだけだったら、それは薄気味悪く思えはするが無視しただろう。けれどあいつの、ティムの魂をとられるわけにはいかないと思ったんだ。
「正解。よく出来ました。あの子の魂をこの中に封じ込めて…ねえ、見えはするのよ?聞こえもする、考えることも出来る、けれど体を動かすことは出来ない。そしてあの子はあたしがすることをこの中から一部始終見ていなければならないのよ。あの子にはどんなに屈辱でしょうね…あはははは」
狂っている。明らかに彼女は狂っていた。
「でも」
どこか底光りのする瞳で彼女は俺をねめつけた。
「こんなことを告白する為だけにあなたをここに呼んだわけではないのよ」
そして彼女は微笑む。
「ねえ、知っていて?あたし、あなたも結構気に入っているのよ。あたしね、この人形に温もりが欲しいの。今のままじゃあ、つまらないんだもの。人としての温もりが欲しいのよ。それにはどうしたらいいと思う?あたし考えたんだけど、人形に血を通わせるっていうのはどうかしら?中にね、発熱する機械を入れて、それで全身を通う血を温めるの。別に血も作ってもいいんだけど、せっかくあなたみたいに可愛い子がいるんだもの。ティムの体はティムそのままで取って置きたいと思うしね。これが学校にばれたらあたしもうここにはいられないことぐらいわかっているの。そしたらあなたに会えなくなるし、それぐらいだったら…ねえ、あなたの血が欲しいのよ」
彼女は一歩俺のほうに踏み出した。
俺は恐怖に喘いだ。俺は後ずさった。後ろ手に扉を探した。一気にこの場から走り去りたいぐらいだったけれど、彼女から目をそらすことも出来そうになかった。
「ねえ、いいじゃない。あたしが永遠に愛してあげる」
彼女は微笑む。
俺はこのままここで…死ぬんだろうか?
彼女の白い手がゆっくりと、俺のほうに伸びてくる。
「相変わらず、考えが浅いことですね」
嘲笑を含んだ聞き慣れた声がしたのはその時だった。
「僕があなたの自由になると思ったら大間違いだ」
声がした方に目を向けると奴は傲然とその場に立っていた。
あの、人形とそっくりな顔立ち。けれど人形にはこんな表情は出せないだろう。傲然と軽蔑と冷徹な…。
「あなたには同情の余地もない」
忌まわしい人形にちらりと目をやって、ティムは何事かを呟いた。
小さな爆発音がして人形が砕け散った。人の燃える異臭が漂う。
「やはり僕の為にはあなたは排除しておいた方がいいということだろうな」
あくまでも冷たい調子だった。
「そうやっていつも…」
それまで意表を突かれて呆然と見ていた北塔の賢者が呪うように呟いた。
「自分ばかり正しい振りを。背徳を為したのはあたしだけだとでも?」
「あなたもあれのように焼かれたいのか?」
冷たい視線が彼女に向けられる。
俺はぞくりと背筋に震えが走るのを感じた。
ティムの冷たさが恐ろしかった。ティムの怒りは当然のはずだったが、それ以上の何かを感じさせた。それは多分、ティムが彼女に師事していた数年間に積もった二人の事情ってやつだったのかも知れない。
「焼くならば焼けばいい。あなたみたいな天才にはね、簡単なことでしょう。そうしてあたしの死を一生背負っていくがいいわ」
彼女は高笑った。
「ロイ、行けよ」
ティムが俺に言った。
「今日お前はここに来なかったんだ。行って、全てを忘れろ。そして、もう僕に関わるな」
ティムは俺を見なかった。視線は彼女に向けられたままだった。
「何…」
「行け」
逆らうことは許さない口調だった。
ゆるゆると俺は動いた。部屋を出る時まで俺は二人から目をそらすことが出来なかった。
階段を降りる俺の耳に彼女の高笑いがまだなお届く。
俺は何か息苦しさを覚えながら北塔を出た。
あのときの息苦しさが何だったのか、俺は未だにわからない。
あの時の光景の全てを俺は忘れられずにいる。
十数年が過ぎた今でも。
俺は師匠の後を継いで東塔の賢者と呼ばれるようになっていた。
あの後、何があったのだか俺は知らない。ただ北塔の賢者、彼女は謎の失踪を遂げたということになっていて、あの事件が表沙汰になることはなかった。
彼女がどうなったのか、俺は知らない。
俺はそれをティムに訊くことはなかった。訊くことは出来なかった。
ティムは今北塔の賢者となっている。彼にとっては忌まわしい思い出があるだろう北塔に住んでいる。
俺はそれについてもティムに訊くことはなかった。
俺はあれ以来ティムとまともな会話を交わしたことはない。
ただ俺は未だに奴を友人だと思っているし、奴もそう思っていることを疑っていない。
つまり俺たちはそういう仲だった。