1.凱旋に現る、一輪の花
緋色の世界は飛び散る血潮と歴史を塗りたくるような炎、剣戟のぶつかる無機質な音によって彩られる。
それは一つの地獄絵図であり。
それは一つの英雄譚でもあった。
風を切り裂くような轟音が戦場の中で一際に響く。
途端、噴水のようにびゅうびゅうと血をほとばしらせ、鉄の鎧を着込んだ男の胴体から首が消し飛ぶ。男の体は糸が切れた人形のようにくたりと膝をつき、やがて赤い地面に伏した。
まるで石ころのように転がる首。
すでにモノでしかないその頭を、鋭いツメのついた白い手が掴み取る。またひとりと命を摘んだ白銀の男はそれを軽く一瞥し、すぐに興味を無くしたように後ろで控える男に渡す。男は茶色の毛並みをした虎の顔を持つ小柄な獣人で、彼はそれを受け取るなり手に持っていた白い袋に納めた。
ぱちぱちと炎の燃える音がする紅い世界。地獄絵図のような戦場の中、剣を持つその男はひたすらに白く、銀色に輝いていた。
それは白銀と漆黒の毛並みを持つ虎。
獣人らしく体つきはヒトと同じだが、碧の板金鎧を着込んだ下にのびる手足は白と黒の体毛で覆われており、掌は大きく人間のものと同じだが、指先に伸びるツメは剣のように鋭い。
全体的にどっしりとした重量感の有る、大柄な男。しかしそんな彼の首の上にあるものは白銀に黒のまだら模様がある虎の顔だ。
彼がばさりと黒生地に金のふちどりがされた外套を翻すと、留め具にあしらわれた赤い宝石がきらりと光る。
「この国は、滅びるか――」
まるで他人事のように呟く虎人の声は酷く低く、しかし耳通りのよい透明感がある。
「我が国に刃を向ける賤国の末路など、最初から定められていた運命のようなものでしょう」
男の後ろにつく小姓がまるで当然の事のように返してくる。
そう、小姓が言う通り、これは運命のようなものだった。虎人が剣を捧げた国王の統治する領土に攻め入る国があれば、それを打ち破り滅ぼすのはこの虎人の役目。
そして、この白銀の虎人が戦場に存在すれば、全戦全勝は当たり前。運命なのだ。
何故なら彼は数多の種族を殺し他国を滅ぼし、その白銀の毛並みが鮮血色に染まっても尚、全てを殺しきった英雄。
幸せを願い、守りたいものを守る為に数多の血を剣に流した彼らの希望。
しかし、碧色のベリルを持つ虎人の瞳はどこか寂しげに揺れていた。
また多くを殺してしまったと後悔するように。
だが、その瞳はひとたび瞬きをすれば再び強く、他者を蹂躙する強者のものに変わる。
英雄はそうでなければならない。自分の後ろをついてくる同胞達に希望を与えなければならない。
「ここはもう落ちる。――凱旋だ。参るぞ」
すでに亡国となりつつある、かつては美しかったであろう一国の王城を一瞥すると、白銀の虎人は小姓が手綱を引く馬にひらりと乗り、戦場を駆けていった。
◇◆
その世界には多種に渡って種族が住まう。人間はその様々な種族の一種に過ぎず、虎人もまた同様だった。彼らの多くは種族別に国がいくつか存在しており、白銀の虎人が身を置く国は虎人の王が多くの領土を治める大国である。
長かった戦に終止符を打ち、数年ぶりに平穏な日々が訪れたその国は今、凱旋の祝いで多くの民が沸き立ち、お祭り騒ぎに乗じていた。
そんな街中、市井の民が好んで使う酒場の一角で、一際大きな笑い声が愉しげに響く。
「あーっとぉ……っ!そなた、酒の注ぎ方にも限度があろうっ!零れるだろうが勿体無い!」
「なーに言っておるのですかゼルデ卿!零れた零れないなど小さい小さい。歴戦の英雄が言う台詞にしてはあまりにしみったれたものでございますぞ?」
「英雄関係ないではないかっ!勿体が無いと言っておるのだ。酒は私の命水であり生きる希望なのだぞ?私は毎回毎回戦場に赴く度、そわそわしているのだ。あのとっておきの取り置き品、よもや盗み飲みなどしておるまいなと」
全く、と呟きゼルデと呼ばれた白銀の虎人は大きな掌をすぼめて愛飲の酒瓶に満たされている酒の嵩を測る。その大柄な体に似合わぬちまちまとした振る舞いに、彼の部下達は勿論周りで好き好きに酒を交わしていた客までもが一様に笑い出した。
「ゼルデ殿はほんに気さくなお方。しかしご心配には及びません。酒が無くなればただちに用意しましょう。今は祭りなのです。酒蔵を空にするつもりで飲んでくださいませ」
「むぅ、そんな事を言うと私はともかく私の部下達が本気を出すぞ。何せこやつらは遠慮が無い。故に酒蔵を空にしても良いなどと滅多な事を言ってはならぬ。でないと……明日から数日使い物にならんからな!」
酒場の主は真っ黒な毛並みを持つ壮年の虎人だ。彼の太っ腹な言葉に茶目っ気を乗せて英雄と名のつく将軍が碧い瞳を細めると、彼の部下達が一斉に「然りですなあ」と深刻そうに頷く。
溢れるほどに注がれた愛飲の酒を一口飲むと、男はガハハと豪快に笑い出した。
歴戦の英雄。虎人の国エインラークの白銀の剣。戦場に舞う一筋の白。
様々な二つ名を持つこの男の名はゼルデ=メーロウ。歴代を類稀なる功績で名を馳せてきた名門ゼルデ家の庶子である。
側室の子ではあるが、彼がかの家から継いだものはゼルデという姓のみ。後の面倒くさい家のしがらみは全て捨て、身一つで兵舎に飛び込み一等兵から中将の名を持つまでにのし上がった。本来ゼルデ家はその家柄故に最初から高い階級が国王より賜れる。しかしメーロウはそういった特別扱いを好まず、全てを自分の実力のみで勝ち取ってきた。
庶子とは言え少なからずとも家名の権威を振える立場でいながらそれをせず、最下階級から手柄のみで将官の椅子を手に入れた男に憧れる者は多い。勿論、ゼルデの嫡子をはじめ彼を苦々しく者も同じ位多いのだが。
しかしメーロウは国王のお気に入りでもある故にないがしろにもできない。彼はそんな立場に立つ男だった。
和やかなお祭り騒ぎは続く。だが、メーロウが5杯目の酒を注がれて木樽に口をつけていると、ふいに酒場の扉が開く。入って来たのは黒のまだらのない真っ白な毛並みを持つ伝令の虎人だった。
「こちらにおいでになりましたか。国王がお呼びです。至急王城までお越し下さいませ」
「王が?ふむ。今日は久方ぶりに休暇を頂戴していたのだが……。わかった、すぐに行こう」
がしゃりと普段用に身に纏う銅鎧を鳴らして立ち上がる。店の主人に部下の分も含めた酒代を大目に払うと、彼は黒の外套をひるがえして伝令と共に王城へ向かった。
「国王、メーロウが参上仕りました」
「うん、すまないな。折角の休みだと言うのにレダが煩くてね」
「……国王。再三苦言しておりますが、何か有る事にメーロウを呼びつけるのはいかがなものかと存じます。彼は中将とは言え正統の血を持たない一等兵上がり。英雄視する者が多いのは重々承知しておりますが、他の中将との扱いに差がありますと、いずれ不満の種となりましょう」
目の醒めるような赤の絨毯の上で剣を脇に置き頭を垂れるメーロウに労いの声をかける国王と、それを苦々しい表情で睨み、物申す男、レダ。
メーロウは顔を上げ、レダを見た。それは獅人のような艶やかな金色の毛並みを持つ虎人。メーロウの腹違いの兄だ。つまり、ゼルデ家の正統な後継者、嫡男である。今現在の王城で最もメーロウの功績を疎み、忌々しく思っているであろう男だ。
前回の大戦による功労から少将より中将へとまた一つ階級を上ったメーロウを、元帥である義兄、レダが見下すように眺める。その瞳は彼にとって皮肉にも、メーロウと同じ碧色のベリルだった。
国王はレダの苦言に「わかったわかった」とおざなりに手を振ると、改めてメーロウに目を向ける。
「実は、捕らえた捕虜の件でな。レダが処分しろと言うのだが、私はどうにも気が乗らなくてね。何せ数が多く、その殆どが女子供という有様。流石に虐殺のような真似をするのは忍びないだろう?」
「所詮低俗な種族の一つに過ぎないのに悪知恵だけはよく働く。彼らは狡猾です。それに、身分に応じた扱いをしている現状も納得できません。どうしてあんな下賤な者に貴重な国費を削らねばならないのか。処分をためらうならば彼らを労働力として扱うべきです、即刻に」
「労働力ならすでに労働しておるではないか。皆、収容所の敷地内で畑を耕し、機織りをしておる」
「そうではありません!男は奴隷に、女は下級娼館にでも送るべきだと言っているのです」
「レダよ……。彼ら種族の国は他にもあるのだぞ?そんな扱いをすれば今以上に敵対心を煽るだけであろうが。折角この国に平和が戻ったのだ。できるだけ余計な諍いの火種を作らないよう尽力するのもまた、勝国の努めであろう?」
国王は甘いのです、レダこそあの種族に私情を持ちすぎだ、と喧々囂々と言い合うふたりの虎人。長い髭に輝くような白金の毛並みを持つ虎人、国王は「こんな調子なのだ」とややげんなりしたようにメーロウにごちた。
「メーロウはどう思う?そなたの意見が聞きたい」
「私、ですか?そうですね。さすがに殺処分は賛成しかねますが、国王の仰る通り市井の者と同じような労働力として扱うのが宜しいのではないでしょうか?」
「フン、そんなもの。民が許す筈がない。奴らは侵略者だぞ」
「しかし多くが女子供と聞いています。ですが、街の者が共存を拒むのでしたら辺境の領地に住まわせ誰かに管理させるなり、身代金を要求して他国に渡すなり、虐殺や隷属以外でもいかように方法はあると思いますが」
メーロウとしては当たり障りのない返答をしたつもりだった。しかし、かの種族に決して良い感情を持っていないレダは嫌悪を表情を浮かべ、メーロウを睨む。それはまるで、お前はそれでいいのかと訴えているようだった。しかしメーロウはその燃えるような瞳をさらりとかわす。
……全て、時代が悪かったのだ。だからメーロウはレダのような感情を持つことができない。否、そう思わなければ自分を保てない。
レダが軽く溜息をつく。どうやら自分の提言した言葉がそれなりに私怨も交えているのだと自覚しているらしい。だが、これだけは譲れぬと国王に申し立ててきた。
「では、せめて身分に相応する扱いはやめて頂きたい。彼らは貴賎関係無く一括りに捕虜として扱うべきです」
「うーむ……そうか。あくまでレダは捕虜を貴賓として扱うを良しとしないのだな」
「ええ、彼らは侵略者であり敗戦した者達なのです。ならば、相手が王室の人間だろうが貴族だろうが関係ありません。全て平等に、敗戦者として扱うべきです」
きっぱりと言い切るレダに暫く唸るように悩みながら白金の髭を撫でる国王。やがて彼は「わかった」と頷き承諾した。
「では早速件の捕虜を呼ぶとしよう。亡国の王が残した唯一の生き残り、リツィア姫を」
……こうして、メーロウの前に亡国の残された胤が通される。
彼が彼女の国を滅ぼして、7つの日が過ぎた頃だった。
◆◇
体毛が限りなく薄く、ドレスに身を包みながらもむき出し同然の手足に羞恥を覚えないその姿は何度見ても慣れない。体毛が色濃くあるとすれば、頭の部分だけだ。腰まである長い髪はまっすぐで、まるでレダのような見事な金色。
リツィアは人間という種族が統治する小国の姫だった。彼女は捕虜という立場を充分に理解しているらしく、この謁見の間に通されて以降、膝を立てて座るような服従の構えを取ったまま頭を上げる事はしない。
玉座に座ったまま、国王が彼女に声をかける。
「リツィア姫。そなたの処遇が決まった。そなたはエインラークの民として我が国の為、労働に励んで欲しい。収容所の捕虜達と共にな。住処や必要なものはこちらで全て用意しよう。もし、仮にそなたを身請けすると言う国があるのなら、交渉はする」
「……はい、その心深い温情に心から感謝致します」
「すまぬな。そなたの境遇から察するに、恐らく土を耕したことも無ければ、機織などの仕事にも慣れぬであろう。丁度良くそなたを受け入れる国があればよいのだが」
無論、只ではない。彼女は小国であっても姫だったのだ。しかも国王と王妃が自決し、他のきょうだい達も行方知れずのまま。恐らく死んだか殺されたか、もしくは他国に亡命したか。
リツィアは貴重な貴賓の娘。エインラークにとって莫大な身代金をせしめる事ができる、唯一の存在。
しかし彼女は他国にあてがあるといった事や、身代金の額について何も訊ねなかった。貴人の立場でありながら市井の民に階級が落とされる事についても何も言わない。
ただ、全てを受け入れるかのように頭を垂れる彼女に、国王が「面を上げよ」と声をかけた。
さらりと、金色の髪が彼女の肩から零れ落ちる。
顔を上げた彼女はまだ幼さを残す程の若さで、翠がかった瑠璃色の瞳はしっかりと開いていた。そして意思の強さが伺える、引き締めた小さな唇が僅かに震えている。
――怖いのだ。一国の姫とはいえ若い娘。自分と全く違う相貌の男達に囲まれ、しかもそれが敵国であったならば、その恐怖は計り知れないだろう。
だが、それでも惨めに振り乱す事なく、自分が貴人なのだと自覚し、そうであろうと振舞おうとする姿勢はとてもいじらしく、また目に捉えることができない気高さを感じた。
メーロウの碧い瞳がゆっくりと大きく見開く。それは、彼が一目惚れをした瞬間だった。