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黒い兵隊

 朝の食堂は、パンの匂いがした。


 焼きたてのパンが大皿に積まれていて、湯気が天井に向かって立ち昇っている。バターの香り。スープの湯気。食堂は生徒たちの声で満ちていた。


 いつもの席。窓際のテーブル。いつからか三人の定位置になっていた。


 ライがパンを割って、バターを塗って、ジャムを乗せて、シノの前に置いた。シノは少し困った顔をしてから、小さく「ありがとう」と言った。


 窓の外を見た。空は高い。校庭の芝生が朝露で光っていた。


 窓の下を、使い魔術担当のチャーミィ先生がのそのそ横切っていった。人が乗れそうなほど大きな犬だった。尻尾が二股に分かれていて、その先端がそれぞれ蛇の頭になっている。初めての授業で教壇に飛び乗ったとき、教室中が固まった。


 学園には四つの寮がある。チャーミィ先生はメーア寮の寮監で、アルクの所属するシュトゥルム寮の寮監はリベルタ先生——通称マッド先生だった。犬の方がまだ話が通じる気がする。

 朝の校庭に、犬の足音だけが妙にのどかだった。


---


 警報が鳴ったのは、二限目の途中だった。


 低い音。腹の底に響く。教室の窓ガラスが振動した。睦月先生が教壇で手を止めた。目が鋭くなった。


「全員、教室を出るな」


 声が違った。さっきまで魔術基礎を教えていた声ではなかった。


 窓の外が暗くなった。曇ったのではない。黒い霧が校舎の外を覆い始めていた。霧の中に影が動いている。人型。一体ではない。十。二十。もっと。




 教師陣が前線に出た。


 マスク先生が最初だった。槍を抜いて校庭に飛び出した。穂先が霧を突いた。通り抜けた。手応えがない。二度目。穂先に光が走った。通った。兵士が霧に還った。


 睦月先生の忍者刀が銀色に光った。斬れた。


 エメロード先生の光球。青白い光。触れた兵士が一撃で霧散した。


 マイト先生。素手。拳が光った。兵士が吹き飛んだ。


 パルフィー先生は前線に出なかった。後方の救護所にいた。倒れた生徒の手当てをしていた。眼鏡が曇っている。手が震えている。


 黒い兵士が救護所に近づいた。


 パルフィー先生の体が動いた。一瞬。正しい構えだった。剣術の構えだった。指先が揃っている。腰が落ちている。訓練された体の動きだった。


 すぐに崩した。手を膝に置いて、「大丈夫ですよ」と生徒に声をかけた。


 一瞬だった。誰も見ていなかった。たぶん。




 アルクには何もできなかった。


 スペルが使えない。剣を持っていない。後方にいろと言われた。ライは前線の近くまで行って、負傷した上級生を引きずって戻ってきた。シノは生徒たちを誘導していた。


 動けなかった。


 後方の結界が破られたのは、その直後だった。


 黒い兵士が三体、回り込んできていた。救護所の方角。パルフィー先生が生徒を庇って後退している。他の教師は前線で手一杯だった。


 足が動いた。


 考えてはいなかった。体が先だった。走った。結界の破れ目に向かった。手を伸ばした。なぜそうしたのか、わからない。


 体の外から熱が来た。


 塔の方角から。胸の奥で鳴っていた声が、急に大きくなった。声ではない。力だった。アルクの体を通り過ぎて、手のひらから溢れ出す何か。


 光が弾けた。


 白い光。手のひらから。詠唱はない。属性もわからない。光が黒い兵士を貫いた。三体が同時に霧に還った。


 光が収まった。


 膝が折れた。地面に手をついた。手のひらを見た。傷も、火傷もない。何かが通り過ぎた感覚だけが残っていた。自分の力ではない。どこかから来て、自分を通って、出ていった。


 手のひらの中で——石が温かかった。


 ポケットの中の七角形の石。今までで一番、はっきりと温かかった。




 医務室のベッドは硬かった。


 天井の染みを数えていた。三つ目が犬に見えた。


 養護教諭のメリーナ先生が手当てをしてくれていたようだ。緑のショートボブに赤いリボン。水色のフリルと羊の耳が、白い医務室でやけにやわらかく見えた。


「無理しちゃだめよぉ。救護所はパルフィー先生が見てくれたから、ここからはわたしに任せてねぇ」

 声がぬるま湯みたいだった。眠くなる。


 扉が開いた。学園長が入ってくる。


 フードの奥から、アルクを見下ろした。椅子を引いて、ベッドの横に座った。


 メリーナ先生は、学園長に促され退室する。


「面白いねえ」


「あの光——何だったか、わかるかい?」


「……わかりません」


「うん。わからないだろうねえ」


 何か言おうとした。口を開いて、閉じた。フードの縁を指で弄った。


「まあ、いずれわかるさ」


 立ち上がった。去り際に振り返って、もうひと言。


「無茶は——いや、キミに言っても無駄か」


 扉が閉まった。




 廊下で足音がした。扉が少しだけ開いて、シノが覗いた。


「……起きてる?」


「起きてる」


 中に入らなかった。扉の隙間から、半分だけ顔を出していた。


「——学園長に気をつけて」


「え?」


「それだけ。——お大事に」


 扉が閉まった。足音が遠ざかっていった。


 学園長に気をつけて。何のことか、わからなかった。学園長は親切だった。拾ってくれた。試験だと言っていたが、悪意は感じなかった。


 ではシノは何を知っているのか。




 また扉が開いた。パルフィー先生だった。


「大丈夫? 無茶しちゃだめよ」


 声は柔らかかった。眼鏡がまだ少し曇っている。救護所からそのまま来たのだろう。


「先生も、怪我は」


「私は大丈夫よ。後ろにいただけだから」


 後ろにいただけ。あの構えは、後ろにいただけの人間の動きではなかった。見えた。確かに見えた。


 言わなかった。聞いてはいけない気がした。


 パルフィー先生が去ったあとも、あの構えが目の裏に残っていた。指先が揃っていた。腰が落ちていた。あれは訓練された体の動きだった。歴史教師の動きではなかった。




 夜。塔に入った。


 スフィアの輪郭が揺れていた。


「封印が——揺れた」


 声が小さかった。


「あなたが力を使うたびに、塔が応える。塔が応えるたびに、封印が揺らぐ」


 嬉しいのか怖いのか、わからなかった。たぶん両方だった。


 帰り道、研究棟の窓に明かりが見えた。覗くと、シノが机に向かっていた。分厚い写本を広げている。「塔の系譜」と書いてあった。何を調べているのか。声をかけなかった。




 寮に戻った。ポケットの石に指先が触れた。


 温かい。さっきより少し冷めている。いつもよりは温かい。


 スフィアが言っていた。「それは魔力とは違うもの」。


 石を握ったまま、目を閉じた。体の奥を、さっきの光の残り火が通っている気がした。


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