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「何を食べてもまずい」と仰るなら、もう作ってあげません

作者: 相川ことね
掲載日:2026/10/17

「何を食べてもまずいんだよ、お前の飯は」


 フェルナンはスープの皿をぐいと押しやった。子爵家の晩餐に招かれた騎士団の仲間が四人、どっと笑った。


 皿を押しやられたのは、婚約者のコラリーだ。行儀見習いとしてこの家に入って二年、台所を任されている。スープは、今朝から骨を煮出して作ったものだった。


「豚の餌のほうが、まだましだな」


 また笑いが起きた。仲間の一人が、調子を合わせて言った。


「フェルナン、そりゃ豚に悪いだろう」


「違いない。豚だって残すさ」


 コラリーはにっこり笑ったまま、押しやられた皿を引き取った。そして明るく言った。


「何を食べてもまずいと仰るなら、もう作ってあげませんわ」


 笑い声が、途中で引っかかったように止まった。


 仲間の一人が、匙を持ったまま隣の顔をうかがう。フェルナンだけが、まだ口の端を上げていた。


「はっ。拗ねたのか」


「いいえ。筋を通しているだけですわ」


 コラリーは皿を盆に載せた。湯気はまだ立っている。もったいないけれど、まずいと言われた皿をもう一度出すほど、彼女の気は長くない。


「まずいと言う方には、作りませんの。当たり前のことでしょう?」


「女が台所で筋を通すのか。笑わせる」


「台所でも、通るものは通りますわ。煮込みの骨と同じです」


 仲間の誰かが、こらえきれずに噴き出した。今度の笑いは、フェルナンに向いていた。


 フェルナンの頬が引きつった。


「好きにしろ。お前の代わりなんか、いくらでもいる」


「ええ、どうぞ。お探しくださいませ」


 コラリーは盆を持ったまま、軽く膝を折った。


「それから明日のお弁当は、ございませんわよ」


 扉を閉めると、晩餐の間の笑い声は戻ってこなかった。


 廊下を歩きながら、コラリーは自分のお腹が鳴ったのに気がついた。


(あら。わたくし、まだ何も食べていませんでしたわ)


 台所に戻って、押しやられたスープを自分で飲んだ。骨の味がよく出ていて、塩もちょうどよかった。


「……おいしいじゃありませんの」


 誰にともなく言って、彼女は鍋に蓋をした。


 翌朝、コラリーはいつもの時間に目を覚まし、いつもの通りに台所へ下りた。


 かまどに火を入れ、水を汲み、鍋を手に取ったところで、手が止まった。


(いけない。作らないと言ったんでしたわ)


 二年も同じことを続けると、体のほうが先に動く。手のほうはまだ、フェルナン様の弁当を詰める気でいるらしい。コラリーは鍋を棚に戻し、代わりに自分の朝ごはんの卵をひとつだけ焼いた。


 二年前の春、コラリーは十六でこの子爵家に来た。父が子爵家に借りがあって、その縁で嫡男のフェルナンと婚約が決まったのだ。行儀見習いのはずが、初夏には子爵夫人のゲルトルートが「嫁の務めですよ」と料理番を減らし、家の食事と、騎士団へ持たせるフェルナンの弁当が、まるごと彼女の仕事になった。


 弁当には、母の形見の錫の箱を使った。蓋の角に、小さなへこみがある箱だ。


 毎晩、その箱は空になって戻ってきた。使い走りの少年が、兵舎から洗濯物と一緒に持って帰ってくる。中はいつもきれいに洗ってあって、生成りの包み布は、決まって不格好な固結びだった。


「フェルナン様は、結ぶのだけは下手ですのね」


 そう笑いながら、コラリーは毎晩その結び目をほどいた。まずいと言われても、空の箱が戻ってくる。あの人なりに食べてくれているのだと思えた。ほどくたびに、明日も作ろうと思えた。


 子どもの頃、母と並んで台所に立った朝がある。母は鍋をかき混ぜながら、コラリーの口に味見の匙を入れてくれた。


「おいしいって言われるとね、明日も作りたくなるのよ」


 そう言って笑った母の顔を、コラリーはいまでも覚えている。


 母の台所には、栗だけがなかった。父が栗に当たるからだ。その代わり、秋になると母はきのこを炊き込んだ。コラリーもそれを覚え書きごと受け継いで、子爵家に来てからの秋のお弁当は、毎日きのこの炊き込みだった。


 卵を食べ終えて、彼女は棚の端を見た。


 いつもならそこに、昨日の錫の箱が置いてある。けれど昨日は晩餐の支度で手が足りず、少年は兵舎へ箱を取りに行けなかった。


 棚には、何もなかった。


「お嬢様、今朝はお弁当を詰めないんですか」


 下働きのアンヌが、洗い桶を抱えて顔をのぞかせた。


「ええ。まずいそうですから」


「坊ちゃまのは食べたことありませんけど」


 アンヌは首をかしげた。


「わたしらの賄い、お嬢様が来てから誰も残さなくなりましたよ。あれでまずいなら、わたしらの舌がおかしいんですかね」


「アンヌの舌は確かですわ。わたくしが保証しますもの」


 アンヌと二人で肩をすくめ合った。そのあいだも、空いた棚の端だけが、どうしても目に入った。


(箱は、兵舎に置きっぱなしかしら)


 朝食のあと、ゲルトルートの居間に呼ばれた。


 子爵夫人は背筋を伸ばして長椅子に座り、扇の先で向かいの椅子を指した。その隣の椅子には、もう先客がいた。コラリーの父、ルヴェル男爵オーギュストだ。朝いちばんに呼び出されたらしく、襟が少し曲がっている。


「昨夜のことは聞きました」


 ゲルトルートは低い声で言った。


「殿方の仲間の前で、男に恥をかかせて。妻になる者のすることではありません」


「先に皿を押しやられたのは、わたくしのほうですわ」


「だから何です。男の顔を立てるのが妻の務めです」


 子爵夫人は扇をぱちりと閉じて、膝に置いた。


「わたくしが嫁いできたとき、この家は傾きかけていました。旦那様が人前で何を仰っても、わたくしは笑って皿を下げてきた。そうやって三十年、この家の顔を守ってきたのです。あなたにも、同じことができないはずがありません」


 本気で言っているのだと、コラリーには分かった。この人はこの人なりに、何かを守ってきたのだ。


 閉じた扇の先が、膝の上でとんと鳴った。


「明日から、黙って作りなさい」


 コラリーは父を見た。父は膝の上で帽子を握ったまま、目をそらした。


「コラリー。子爵家には、借りがある」


「存じておりますわ」


「頭を下げてこい。それで済む話だ」


 娘の側には、誰も立っていなかった。分かっていたことだ。分かっていても、喉の奥が詰まった。


 コラリーはそれを飲み込んで、顔を上げた。


「お断りいたしますわ。頭を下げると、明日のスープが冷めますもの」


「何ですって」


「わたくし、実家に帰ります。お世話になりました」


 立ち上がりかけて、コラリーは思い出したように振り返った。


「それと、昨日のお弁当の箱が戻っておりませんの。母の形見ですので、見つかりましたらお返しくださいませ」


「箱など知りません。そんなことより、頭を下げる気はないのですか」


「ございませんわ」


 荷物は多くなかった。着替えと、母の料理の覚え書きと、エプロンが二枚。鞄に詰めながら、コラリーは一度だけ台所の棚を振り返った。


(母の箱だけは、取り返さなくては)


 あれは、フェルナン様の弁当箱である前に、母の箱だ。


 昼前、父と同じ馬車で子爵家を出た。父は最後までひと言も口をきかなかったが、実家の門の前で降りるとき、娘の鞄を先に持った。


 同じ日の昼、騎士団の兵舎の食堂は、いつもの通りにぎやかだった。


 長卓は二段に分かれている。上の卓に騎士が座り、下の卓に従卒や当番が座る。副団長のエミリオは上の卓の端で、干し肉をかじっていた。


 二年のあいだ、昼になると決まって同じことが起きた。フェルナンが包みを開けもせずに下の卓へ放り、「まずい、誰か食え」と言う。下の卓の誰も手を出さないうちに、エミリオが立って取りに行く。


 最初の日、フェルナンは面白がって言った。


「副団長が拾い食いですか」


 エミリオは返事をしなかった。包みを持って上の卓に戻り、そのまま食べた。次の日も、その次の日もそうした。二年もたつと、誰も何も言わなくなった。


 今日は、包みが飛んでこなかった。


 フェルナンは仲間と笑いながら、兵舎の固いパンをちぎっていた。台所の棚の前を通ったとき、彼は端に残っていた錫の箱に目を留めた。


「なんだ、これ。まだあったのか」


 蓋の角がへこんだ箱だった。


「もう来ねえよ。そんな箱、捨てとけ」


 当番の少年が手を伸ばす前に、エミリオがその箱を取り上げた。


 彼は何も言わず、箱を自分の棚にしまった。それから上の卓に戻って、干し肉の残りをかじった。


 隣の席の騎士が、からかうように言った。


「副団長、今日は昼がありませんね」


 エミリオは、空いた下の卓を見ていた。


「……今日は、無いのか」


 三日目の昼、コラリーは兵舎の門の前に立っていた。


 手には、母の箱を包むための布を持ってきた。父には「箱を返していただくだけですわ」と言ってある。父は「そうか」とだけ答えて、門まで送ってくれた。


 門番に用件を告げると、しばらくして、背の高い男が出てきた。黒い髪を短く刈った、無口そうな騎士だ。手に、見覚えのある錫の箱を持っている。


「これを、取りに来たのか」


「はい。母の形見ですの」


 受け取った箱は、きれいに洗ってあった。けれど、いつもの包み布がない。


「布は洗って返す」


 騎士は短く言った。名前を訊くと、副団長のエミリオだと名乗った。


「わざわざ、ご自分で? 使いの方でよろしかったのに」


「母君の形見だと、門番に聞いた。人に渡すものじゃない」


「ルヴェル男爵の娘、コラリーと申します。この箱、捨てられずに済みましたのね」


「捨てろとは言われた」


「フェルナン様に、でしょう?」


 エミリオは答えなかった。答えないのが答えだった。


「……あいつは二年、一度もあの包みを開けていない」


 コラリーは箱を抱えたまま、まばたきをした。


「一度も?」


「昼になると、下の卓に放っていた」


 まずい、と言われ続けた二年が、頭の中でくるりとひっくり返った。まずいも何も、あの人は一口も食べていなかったのだ。


 それなら、毎晩ほどいていたあの結び目は。洗濯物と一緒に箱を運んでくる、使い走りの少年の手だったのだろう。フェルナン様の不器用だと思って笑っていた自分が、急に恥ずかしくなった。


「では、中身は。捨てられていましたの?」


「捨てられてはいない」


「どなたかが?」


「……捨てられてはいなかった。それだけは言える」


 それ以上は訊いても答えそうになかった。


 腹が立った。けれど、腹が立つ先が、思っていたのと違った。門番が気の毒そうに口を挟んだからだ。


「副団長はこの三日、干し肉ばっかりでしてね」


「干し肉?」


 コラリーはエミリオの顔を見上げた。日に焼けた頬が、少しこけている気がする。


「副団長が干し肉ばかり? 信じられませんわ。騎士団にはまともなお昼もありませんの?」


「食堂はある」


「その食堂で、干し肉をかじっていらっしゃるんでしょう」


「……食べ慣れている」


「慣れていいものと、いけないものがありますわ」


 エミリオは返事に詰まって、目をそらした。門番が後ろで、肩を震わせている。


 コラリーは箱をぎゅっと抱え直した。


「一回だけ、うちで食べていかれませんこと? 箱を守ってくださったお礼ですわ」


「……礼なら、いい」


「わたくしがよくありませんの」


 エミリオは困ったように眉を寄せた。それから、ぼそりと訊いた。


「うまいと言ったら、また作るのか」


「そのときは考えますわ」


 コラリーは胸を張った。


「まずいと言う方には作りませんけれど、うまいと仰る方のことはまだ決めておりませんもの」


「決まっていないのか」


「ええ。お会いしたのが、たった今ですもの」


 エミリオの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかどうかは、よく分からなかった。


 約束は、三日後の夕方になった。


 実家に戻ってから、子爵家の手紙が三通届いた。


 一通目は三日目の夜。差出人はゲルトルートだ。


「雇い直した料理番がフェルナンの文句に腹を立てて、今日で辞めました」


 コラリーは父の前で声に出して読み、それから心の中で返事をした。


(三日、もちましたのね。わたくしより根性がおありですわ)


 二通目は四日目の朝。


「夕食が冷えたパンばかりで、旦那様のご機嫌が悪いのです。戻ってきなさい」


(戻りません。パンは温め直せば食べられますわ)


 三通目は、その日の夕方に届いた。字が少し乱れていた。


「明日の夜、騎士団長様をお招きする晩餐があります。フェルナンの小隊長への推薦のお話です。婚約の指輪のことは、その席で話をつけます。男爵と一緒に来なさい」


 父が、読み終えたコラリーの顔をうかがった。


「行くのか」


「指輪をお返しするだけですわ。お借りしたものは、きちんとお返ししませんと」


 父はしばらく手紙の束を見ていた。それから、帽子のつばを指でなぞりながら言った。


「……あの朝、頭を下げろと言ったな」


「ええ。仰いましたわ」


「すまなかった。借りは、わしが返す。お前に返させるものではなかった」


 コラリーは手紙をたたんだ。父がこういうことを口にするのを、初めて聞いた気がした。


「では、明日の晩はお父様が先に帽子を取ってくださいませ。わたくし、指輪を外すので手がふさがりますの」


「分かった」


 晩餐は五日目の夜。エミリオとの約束の、前の晩だった。


 四日目の夜、コラリーは台所で明後日の献立を書き出した。鶏と、根菜と、焼きたてのパン。干し肉ばかりの人には、まず温かいものからだ。


 父が後ろからのぞき込んだ。


「パンまで焼くのか」


「ええ。兵舎のパンは、きっと固いでしょうから」


「お前、あの方とは一度会っただけだろう」


「一度で十分ですわ。干し肉の顔をしていらっしゃいましたもの」


「どんな顔だ、それは」


 父は首をひねりながら、自分の部屋へ引き上げた。コラリーは献立の紙を、母の覚え書きのあいだに挟んだ。


 五日目の夜、コラリーは父と並んで、子爵家の晩餐の席に着いた。


 何も作らずにこの部屋に入るのは、二年で初めてだった。


 上座に騎士団長のブルーノがいた。白いものの混じった髭の、恰幅のいい人だ。その隣に、副団長のエミリオが座っている。コラリーと目が合うと、彼は小さく顎を引いた。フェルナンの仲間も、二人ほど末席にいた。


 料理は、近所の屋敷から借りてきた料理番が作ったものだった。スープはぬるく、肉は固い。客の皿に、半分ずつ残っていく。


 ブルーノがナイフを置いて、穏やかに言った。


「以前こちらでいただいたスープは、もっと滋味がありましたな」


 ゲルトルートが扇を口元に当てた。


「お恥ずかしい。嫁の作るものは、息子が毎日まずいと申しますので。人を替えてみたのですけれど」


「そうですよ、団長」


 フェルナンが身を乗り出した。


「この女の飯は、何を食べてもまずかったんです。二年も我慢した俺を、褒めてほしいくらいで」


 末席の仲間が、愛想笑いをした。コラリーの手の中で、婚約の指輪が少し温まっていた。


 コラリーは、にっこり笑った。


「フェルナン様。後学のために伺ってもよろしいかしら」


「なんだ」


「二年のお弁当でいちばんまずかったのは、どれでしたの?」


 フェルナンは鼻を鳴らした。


「全部だ。全部まずかった」


「全部では、直しようがありませんもの」


 コラリーは頬に指を当てて、少し考えるふりをした。


「そうですわ。去年の秋の、栗の炊き込み。あれは特に、お口に合わなかったのではなくて?」


 客の視線が、フェルナンに集まった。団長まで、興味深そうに顎を撫でている。フェルナンは一瞬目を泳がせてから、差し出された答えに飛びついた。


「……ああ、あれだ。かたくて食えたもんじゃなかった」


「栗は、一度も入れておりませんの」


 コラリーは、指輪を手のひらに載せたまま言った。


「父が栗に当たるものですから。わたくしの台所に、栗はございません。秋のお弁当は、きのこでしたわ。毎日」


 フェルナンの顔から、笑いが抜けた。


「そ、それは……覚え違いだ。いちいち中身なんか覚えてるわけが」


「覚えていらっしゃらないのに、まずかったことだけは覚えていらっしゃるのね」


 ブルーノが、ふと目を上げた。


「きのこ……。去年の秋、兵舎でエミリオに一口もらったな。きのこと鶏の、ずいぶんうまい炊き込みだった」


 団長はフェルナンのほうを向いた。


「あれは、お前の弁当だったのか」


「い、いや、あれはその、まずかったから、下の連中に」


 エミリオが、音を立てずにナイフを置いた。


「フェルナンが下の卓に放っていた分は、私が食べていました」


 誰も、皿に手を伸ばさなかった。末席の仲間が、気まずそうに目を伏せた。


 フェルナンの耳が、みるみる赤くなった。膝の上のナプキンが床に落ちた。拾おうとして、椅子が大きくきしんだ。


「食いたいやつが食えばいいだろう! まずかったんだよ、俺には!」


 誰も答えなかった。ブルーノはしばらく黙ってフェルナンを見ていた。それから、ぬるいスープを脇へ寄せた。


「推薦の話は、日を改めよう」


 団長の声は大きくなかった。けれど、それきりフェルナンは何も言い返せなかった。ナプキンを握りしめたまま、彼は自分の皿を見下ろしていた。


 ゲルトルートも、皿を見ていた。冷めかけたスープの表面に、脂が白く浮いている。


「……あの子は、毎日これを」


 言いかけて、子爵夫人は口をつぐんだ。扇は、もう開かれなかった。


 コラリーは立ち上がり、指輪を卓の上に置いた。小さな音がした。


「お返しいたしますわ。長いあいだ、お世話になりました」


 フェルナンが顔を上げた。指輪とコラリーを見比べる目が、ようやく事態に追いついた。


「待て、コラリー。……明日から、また作ればいいだろう。それで水に流してやる」


「代わりなら、いくらでもいらっしゃるのでしょう?」


 コラリーは首をかしげた。


「どうぞ、お探しくださいませ。今度は、包みを開けてくださる方にお頼みになって」


 フェルナンは何か言おうとして、言葉が出てこないまま椅子に沈んだ。


 父も立ち上がった。約束どおり、今度は娘より先に帽子を手に取った。


 玄関で外套を受け取っていると、エミリオが後ろから出てきた。客を送る役目を、自分から引き受けたらしい。


「明日、お待ちしておりますわ」


 コラリーが言うと、彼は少し間を置いてうなずいた。


「……行く」


 帰りの馬車の中で、コラリーはもう明日の献立のことを考えていた。


 六日目の夕方、ルヴェル男爵家の台所は、朝からいい匂いがしていた。


「コラリー、鍋がもう三つ目だぞ。何人呼んだんだ」


「お一人ですわ。でも、干し肉で三日も過ごす方ですもの。二皿目のぶんも要りますでしょう」


「わしのぶんは」


「お父様は味見係ですわ。さっきから五回も味見していらっしゃるでしょう」


 父が鍋から匙を引っこめたところで、戸口が叩かれた。エミリオがやって来たのだ。


 戸口に立った彼は、まず四角くたたんだ布を差し出した。生成りの麻だ。


「洗った」


「まあ。律儀ですのね」


 受け取った布は、ていねいにたたんであった。結び目はどこにもなかった。コラリーはそれを、母の錫の箱の上に重ねて置いた。


 騎士の外套を脱ぐと、エミリオは卓のそばに立ったまま、どこに座ればいいのか迷っていた。父が慌てて椅子を引いた。


「副団長殿、狭いところで申し訳ない」


「いえ。兵舎よりずっといい」


 コラリーは鶏と根菜の煮込みを深皿に盛り、焼きたてのパンを添えて出した。エミリオは「いただく」とだけ言って、匙を取った。


 一皿目は、あっという間に空になった。コラリーは何も訊かずに、二皿目をよそった。


 エミリオは、二皿目も黙って平らげた。


 男爵家の台所は狭い。卓は四人掛けで、脚が一本だけ短い。コラリーは向かいに座って、彼の匙が皿の底を鳴らす音を三度数えた。


「おかわり、なさいます?」


「いや」


 エミリオは匙を置いた。何か言いかけて、やめた。代わりに立ち上がって、自分の皿を流しへ運んでいく。


「お客様にそんなことさせられませんわ」


「兵舎では自分で洗う」


 水の音がして、皿が伏せられた。父は味見の匙を握ったまま「わしは、向こうで」と腰を上げ、奥の戸口へ引っこんだ。


 エミリオは、卓の端の包みを取った。残ったパンを持って帰ってくださいと、コラリーがパン用の布にくるんで置いておいたものだ。


 大きな手が、布の端を二度くるりと回して、ぎゅっと結んだ。ひどく不格好な固結びだった。


 コラリーは、その結び目から目が離せなくなった。


 二年、毎晩、空の弁当箱が戻ってきた。中はきれいに洗ってあって、包み布はいつもこの結び方だった。初めはフェルナン様の不器用だと笑い、兵舎の門の前からは、あの少年の手だと決めていた。ほどくたびに、明日も作ろうと思えた。


「……それ、ずっと、エミリオ様が?」


 エミリオは自分の手元を見下ろした。しまった、という顔をした。


「空の箱を、汚れたまま返すわけにいかないだろう」


 それだけだった。礼を言われたいような顔でもなかった。


 コラリーの喉の奥が、急に熱くなった。笑おうとしたのに、口の端がうまく上がらない。膝の上で、指が勝手にエプロンの裾を握りしめていた。


「……おいしかったですか」


 訊くつもりはなかった。二年のあいだ、ずっと訊けなかった言葉だった。


 エミリオは少し考えた。それから、ひどく真面目な顔で言った。


「うまかった。毎日」


 戸口のほうで、小さく戸の閉まる音がした。戸の陰で聞いていた父が、そっと閉めたのだろう。


 コラリーは一度だけ鼻をすすった。それから、今度はちゃんと笑えた。勢いよく立ち上がったら、短い脚の卓がかたんと鳴った。


「でしたら、明日も。また作ってあげますわ」


「……頼む」


 エミリオは、結んだばかりの包みを大事そうに持ち上げた。結び目はやっぱり不格好だった。コラリーはそれを直そうとして、やめた。


「ひとつだけ、伺ってもよろしいかしら」


「なんだ」


「去年の秋、団長様に一口お分けになったのでしょう。どうして、一口だけでしたの」


 エミリオは包みを持ったまま、少し考えた。


「残りは、俺のだと思っていた」


 コラリーは、今度は声を出して笑ってしまった。


 七日目の朝、父がお茶を飲みながら言った。


「フェルナン殿の推薦は、取り消しになったそうだ」


 それだけだった。コラリーは「そうですの」と答えて、弁当を二つ包んだ。


 ひとつは父の分。もうひとつは、母の錫の箱に詰めた分だ。今朝のおかずは、鶏の残りを使った炒め物と、甘くした卵焼き。蓋の角のへこみを指でなぞってから、昨日返ってきた生成りの布で包んだ。


 父が自分の包みを手に取って、しげしげと眺めた。


「わしのは、普通の結び目だな」


「お父様のは、わたくしが結びましたもの」


「副団長殿のは」


「あちらは、ご自分で結び直されますわ。たぶん、ひどい結び目に」


 父は何か言いたそうに口ひげを撫でたが、そのまま包みを鞄にしまった。


 そのとき、勝手口が二度叩かれた。


 戸を開けると、外套を着たエミリオが立っていた。兵舎へ向かう途中なのだろう。朝の路地に、彼の吐く息が白い。


「取りに来た」


「まあ。届けさせますのに」


「人に運ばせると、途中で放る奴がいる」


 真面目な顔で言うので、コラリーは噴き出しかけた。


 錫の箱の包みを手渡すと、エミリオはそれを両手で受け取った。重さを確かめるように、軽く持ち上げる。


「夕方、箱を返しに来る」


「洗わなくて結構ですわよ。次の分を詰めますから」


「洗う」


 それだけ言って、彼は路地を歩いていった。角を曲がるまで、包みは片手に提げられたまま、一度も揺れなかった。


 コラリーは勝手口を閉めて、かまどの前に戻った。


 夕方には、空の箱が戻ってくる。


 棚から夕方の分の鍋を下ろす手は、もう止まらなかった。

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― 新着の感想 ―
読んでて?しかわかない世界でなんだこれ 主人公はなんで飯たき女みたいな事をしてるの?
どっからどう見てもAIなのでちゃんと申告してくださいね
面白かったです。かわいらしい作品を読ませていただきましてありがとうございます。 私には文章力も集中力もないので、こうやって作品を仕上げられる方を尊敬しています。作者さまもその一人です。 だれが読むか…
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