夜ごとの対話
毎晩、塔に通った。
結界はアルクにだけ開いた。鉄の門が軋んで、螺旋階段の青白い光が下へ続く。降りるたびに空気が変わった。地上の夜とは違う冷たさ。壁に手を触れると、石が時間を溜め込んでいるのがわかる。
最初の夜、スフィアは膝を抱えたまま、ほとんど動かなかった。アルクが祭壇の縁に座ると、虹色の瞳がこちらを向いた。
「——来た」
「来たよ」
それだけだった。何を話していいかわからなかった。二人とも黙って座っていた。壁の奥から低い振動が伝わってきた。塔の心音のようだった。
二日目、マイト先生に腕立て百回やらされた話をした。百年の重さに比べてあまりにも馬鹿馬鹿しくて、自分で呆れた。スフィアは何も言わなかった。ただ——首がわずかに傾いた。「ウデタテ」という概念が、百年の語彙に存在しなかったらしい。
三日目、スフィアの返事が少しだけ早くなった。間が二秒ほど縮まった。それだけのことだった。
四日目——
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四日目の夜が、この話の芯だ。
螺旋階段を降りると、スフィアが待っていた。待っていた、という言い方は正確ではないかもしれない。いつもと同じ場所に、いつもと同じ姿勢で座っていただけだ。でも、目がこちらを向くまでの時間が、昨日より短かった。
「——来た」
「来たよ」
いつもと同じやり取り。でも今夜は、スフィアの方から言葉が続いた。
「外の空は、今もあの色?」
「あの色?」
「……青い、やつ」
空の色を聞いている。百年間、この石の天井の向こうを見ていない。見ることができない。
「青いよ。今日は雲が多かったけど、夕方に晴れた。星が出始めたところで来た」
スフィアが何も言わなかった。ただ、目が少しだけ上を向いた。天井の石を見ていた。その先にある空を、見ようとしている。見えないのに。
沈黙が長かった。塔の中の沈黙は、地上のそれとは重さが違う。音がないのではなく、音が吸い込まれていく。自分の呼吸だけが妙にはっきり聞こえた。
「七つ、ある」
スフィアが言った。唐突だった。
「塔が。七つ。それぞれに——意思がある。私は、二番目」
「他の塔にも、精霊がいるのか」
「いた」
間があった。
「百年前の——大封印で。全部、閉じ込められた」
「百年」
「百年」
同じ言葉を繰り返した。アルクの「百年」は数字だった。スフィアの「百年」は、体に刻まれた時間だった。声の質が違った。
それ以上は聞けなかった。聞いてはいけない気がした。百年をどう過ごしたのかを、今の自分が聞く資格はない。
「——手を」
スフィアが言った。
「出して」
アルクは手を伸ばした。スフィアの半透明の指が、アルクの手のひらの数センチ上で止まった。光が揺れた。触れようとしている。触れられない。透明な壁が、二人の指の間にあった。
「触れられない」
スフィアが呟いた。声に感情はなかった。事実を述べただけだった。封印が——精霊と人の間に、何かを挟んでいる。
手を引っ込めかけた。引っ込めかけて、やめた。そのまま伸ばし続けた。触れなくていい。ただ、ここにいるということだけを手のひらに乗せていた。
スフィアの指が震えた。震えてから、止まった。
長い沈黙。
「——近づいている」
スフィアが呟いた。手を下ろして、天井を見上げた。
「何かが。この世界に」
声が低かった。さっきまでとは別の声だった。少女の声ではなく——塔の声に近い。
「塔が、震えている」
壁の奥で、何かが軋んだ。
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昼間の学園は、夜の塔とはまるで別の世界だった。
昼休みの中庭。風が草の匂いを運んでいる。上級生が芝生に寝転がって本を読んでいた。噴水の水音がする。鳩が校舎の屋根を飛び越えていった。
中庭の端で、マスク先生が学園長に茶を運んでいた。盆の上に湯呑みが一つ。歩き方が丁寧だった。剣術場で生徒を叩きのめしていたのと同じ人間には見えない。背筋が伸びて、目が伏せられて、従者のような佇まいだった。
「お待たせしました」
「ああ、ありがとう。いつも悪いねえ」
学園長がフードの下から手を出して、湯呑みを受け取った。マスク先生は一歩下がって、直立不動で立った。
アルクとライは中庭の端のベンチに座って、パンをかじっていた。
「なあ」
ライが小声で言った。
「マスク先生、変だよな」
「……何が」
「授業のときと別人じゃん。生徒にはあんなに容赦ないのに、学園長の前だと——」
「執事みたいだな」
「執事っつーか、もっとこう……借りがあるっていうか」
マスク先生が学園長の後ろを歩いていく。仮面の下に何を隠しているのか。授業をすることだけが、この学園にいる理由ではない——たぶん。
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夕方、授業を終えて校舎を出たとき、塔の近くにエメロード先生の姿が見えた。
緑色の髪が夕日に光っている。規律そのもののような歩き方で、塔の前を通りかかった。
一瞬、足が止まった。
ほんの一瞬だった。歩幅が乱れて、視線が塔の方を向いて——すぐに歩き出した。何事もなかったように。
塔の近くで足を止める人を、アルクは他に見たことがなかった。生徒も、教師も、塔の前は素通りする。当然だと思っている。立入禁止の塔。誰も近づかない塔。
エメロード先生だけが、止まった。
理由はわからなかった。
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その夜、寮に戻ると、ライが起きていた。
明かりは消えている。月明かりだけの部屋で、ライはベッドに座って壁にもたれていた。扉を開けた瞬間、目が合った。
「——おかえり」
声は普段通りだった。問い詰める調子ではなかった。
「……起きてたのか」
「お前、毎晩出てくだろ。三日前から気づいてた」
靴を脱いで、自分のベッドに座った。何と言えばいいか、考えていた。説明できることと、できないことがある。
「危ないことしてんなら、俺も混ぜろよ」
ライはそれだけ言った。問い詰めなかった。何をしているのか聞かなかった。行き先も、理由も。
「混ぜる、って——」
「いや、混ぜろっつったけど、別にいい。お前が一人で行きたいなら行け。ただ、帰ってこなかったら探しに行くからな。それだけ」
そう言って、布団を被った。三秒で寝息が始まった。
ライは——たぶん、怒っていない。心配しているのだろう。心配を問い詰めに変えない。それがライだった。村にいたときからそうだった。アルクが一人で森の奥に入って帰ってこなかったとき、翌朝「生きてた」とだけ言って干し肉を投げてきた。
窓の外を見た。2番目の塔が立っている。
スフィアが言っていた。何かが近づいている。塔が震えている。
何が近づいているのか、まだわからなかった。でも——塔の中で手を伸ばしたとき、触れられなかったあの距離だけは、確かにあった。数センチ。透明な壁。
あの距離を、いつか。
石は冷たいままだった。窓の外で、塔は黙って立っている。




