正念の代価
符紋が五つに増えていた。
朝、塔の外壁を確認して気づいた。昨日まで三つだったのが、五つ。新しい二つは北面に刻まれていた。古いものより線が深い。触れると、指先が痺れた。
授業中も集中できなかった。睦月先生の声が遠い。教室の窓から差し込む光が白くて、チョークの粉が宙に漂っていた。隣でライが「大丈夫か」と聞いてきた。「大丈夫」と返した。嘘だった。
廊下で、治癒魔術担当のマルル先生が生徒たちに薬草茶を配っていた。実習帰りらしく、黄色い服の胸元の赤いリボンに、まだ淡い光の粉が残っていた。初めて授業を受けたとき、傷口に手をかざすだけで痛みが消えたのを覚えている。ウサギの耳が揺れるたびに、受け取る生徒の顔がほんの少し緩んだ。
中庭の石段で、チャーミィ先生が前脚を伸ばしていた。犬は今日も眠そうで、塔の異変だけが浮いて見えた。
放課後、塔の外壁をもう一度確認した。五つ目の符紋が脈打っていた。光っているのではない。膨らんで、縮んで、膨らんで——生き物のように動いていた。
夜を待てなかった。
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塔の中は、いつもと違った。
空気が重い。壁の振動が激しい。螺旋階段を降りるたびに、足元の光が明滅した。安定していない。塔が苦しんでいた。
祭壇にスフィアがいた。膝を抱えた姿勢はいつもと同じだった。体の輪郭がぼやけていた。半透明がさらに薄い。
「スフィア」
返事が遅かった。最近は早くなっていたのに、また遅くなっていた。
「……来た」
「符紋が五つに増えた。体は——」
「……大丈夫じゃ、ない」
初めてだった。スフィアが「大丈夫じゃない」と言ったのは。
胸の中で、何かが締まった。スフィアが苦しんでいる。符紋が増えている。増えるたびに輪郭が薄くなる。消えかけている。目の前で。何もできないまま。
守りたかった。守る側に回りたかった。0.2で、何もできなくて、塔の力を中継するだけの自分が——それでも、何かをしたかった。その焦りが、声を聞く余裕を消した。
「消す。符紋を消す」
「待って」
スフィアが言った。声が震えていた。
「——大丈夫、すぐ終わる」
聞こえていた。
聞こえていたのに——手を伸ばした。
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祭壇に手をついた。力を注いだ。塔の方角から来る力を、自分を通して符紋に叩きつける。黒い兵隊を倒したときと同じ要領。
光が出た。白い光が手のひらから溢れた。壁に走った。符紋を辿った。
封印が反応した。
符紋を消そうとした力が封印に触れた。繋がっていた。符紋を消そうとすることは、封印を揺さぶることと同じだった。
スフィアの体が歪んだ。
輪郭が裂けた。散った。集まった。崩れた。何かが壊れる音がした。骨が折れるような、取り返しのつかない音。
「やめて」
聞こえた。
「やめて——!」
聞こえていた。手が止まらなかった。符紋が残る。残ればスフィアが苦しむ。止めるわけにはいかない。
止めるわけにはいかない——そう思っていた。
スフィアが目を開いた。
虹色の瞳に、怒りがあった。
百年間、あの瞳には寂しさがあった。困惑があった。微かな温かさがあった。怒りだけがなかった。怒ることすら忘れるほどの沈黙の中にいた。
今——燃えていた。
「あなたは私の声を聞かないで力を使った」
声が変わっていた。かすれた声ではなかった。怒りに震える声だった。
「止めてって言った。聞こえなかった?」
聞こえていた。
聞こえていた。
「もう来ないで」
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塔が震えた。壁が唸った。体が押し戻された。足が床から離れた。螺旋階段を逆流して、地上に押し出された。
鉄の門が閉じた。
結界が張り直された。手を伸ばしても、何も起きなかった。透明な壁が、アルクを拒んでいた。
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塔の前に立っていた。
夜明けの空が白くなり始めていた。風が冷たかった。制服が夜露で湿っていた。
手のひらを見た。何もなかった。ただの手のひらだった。
スフィアが苦しんでいた。守りたかった。手を伸ばした。声が聞こえていた。止めてと言っていた。聞こえていて——無視した。自分が正しいと思ったから。
正しいと思ったのだろうか。
守りたかったのか。守っている自分が欲しかったのか。その区別が、つかなかった。
塔の前に座り込んだ。膝を抱えた。スフィアと同じ格好だ、と思った。
塔は黙っていた。声は、もう聞こえなかった。




