「何を食べてもまずい」と仰るなら、もう作ってあげません
「何を食べてもまずいんだよ、お前の飯は」
フェルナンはスープの皿をぐいと押しやった。子爵家の晩餐に招かれた騎士団の仲間が四人、どっと笑った。
皿を押しやられたのは、婚約者のコラリーだ。行儀見習いとしてこの家に入って二年、台所を任されている。スープは、今朝から骨を煮出して作ったものだった。
「豚の餌のほうが、まだましだな」
また笑いが起きた。仲間の一人が、調子を合わせて言った。
「フェルナン、そりゃ豚に悪いだろう」
「違いない。豚だって残すさ」
コラリーはにっこり笑ったまま、押しやられた皿を引き取った。そして明るく言った。
「何を食べてもまずいと仰るなら、もう作ってあげませんわ」
笑い声が、途中で引っかかったように止まった。
仲間の一人が、匙を持ったまま隣の顔をうかがう。フェルナンだけが、まだ口の端を上げていた。
「はっ。拗ねたのか」
「いいえ。筋を通しているだけですわ」
コラリーは皿を盆に載せた。湯気はまだ立っている。もったいないけれど、まずいと言われた皿をもう一度出すほど、彼女の気は長くない。
「まずいと言う方には、作りませんの。当たり前のことでしょう?」
「女が台所で筋を通すのか。笑わせる」
「台所でも、通るものは通りますわ。煮込みの骨と同じです」
仲間の誰かが、こらえきれずに噴き出した。今度の笑いは、フェルナンに向いていた。
フェルナンの頬が引きつった。
「好きにしろ。お前の代わりなんか、いくらでもいる」
「ええ、どうぞ。お探しくださいませ」
コラリーは盆を持ったまま、軽く膝を折った。
「それから明日のお弁当は、ございませんわよ」
扉を閉めると、晩餐の間の笑い声は戻ってこなかった。
廊下を歩きながら、コラリーは自分のお腹が鳴ったのに気がついた。
(あら。わたくし、まだ何も食べていませんでしたわ)
台所に戻って、押しやられたスープを自分で飲んだ。骨の味がよく出ていて、塩もちょうどよかった。
「……おいしいじゃありませんの」
誰にともなく言って、彼女は鍋に蓋をした。
翌朝、コラリーはいつもの時間に目を覚まし、いつもの通りに台所へ下りた。
かまどに火を入れ、水を汲み、鍋を手に取ったところで、手が止まった。
(いけない。作らないと言ったんでしたわ)
二年も同じことを続けると、体のほうが先に動く。手のほうはまだ、フェルナン様の弁当を詰める気でいるらしい。コラリーは鍋を棚に戻し、代わりに自分の朝ごはんの卵をひとつだけ焼いた。
二年前の春、コラリーは十六でこの子爵家に来た。父が子爵家に借りがあって、その縁で嫡男のフェルナンと婚約が決まったのだ。行儀見習いのはずが、初夏には子爵夫人のゲルトルートが「嫁の務めですよ」と料理番を減らし、家の食事と、騎士団へ持たせるフェルナンの弁当が、まるごと彼女の仕事になった。
弁当には、母の形見の錫の箱を使った。蓋の角に、小さなへこみがある箱だ。
毎晩、その箱は空になって戻ってきた。使い走りの少年が、兵舎から洗濯物と一緒に持って帰ってくる。中はいつもきれいに洗ってあって、生成りの包み布は、決まって不格好な固結びだった。
「フェルナン様は、結ぶのだけは下手ですのね」
そう笑いながら、コラリーは毎晩その結び目をほどいた。まずいと言われても、空の箱が戻ってくる。あの人なりに食べてくれているのだと思えた。ほどくたびに、明日も作ろうと思えた。
子どもの頃、母と並んで台所に立った朝がある。母は鍋をかき混ぜながら、コラリーの口に味見の匙を入れてくれた。
「おいしいって言われるとね、明日も作りたくなるのよ」
そう言って笑った母の顔を、コラリーはいまでも覚えている。
母の台所には、栗だけがなかった。父が栗に当たるからだ。その代わり、秋になると母はきのこを炊き込んだ。コラリーもそれを覚え書きごと受け継いで、子爵家に来てからの秋のお弁当は、毎日きのこの炊き込みだった。
卵を食べ終えて、彼女は棚の端を見た。
いつもならそこに、昨日の錫の箱が置いてある。けれど昨日は晩餐の支度で手が足りず、少年は兵舎へ箱を取りに行けなかった。
棚には、何もなかった。
「お嬢様、今朝はお弁当を詰めないんですか」
下働きのアンヌが、洗い桶を抱えて顔をのぞかせた。
「ええ。まずいそうですから」
「坊ちゃまのは食べたことありませんけど」
アンヌは首をかしげた。
「わたしらの賄い、お嬢様が来てから誰も残さなくなりましたよ。あれでまずいなら、わたしらの舌がおかしいんですかね」
「アンヌの舌は確かですわ。わたくしが保証しますもの」
アンヌと二人で肩をすくめ合った。そのあいだも、空いた棚の端だけが、どうしても目に入った。
(箱は、兵舎に置きっぱなしかしら)
朝食のあと、ゲルトルートの居間に呼ばれた。
子爵夫人は背筋を伸ばして長椅子に座り、扇の先で向かいの椅子を指した。その隣の椅子には、もう先客がいた。コラリーの父、ルヴェル男爵オーギュストだ。朝いちばんに呼び出されたらしく、襟が少し曲がっている。
「昨夜のことは聞きました」
ゲルトルートは低い声で言った。
「殿方の仲間の前で、男に恥をかかせて。妻になる者のすることではありません」
「先に皿を押しやられたのは、わたくしのほうですわ」
「だから何です。男の顔を立てるのが妻の務めです」
子爵夫人は扇をぱちりと閉じて、膝に置いた。
「わたくしが嫁いできたとき、この家は傾きかけていました。旦那様が人前で何を仰っても、わたくしは笑って皿を下げてきた。そうやって三十年、この家の顔を守ってきたのです。あなたにも、同じことができないはずがありません」
本気で言っているのだと、コラリーには分かった。この人はこの人なりに、何かを守ってきたのだ。
閉じた扇の先が、膝の上でとんと鳴った。
「明日から、黙って作りなさい」
コラリーは父を見た。父は膝の上で帽子を握ったまま、目をそらした。
「コラリー。子爵家には、借りがある」
「存じておりますわ」
「頭を下げてこい。それで済む話だ」
娘の側には、誰も立っていなかった。分かっていたことだ。分かっていても、喉の奥が詰まった。
コラリーはそれを飲み込んで、顔を上げた。
「お断りいたしますわ。頭を下げると、明日のスープが冷めますもの」
「何ですって」
「わたくし、実家に帰ります。お世話になりました」
立ち上がりかけて、コラリーは思い出したように振り返った。
「それと、昨日のお弁当の箱が戻っておりませんの。母の形見ですので、見つかりましたらお返しくださいませ」
「箱など知りません。そんなことより、頭を下げる気はないのですか」
「ございませんわ」
荷物は多くなかった。着替えと、母の料理の覚え書きと、エプロンが二枚。鞄に詰めながら、コラリーは一度だけ台所の棚を振り返った。
(母の箱だけは、取り返さなくては)
あれは、フェルナン様の弁当箱である前に、母の箱だ。
昼前、父と同じ馬車で子爵家を出た。父は最後までひと言も口をきかなかったが、実家の門の前で降りるとき、娘の鞄を先に持った。
同じ日の昼、騎士団の兵舎の食堂は、いつもの通りにぎやかだった。
長卓は二段に分かれている。上の卓に騎士が座り、下の卓に従卒や当番が座る。副団長のエミリオは上の卓の端で、干し肉をかじっていた。
二年のあいだ、昼になると決まって同じことが起きた。フェルナンが包みを開けもせずに下の卓へ放り、「まずい、誰か食え」と言う。下の卓の誰も手を出さないうちに、エミリオが立って取りに行く。
最初の日、フェルナンは面白がって言った。
「副団長が拾い食いですか」
エミリオは返事をしなかった。包みを持って上の卓に戻り、そのまま食べた。次の日も、その次の日もそうした。二年もたつと、誰も何も言わなくなった。
今日は、包みが飛んでこなかった。
フェルナンは仲間と笑いながら、兵舎の固いパンをちぎっていた。台所の棚の前を通ったとき、彼は端に残っていた錫の箱に目を留めた。
「なんだ、これ。まだあったのか」
蓋の角がへこんだ箱だった。
「もう来ねえよ。そんな箱、捨てとけ」
当番の少年が手を伸ばす前に、エミリオがその箱を取り上げた。
彼は何も言わず、箱を自分の棚にしまった。それから上の卓に戻って、干し肉の残りをかじった。
隣の席の騎士が、からかうように言った。
「副団長、今日は昼がありませんね」
エミリオは、空いた下の卓を見ていた。
「……今日は、無いのか」
三日目の昼、コラリーは兵舎の門の前に立っていた。
手には、母の箱を包むための布を持ってきた。父には「箱を返していただくだけですわ」と言ってある。父は「そうか」とだけ答えて、門まで送ってくれた。
門番に用件を告げると、しばらくして、背の高い男が出てきた。黒い髪を短く刈った、無口そうな騎士だ。手に、見覚えのある錫の箱を持っている。
「これを、取りに来たのか」
「はい。母の形見ですの」
受け取った箱は、きれいに洗ってあった。けれど、いつもの包み布がない。
「布は洗って返す」
騎士は短く言った。名前を訊くと、副団長のエミリオだと名乗った。
「わざわざ、ご自分で? 使いの方でよろしかったのに」
「母君の形見だと、門番に聞いた。人に渡すものじゃない」
「ルヴェル男爵の娘、コラリーと申します。この箱、捨てられずに済みましたのね」
「捨てろとは言われた」
「フェルナン様に、でしょう?」
エミリオは答えなかった。答えないのが答えだった。
「……あいつは二年、一度もあの包みを開けていない」
コラリーは箱を抱えたまま、まばたきをした。
「一度も?」
「昼になると、下の卓に放っていた」
まずい、と言われ続けた二年が、頭の中でくるりとひっくり返った。まずいも何も、あの人は一口も食べていなかったのだ。
それなら、毎晩ほどいていたあの結び目は。洗濯物と一緒に箱を運んでくる、使い走りの少年の手だったのだろう。フェルナン様の不器用だと思って笑っていた自分が、急に恥ずかしくなった。
「では、中身は。捨てられていましたの?」
「捨てられてはいない」
「どなたかが?」
「……捨てられてはいなかった。それだけは言える」
それ以上は訊いても答えそうになかった。
腹が立った。けれど、腹が立つ先が、思っていたのと違った。門番が気の毒そうに口を挟んだからだ。
「副団長はこの三日、干し肉ばっかりでしてね」
「干し肉?」
コラリーはエミリオの顔を見上げた。日に焼けた頬が、少しこけている気がする。
「副団長が干し肉ばかり? 信じられませんわ。騎士団にはまともなお昼もありませんの?」
「食堂はある」
「その食堂で、干し肉をかじっていらっしゃるんでしょう」
「……食べ慣れている」
「慣れていいものと、いけないものがありますわ」
エミリオは返事に詰まって、目をそらした。門番が後ろで、肩を震わせている。
コラリーは箱をぎゅっと抱え直した。
「一回だけ、うちで食べていかれませんこと? 箱を守ってくださったお礼ですわ」
「……礼なら、いい」
「わたくしがよくありませんの」
エミリオは困ったように眉を寄せた。それから、ぼそりと訊いた。
「うまいと言ったら、また作るのか」
「そのときは考えますわ」
コラリーは胸を張った。
「まずいと言う方には作りませんけれど、うまいと仰る方のことはまだ決めておりませんもの」
「決まっていないのか」
「ええ。お会いしたのが、たった今ですもの」
エミリオの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかどうかは、よく分からなかった。
約束は、三日後の夕方になった。
実家に戻ってから、子爵家の手紙が三通届いた。
一通目は三日目の夜。差出人はゲルトルートだ。
「雇い直した料理番がフェルナンの文句に腹を立てて、今日で辞めました」
コラリーは父の前で声に出して読み、それから心の中で返事をした。
(三日、もちましたのね。わたくしより根性がおありですわ)
二通目は四日目の朝。
「夕食が冷えたパンばかりで、旦那様のご機嫌が悪いのです。戻ってきなさい」
(戻りません。パンは温め直せば食べられますわ)
三通目は、その日の夕方に届いた。字が少し乱れていた。
「明日の夜、騎士団長様をお招きする晩餐があります。フェルナンの小隊長への推薦のお話です。婚約の指輪のことは、その席で話をつけます。男爵と一緒に来なさい」
父が、読み終えたコラリーの顔をうかがった。
「行くのか」
「指輪をお返しするだけですわ。お借りしたものは、きちんとお返ししませんと」
父はしばらく手紙の束を見ていた。それから、帽子のつばを指でなぞりながら言った。
「……あの朝、頭を下げろと言ったな」
「ええ。仰いましたわ」
「すまなかった。借りは、わしが返す。お前に返させるものではなかった」
コラリーは手紙をたたんだ。父がこういうことを口にするのを、初めて聞いた気がした。
「では、明日の晩はお父様が先に帽子を取ってくださいませ。わたくし、指輪を外すので手がふさがりますの」
「分かった」
晩餐は五日目の夜。エミリオとの約束の、前の晩だった。
四日目の夜、コラリーは台所で明後日の献立を書き出した。鶏と、根菜と、焼きたてのパン。干し肉ばかりの人には、まず温かいものからだ。
父が後ろからのぞき込んだ。
「パンまで焼くのか」
「ええ。兵舎のパンは、きっと固いでしょうから」
「お前、あの方とは一度会っただけだろう」
「一度で十分ですわ。干し肉の顔をしていらっしゃいましたもの」
「どんな顔だ、それは」
父は首をひねりながら、自分の部屋へ引き上げた。コラリーは献立の紙を、母の覚え書きのあいだに挟んだ。
五日目の夜、コラリーは父と並んで、子爵家の晩餐の席に着いた。
何も作らずにこの部屋に入るのは、二年で初めてだった。
上座に騎士団長のブルーノがいた。白いものの混じった髭の、恰幅のいい人だ。その隣に、副団長のエミリオが座っている。コラリーと目が合うと、彼は小さく顎を引いた。フェルナンの仲間も、二人ほど末席にいた。
料理は、近所の屋敷から借りてきた料理番が作ったものだった。スープはぬるく、肉は固い。客の皿に、半分ずつ残っていく。
ブルーノがナイフを置いて、穏やかに言った。
「以前こちらでいただいたスープは、もっと滋味がありましたな」
ゲルトルートが扇を口元に当てた。
「お恥ずかしい。嫁の作るものは、息子が毎日まずいと申しますので。人を替えてみたのですけれど」
「そうですよ、団長」
フェルナンが身を乗り出した。
「この女の飯は、何を食べてもまずかったんです。二年も我慢した俺を、褒めてほしいくらいで」
末席の仲間が、愛想笑いをした。コラリーの手の中で、婚約の指輪が少し温まっていた。
コラリーは、にっこり笑った。
「フェルナン様。後学のために伺ってもよろしいかしら」
「なんだ」
「二年のお弁当でいちばんまずかったのは、どれでしたの?」
フェルナンは鼻を鳴らした。
「全部だ。全部まずかった」
「全部では、直しようがありませんもの」
コラリーは頬に指を当てて、少し考えるふりをした。
「そうですわ。去年の秋の、栗の炊き込み。あれは特に、お口に合わなかったのではなくて?」
客の視線が、フェルナンに集まった。団長まで、興味深そうに顎を撫でている。フェルナンは一瞬目を泳がせてから、差し出された答えに飛びついた。
「……ああ、あれだ。かたくて食えたもんじゃなかった」
「栗は、一度も入れておりませんの」
コラリーは、指輪を手のひらに載せたまま言った。
「父が栗に当たるものですから。わたくしの台所に、栗はございません。秋のお弁当は、きのこでしたわ。毎日」
フェルナンの顔から、笑いが抜けた。
「そ、それは……覚え違いだ。いちいち中身なんか覚えてるわけが」
「覚えていらっしゃらないのに、まずかったことだけは覚えていらっしゃるのね」
ブルーノが、ふと目を上げた。
「きのこ……。去年の秋、兵舎でエミリオに一口もらったな。きのこと鶏の、ずいぶんうまい炊き込みだった」
団長はフェルナンのほうを向いた。
「あれは、お前の弁当だったのか」
「い、いや、あれはその、まずかったから、下の連中に」
エミリオが、音を立てずにナイフを置いた。
「フェルナンが下の卓に放っていた分は、私が食べていました」
誰も、皿に手を伸ばさなかった。末席の仲間が、気まずそうに目を伏せた。
フェルナンの耳が、みるみる赤くなった。膝の上のナプキンが床に落ちた。拾おうとして、椅子が大きくきしんだ。
「食いたいやつが食えばいいだろう! まずかったんだよ、俺には!」
誰も答えなかった。ブルーノはしばらく黙ってフェルナンを見ていた。それから、ぬるいスープを脇へ寄せた。
「推薦の話は、日を改めよう」
団長の声は大きくなかった。けれど、それきりフェルナンは何も言い返せなかった。ナプキンを握りしめたまま、彼は自分の皿を見下ろしていた。
ゲルトルートも、皿を見ていた。冷めかけたスープの表面に、脂が白く浮いている。
「……あの子は、毎日これを」
言いかけて、子爵夫人は口をつぐんだ。扇は、もう開かれなかった。
コラリーは立ち上がり、指輪を卓の上に置いた。小さな音がした。
「お返しいたしますわ。長いあいだ、お世話になりました」
フェルナンが顔を上げた。指輪とコラリーを見比べる目が、ようやく事態に追いついた。
「待て、コラリー。……明日から、また作ればいいだろう。それで水に流してやる」
「代わりなら、いくらでもいらっしゃるのでしょう?」
コラリーは首をかしげた。
「どうぞ、お探しくださいませ。今度は、包みを開けてくださる方にお頼みになって」
フェルナンは何か言おうとして、言葉が出てこないまま椅子に沈んだ。
父も立ち上がった。約束どおり、今度は娘より先に帽子を手に取った。
玄関で外套を受け取っていると、エミリオが後ろから出てきた。客を送る役目を、自分から引き受けたらしい。
「明日、お待ちしておりますわ」
コラリーが言うと、彼は少し間を置いてうなずいた。
「……行く」
帰りの馬車の中で、コラリーはもう明日の献立のことを考えていた。
六日目の夕方、ルヴェル男爵家の台所は、朝からいい匂いがしていた。
「コラリー、鍋がもう三つ目だぞ。何人呼んだんだ」
「お一人ですわ。でも、干し肉で三日も過ごす方ですもの。二皿目のぶんも要りますでしょう」
「わしのぶんは」
「お父様は味見係ですわ。さっきから五回も味見していらっしゃるでしょう」
父が鍋から匙を引っこめたところで、戸口が叩かれた。エミリオがやって来たのだ。
戸口に立った彼は、まず四角くたたんだ布を差し出した。生成りの麻だ。
「洗った」
「まあ。律儀ですのね」
受け取った布は、ていねいにたたんであった。結び目はどこにもなかった。コラリーはそれを、母の錫の箱の上に重ねて置いた。
騎士の外套を脱ぐと、エミリオは卓のそばに立ったまま、どこに座ればいいのか迷っていた。父が慌てて椅子を引いた。
「副団長殿、狭いところで申し訳ない」
「いえ。兵舎よりずっといい」
コラリーは鶏と根菜の煮込みを深皿に盛り、焼きたてのパンを添えて出した。エミリオは「いただく」とだけ言って、匙を取った。
一皿目は、あっという間に空になった。コラリーは何も訊かずに、二皿目をよそった。
エミリオは、二皿目も黙って平らげた。
男爵家の台所は狭い。卓は四人掛けで、脚が一本だけ短い。コラリーは向かいに座って、彼の匙が皿の底を鳴らす音を三度数えた。
「おかわり、なさいます?」
「いや」
エミリオは匙を置いた。何か言いかけて、やめた。代わりに立ち上がって、自分の皿を流しへ運んでいく。
「お客様にそんなことさせられませんわ」
「兵舎では自分で洗う」
水の音がして、皿が伏せられた。父は味見の匙を握ったまま「わしは、向こうで」と腰を上げ、奥の戸口へ引っこんだ。
エミリオは、卓の端の包みを取った。残ったパンを持って帰ってくださいと、コラリーがパン用の布にくるんで置いておいたものだ。
大きな手が、布の端を二度くるりと回して、ぎゅっと結んだ。ひどく不格好な固結びだった。
コラリーは、その結び目から目が離せなくなった。
二年、毎晩、空の弁当箱が戻ってきた。中はきれいに洗ってあって、包み布はいつもこの結び方だった。初めはフェルナン様の不器用だと笑い、兵舎の門の前からは、あの少年の手だと決めていた。ほどくたびに、明日も作ろうと思えた。
「……それ、ずっと、エミリオ様が?」
エミリオは自分の手元を見下ろした。しまった、という顔をした。
「空の箱を、汚れたまま返すわけにいかないだろう」
それだけだった。礼を言われたいような顔でもなかった。
コラリーの喉の奥が、急に熱くなった。笑おうとしたのに、口の端がうまく上がらない。膝の上で、指が勝手にエプロンの裾を握りしめていた。
「……おいしかったですか」
訊くつもりはなかった。二年のあいだ、ずっと訊けなかった言葉だった。
エミリオは少し考えた。それから、ひどく真面目な顔で言った。
「うまかった。毎日」
戸口のほうで、小さく戸の閉まる音がした。戸の陰で聞いていた父が、そっと閉めたのだろう。
コラリーは一度だけ鼻をすすった。それから、今度はちゃんと笑えた。勢いよく立ち上がったら、短い脚の卓がかたんと鳴った。
「でしたら、明日も。また作ってあげますわ」
「……頼む」
エミリオは、結んだばかりの包みを大事そうに持ち上げた。結び目はやっぱり不格好だった。コラリーはそれを直そうとして、やめた。
「ひとつだけ、伺ってもよろしいかしら」
「なんだ」
「去年の秋、団長様に一口お分けになったのでしょう。どうして、一口だけでしたの」
エミリオは包みを持ったまま、少し考えた。
「残りは、俺のだと思っていた」
コラリーは、今度は声を出して笑ってしまった。
七日目の朝、父がお茶を飲みながら言った。
「フェルナン殿の推薦は、取り消しになったそうだ」
それだけだった。コラリーは「そうですの」と答えて、弁当を二つ包んだ。
ひとつは父の分。もうひとつは、母の錫の箱に詰めた分だ。今朝のおかずは、鶏の残りを使った炒め物と、甘くした卵焼き。蓋の角のへこみを指でなぞってから、昨日返ってきた生成りの布で包んだ。
父が自分の包みを手に取って、しげしげと眺めた。
「わしのは、普通の結び目だな」
「お父様のは、わたくしが結びましたもの」
「副団長殿のは」
「あちらは、ご自分で結び直されますわ。たぶん、ひどい結び目に」
父は何か言いたそうに口ひげを撫でたが、そのまま包みを鞄にしまった。
そのとき、勝手口が二度叩かれた。
戸を開けると、外套を着たエミリオが立っていた。兵舎へ向かう途中なのだろう。朝の路地に、彼の吐く息が白い。
「取りに来た」
「まあ。届けさせますのに」
「人に運ばせると、途中で放る奴がいる」
真面目な顔で言うので、コラリーは噴き出しかけた。
錫の箱の包みを手渡すと、エミリオはそれを両手で受け取った。重さを確かめるように、軽く持ち上げる。
「夕方、箱を返しに来る」
「洗わなくて結構ですわよ。次の分を詰めますから」
「洗う」
それだけ言って、彼は路地を歩いていった。角を曲がるまで、包みは片手に提げられたまま、一度も揺れなかった。
コラリーは勝手口を閉めて、かまどの前に戻った。
夕方には、空の箱が戻ってくる。
棚から夕方の分の鍋を下ろす手は、もう止まらなかった。




