ライとシノ
訓練場の朝は、木剣の音から始まる。
ライが素振りをしていた。木剣を振るたびに、汗が飛んだ。朝日が訓練場の床を斜めに照らしている。埃が光の中で舞っていた。
訓練場の隅に、灰色の獣がいた。
猫くらいの大きさだが、猫ではない。毛並みは灰色で、耳が長く、尾が二本に分かれている。目だけが異様に大きい。金色の目がライの素振りを追っていた。追っているが、近づかない。
ムート。ライの使い魔だ。
入学時の配属試験で、ライに割り当てられた。割り当てられはした。認めていない。ライがどれだけ声をかけても、触れようとしても、ムートは距離を取る。餌は食べる。訓練場には来る。ライの手からは受け取らない。
「おーい、ムート。今日は見るだけか」
ムートが金色の目でライを見た。見ただけだった。尾が一度だけ動いて、止まった。
「見てるだけでもいいけどさ。そのうち一緒にやるからな。俺はしつこいぞ」
ムートが目を逸らした。壁の方を向いた。興味がないのか、聞きたくないのか。
アルクは訓練場の端に座って見ていた。ライが諦めない。ムートが認めない。毎朝これだ。
「なあアルク」
「ん」
「あいつ、いつ認めてくれると思う?」
「ムートが決めることだろ」
「だから毎日通ってんの。こっちから決めて、あっちが折れるまでやる」
木剣を振り直した。汗がまた飛んだ。ムートの金色の目が、また素振りを追っていた。追っているのに、認めない。
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渡り廊下でマスク先生とすれ違った。反対側からエメロード先生が歩いてきた。マスク先生が一瞬だけ歩幅を広げた。ほんのわずか。廊下の端に寄って、距離を取った。
エメロード先生は気づかなかったように見えた。アルクも、そのときは気にしなかった。
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夕方、寮の屋上にいた。
屋上には手すりがあって、校舎と塔の全景が見えた。夕日が建物の影を長く伸ばしている。風が強い。制服の裾がはためいた。
先客がいた。
長い黒髪の女子が、手すりにもたれて夕日を見ていた。同期だ。名前はシノ。入学初日の食堂で同じテーブルについていた。ライがいつものように話しかけていたが、シノはほとんど答えなかった。出身を聞かれたとき、箸を持つ指が一瞬だけ止まったのを覚えている。アルクはそこで話題を変えた。ライは気づかず三個目のパンに手を伸ばしていた。
それ以来、廊下ですれ違えば目が合う程度の距離だった。話したのは、あのとき以来ない。
横顔が逆光で暗くなっていた。扉を開けた音で、こちらを見た。
「——ああ、アルク」
「邪魔したか?」
「いいえ」
手すりの反対側にもたれた。二人の間に、三歩分の距離があった。
「アルク」
「ん」
「あのとき——食堂で。なぜ、聞くのをやめたの」
「何を」
「出身のこと。ライは聞いてきたのに、あなたは途中でやめた」
少し考えた。
「聞いてほしそうに見えなかったから」
シノが目を伏せた。指が制服の裾を掴んでいた。風が吹いて、髪が顔にかかった。
「……そう」
それだけだった。
しばらく二人とも黙っていた。夕日が沈んでいく。建物の影が校庭を覆い始めていた。2番目の塔の影が最も長い。
「防衛戦の訓練、明日あるらしいね」
シノが言った。唐突だった。防衛戦——学園の外壁に模擬敵を想定して、寮ごとに分かれて守る実戦訓練だ。前衛が敵を迎え、後衛が結界と支援で前衛を支える。マスク先生が「訓練でできないことは実戦でもできない」と言っていた。
「ああ。マスク先生が言ってた」
「アルクは——後方支援に回されるの?」
「たぶん。魔力がほぼゼロだから」
シノが何か言いかけて、やめた。手すりを掴む力が少しだけ強くなった。
「——気をつけて」
それだけ言って、屋上を出ていった。
一人残された。夕日の最後のひと筋が、塔の頂上を赤く染めていた。シノの「気をつけて」は、訓練の話だけではない気がした。気のせいかもしれない。
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その夜。塔の中。
祭壇の縁に座って、膝の上に手を置いていた。スフィアは向かいにいた。膝を抱えた姿勢はいつもと同じだったが、最近は顔がこちらを向いていることが多い。
「俺、何もできないんだ」
声に出してみると、思ったより軽かった。軽いのが嫌だった。
「魔力がほぼゼロで、術が一つも使えない。訓練でも後方に回される。戦えない」
スフィアがしばらく黙っていた。返事が来るまでの間が、最初の夜より短くなっている。普通の会話よりは長い。
「あなたには、魔力がない」
「……わかってる」
「でも——私の声が、聞こえている」
「それは——」
「それは、魔力とは違うもの」
言葉を失った。魔力とは違うもの。では何なのか。スフィアは答えなかった。答えを持っていないのか、まだ言う時ではないのか——わからなかった。
沈黙が降りた。塔の沈黙は、いつも深い。音が吸い込まれていく。自分の呼吸と、壁の奥の微かな振動だけが残る。
ムートがライを見ていた。見ていたのに、近づかなかった。スフィアに手を伸ばしたことを思い出した。触れられなかった。数センチの距離。
同じだ。認められていない。まだ。
「君が百年間——」
言いかけて、止まった。スフィアの百年と自分の数日を並べるのは、傲慢だ。拳を握った。爪が掌に食い込んだ。
スフィアが小さく首を傾げた。
「怒ってる?」
「怒ってない。——自分に呆れてる」
「それは、いいこと」
「いいことか?」
「自分を、見ているから」
声は平坦だった。百年の沈黙に慣れすぎて、声に感情を乗せる方法を忘れているだけだった。言葉の選び方に、不器用な温かさがあった。たぶん。
拳を開いた。掌に爪の跡が残っていた。
「明日も来る」
「——うん」
スフィアのうなずきは、初めての夜よりもずっと早かった。
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寮に戻ると、ライがベッドの上でムートの図鑑を読んでいた。使い魔の飼育書だ。ページの端が折られている。何ページも。
「ムート、今日も駄目だったか」
「駄目っつーか、見てたぞ。素振り、ずっと見てた」
「見てるだけで認めないだろ」
「でも見てるんだよ。見てるってことは、興味はあるんだ。あとは——折れるまでやるだけ」
ライが図鑑を閉じた。表紙に書かれた使い魔の挿絵は、ムートとは似ても似つかない。たぶん別の種類だ。
「お前の方は? 塔の子」
「……進んでない」
「進んでないけど、通ってんだろ」
「通ってる」
「じゃあ同じだ」
ライが笑った。笑ってから、明かりを消した。
同じだ、とライは言った。同じではない。似ているところはあるのかもしれない。通う。毎日。毎晩。
窓の外で、塔が立っている。声は聞こえていた。助けて、と。
魔力とは違うもの。
その言葉だけが、暗い部屋の中で残っていた。




