前置きです。読んでください。
これはあくまで私の見解です。基準にはしないでください。また、ご不快な思いをされても責任は取れません。申し訳在りませんがお戻りください。
私にとって、『それ』は恐怖ではなかった。
私にとって、『それ』はただの想いの塊によってつくられた、『もの』だった。
私が『それ』を見始めたのははっきりとは覚えていないが、おそらく17か18くらいだったと思う。
『それ』は、光が人の形をつくったような、ぼんやりとした姿であった。
けれど私は『それ』が、たとえば性別や、おおよその年齢や、どういう風に想っているかがわかり、そして『それ』等はただ、自身の持っていた未練や救いや苦しみや悲しみや、喜びを知ってほしいだけのいわば『残留思念』が凝り固まった『もの』にしか過ぎなかった。
『それ』等は私の気が緩む、例えるなら一人のんびりとしているときや、友人と話しをするときや、何気ない日常の中で、ふと『こちらを気にしてほしい』『伝えたい』と視線…思念、といったほうがわかりやすいだろうそれらを送ってくる。
そしてそれに私が気づいても、『それ』等は基本何もしない。
きっと中には『それ』等のはっきりとした姿や声や、中には触れた人とているだろうけれど、それでも私にとって『それ』等は、よほど切羽詰っている状況以外では無害といって差し支えなかった。
これから話すのは、そんな私の、すこしだけ、『それ』等に近づいた日の話だ。
きっと、これを読むとき、誰かは疑うだろう。
「幻覚でも見たんじゃないのか?」
と。
あるいは、
「思春期特有の厨二じゃないの?」
とも思うかもしれない。
けれど私は当時から現在まで酒もタバコも薬もしていないし、視力も悪いがいたって平常で、幻覚を見るほど仕事も忙しくなかったし、食事制限もしていない。
厨二ではないと言い切れないがしかしオタクといえるほど厨二でもない。
ただ、私にとって『それ』は景色の一部であり、日常の一部でもある。それだけの存在なのだ。
だから私はこれだけ言っておこう。
私は、すこしだけ感覚をずらすことができるだけの普通の人であると。
前置きが長くなってしまって申し訳ない。
次話から、私の少しだけずれた日常の一部を書き写そう。
いっそ、うらやましくもなるほどの『それ』等との接触を。
読んでいただいてありがとうございました。




