ザン「緊急事態発生です!」
読んで下さってありがとうございます。
馬を世話する人間の朝は早い。
陽が上がる前に朝飼い(馬の朝ご飯)を配らないといけない。その後馬達は朝の調教に出かけていく。それを見送って、敷き藁を新しいものに交換するのだ。古い敷き藁は、馬の尿とボロを含んでとても重い。しかも醗酵していくものだから、夏の厩舎は醗酵の際に出る熱で暑く、臭く、きつい。
「あつう……」
手ぬぐいで流れる汗を拭き、再度大きなスコップでボロを拾う。翻訳されているからか、木でできているこの道具は私の耳には、スコップと聞こえる。私の中のスコップは、砂場遊びの時使っていたもので、大きさは違うが形状は似ている。
「ユキ、水分しっかりとりなよ」
先輩であるリナンも随分汗をかいていて、シャツが透けている。腹筋もバリバリに割れていて、なんというかもったいない人選である。馬の厩務員している場合じゃないだろうと思ういい身体だ。
「はい。ていうか、ここの国って夏、めちゃくちゃ暑いですよね」
関西人の私は湿度の高い夏に慣れているが、ここも負けず劣らずだ。
「まあね。俺は暑いのは得意だけど、ユキさんは駄目そうだよね」
得意かといわれれば、そうではないが、苦手ということもない。馬の世話係りでなければ。
水分捕ろうと、置いていた水筒と(見た感じピッチャーにみえるんだが、そう聞こえる)コップを取っていたら、何だかこんなところに来るのはおかしいドレスを着たお姫様が立っていた。
小首を傾げ、「あなたがユキ?」と尋ねられて、頷くと「あなた臭いわ」と言われた……。そりゃそうだ、今はボロを運んでいるのだもの、匂って当然だから、「そうですか」とシイナさんが入れて持たせてくれたハーブティを飲む。
喉が乾いたと思ったら脱水症状の始まりとはいう。
「あなた、本当に王太子殿下の馬の世話係りなの?」
上から下までジッと見られる。ツナギのようなものを着ているが一応胸はサラシで隠している。ええ、ささやかですが。リナンの胸筋よりも高さも質感も負けてますが、一応ね。
「そうです。寝藁ひいたりご飯上げたりしてます」
お姫様は眉間に皺を寄せ、「じゃあ勿論、このザンドルフの世話だってやっているのよね?」と言う。
お姫様は微笑んだが、私には裏の顔が見えた。この人は私に文句があってきたのだと、わかった。ここに来てからは、男の格好をしているから絡まれることなどなかったのに。
ちょうど洗い場に繋がれているザンドルフは、確かにシルヴィー殿下の馬だが、扱えるのはリナンとここにはいない二人だけだ。私は直々にザンドルフに触るなと言われている。
「いえ、私はザンには触れません」
シルヴィー殿下に言われて触ることなど出来るはずがない。
「殿下の馬はザンドルフしかいないのに、殿下の馬係りっていうのはおかしいじゃない」
それもそうだが、そんなことを言われても困る。
「私にだって、馬くらい扱えるわ!」
お姫様は、そう言ってザンドルフをくくってある引き手をひいた。
「だ、駄目です! あ、あぶなっ!」
「きゃああ」
「ユーフェリア!」
お姫様は、頭を振っただけのザンに鼻先で突き飛ばされた。
「うぅ……大丈夫?」
お姫様を庇って跳ばされた彼女を抱きしめながら地面に尻餅をついてしまった。そのときに手首をひねってしまったかもしれない。凄い痛みに顔を顰めながら、お姫様の顔を見ると彼女は真っ赤な顔になって「リナン……さま……?」と呟いた。
「ヒヒヒーーン!」
ザンドルフが嘶く。初めて聞いたザンドルフの嘶きは、身体を震わすかと思うほどの大きな声で遠くまで聞こえるだろう素晴らしいものだ。
リナンは、ザンドルフの引き手を慌てて支柱に括り付けて、お姫様を助け起した。乗られていた私もやっと一息吐く。
「リナン様! そんな格好で……何故……?」
私にも手を貸して立たせてくれたリナンは、私に「ごめんね。直ぐに人が来ると思うから」と謝ってユーフェリアと呼んだお姫様を連れて行った。どうやら二人は知り合いらしい。
「い、痛っ……。冷やさなきゃ……」
困った、ザンドルフをここに置いていけない……。
敷き藁は、リナンが変えてくれているから私がかえしてもいいんだけど、この手で暴れるザンドルフを制御なんて出来ない……。
困っていたら、シルヴィー殿下が走ってきた。誰か来るって殿下のこと? と驚いた。
「どうした、ユキ。何があった?」
あれ、なんでばれているんだろうと不思議に思いながら、「あ、ちょっと手首をひねってしまって。ザンをお部屋に帰せなくて困っています」と告げたら、シルヴィー殿下は周りを見渡し、「リナンは?」と尋ねる。珍しく低く鋭い声音にビックリした。
こんな声も出すんだ……。
「あ、あのトイレです。お腹痛いって走っていっちゃって……」
まさかどこぞのお姫様を拉致ったとかいえないし。
「ザン、お前は私の最高のパトーナーだ。ありがとう」
ザンドルフの首筋をポンポンと叩いて、シルヴィー殿下は鼻面を寄せてくるザンドルフを抱きしめる。
はいはい、どこもここもお熱くていいですねと少しすねたくなるが、馬にヤキモチを焼いても仕方がない。
「殿下、ザンドルフは私が帰しましょう」
シルヴィー殿下についてきた護衛騎士のシャイアーさんの言葉に頷き、シルヴィー殿下は私が庇っているほうと反対の手首を掴み歩き出す。
「手当てをしなければ」
「あ、大丈夫。シイナさんに夜やってもらいます。ちょっと冷やせばなんとか」
「お前は馬鹿か、夜まで何時間あると思っているんだ」
呆れたような声に、私はこんなことで忙しいシルヴィー殿下を煩わせてはいけないという建前と、こんな臭い私の横に来ないで欲しいと思う乙女心に揺れた。
無理、無理、無理……。ちょっと酸っぱいくらいに臭い私をつれて、殿下は私室のほうに戻った。
「シルヴィー殿下、珍しいお時間にお帰り……。……どうしたの? ユキさん」
シルヴィー殿下に引き続いて入ってきた私に驚きながら、シイナさんが慌てて寄ってきた。
「冷やすために氷をもってこい。あと侍医を呼べ。折れているかもしれん」
「お、おれてる……?」
骨を折った事のない私はその折れているという言葉に引きつった。そういわれてみれば、手首は腫れているし、痛みも普通じゃない。
「ユキ!」
「ユキさん!」
クラリと貧血を起こした私は、酸っぱい匂いのする体をシルヴィー殿下に抱き上げられた。
「止めて……。臭いからそばに……寄らないで……」
やっとのことで、そう言ったのに、二人は目を見合わせて爆笑した。
酷い、酷すぎる……。
「可愛いわ、ユキさん。着替え持ってきてあげるわね」
二人きりにしないで~という私の心の声を思いっきり無視して、シイナさんは部屋を出て行った。
ソファに横たえられ、シルヴィー殿下のふとももに頭を乗せられる。
不敬罪で殺される……とは思ったものの、貧血を起こしている私は冷たくなった身体を左手だけで抱きしめた。
「どうした? 熱が出ているのか……」
寒い……、何故だか寒いなと思っていたら、熱があるようだ。
シルヴィー殿下は汗に濡れて乾きかけて、通りの悪くなった私の髪を撫でてくれる。
「馬を扱う人間が、匂いなんか気にするか。じっとしておけ」
そういわれてみればそうだ。ザンドルフを愛しているシルヴィー殿下は、よく厩舎にくる。高貴な人だから、馬の脚をふいたりするのは、お付きの人だと思っていたけど、殿下はすすんで手入れをする。ザンドルフも他の人間だと厳しい指導をしてくるくせに(回し蹴りとか噛み付きとか)シルヴィー殿下だと目を細めて、気持ち良さそうに拭かれているのだ。
シイナさんが置いていった氷水の入った桶とタオルで私の手を冷やし、顔や首筋も拭いてくれた。
「気持ちいいね……」
そこにいるのがシルヴィー殿下だということを忘れて、私はそう言った。熱をだして、ちょっと昔に記憶が戻っていたのかもしれない。
「そうか――」
「お母さん……」
私は段々と眠くなってきた。貧血のせいかもしれないし、熱のせいかもしれない。
私は夢の中で、母に撫でてもらっていた。
お母さん、帰れなくてごめんなさい……。
夢の中の母は困ったような声で「愛しているよ」といってくれた。ちょっとお母さん、風邪ひいているんじゃないかな。だって、声が少し低い。
でも私は安心して、眠りに落ちた……。
はい、夏場の馬のお部屋は超くっさいです。目が沁みる(笑)。お掃除している人は大変だなと思います。掃除したら痩せるでしょう! でも無理(笑)。