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結界の向こう側

声は、夜ごとに近づいていた。


 入学して三日目の深夜、アルクは目を覚ました。ライの寝息は安定している。規則正しい呼吸が暗い部屋に満ちていて、それがかえってアルクの覚醒を際立たせていた。


 胸の奥で何かが鳴っている。声とも音ともつかない振動が、鼓膜ではなく骨を伝って全身に響いていた。今夜のそれは、昨夜までとは質が違う。呼んでいる。確かに呼んでいる。方角もわかる。


 2番目の塔だ。


 ベッドを出た。靴を履いた。窓を開けると、夜の空気が頬を撫でた。村の夜風とは違う。建物に挟まれた風は細くて速い。遠くで犬が吠えていた。食堂の裏で飼われている番犬だ。昼間ライが撫でようとして噛まれていた。


 鞄の底に手を入れた。七角形の石に触れた。冷たい。いつも冷たい。指先に触れた瞬間、声の方角がさらにはっきりした。石が道標になっている。そんな気がした。


---


 寮の廊下は暗かった。壁の松明は消されている。床の木が、体重をかけるたびに小さく軋んだ。足音を殺して階段を降りた。出入口の扉は鍵がかかっていなかった。


 後から思えば、それも仕組まれていたのかもしれない。


 校庭を横切った。芝生が夜露で濡れていて、靴の底が滑った。月明かりが石畳を白く染めている。走っているのか歩いているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、声のする方へ。


 2番目の塔は、学園の中央にあった。


 他の建物より頭二つ分は高い。石造りの外壁は灰色で、月の光を吸い込んでいるように見えた。入口に鉄の門がある。その前に——結界があった。


 見えるわけではない。目に映る線も光もない。ただ、近づくと空気が変わった。壁がある。透明な壁が、塔の入口を覆っている。


 足を止めなかった。


 手を伸ばした。指先が結界に触れた——と思った瞬間、それは溶けた。石鹸の膜が弾けるように、音もなく消えた。鉄の門が軋んで開いた。


 誰かに叱られるかもしれない、と思った。思ったが、足は止まらなかった。


---


 中は暗かった。


 螺旋階段が下に続いている。壁に松明の跡があるが、火は灯っていない。足元だけが、かすかに光っていた。床の石が淡い青白い光を放っている。道案内のように、下へ、下へ。


 壁に手を触れた。冷たい。教室の石とは違う。もっと古い冷たさだった。百年分の——いや、それ以上かもしれない。壁が、時間を溜め込んでいる。


 何段降りたか数えていなかった。空気が変わった。地上の夜の冷たさとは違う、もっと深い——沈黙を詰め込んだ冷たさだった。音がない。自分の足音すら、壁に吸い込まれて消えていく。


 最奥に、祭壇があった。


 石造りの円形の台座。何も置かれていない。何も飾られていない。


 ただ——その上に、膝を抱えた少女がいた。


---


 白銀の髪が台座の縁にこぼれていた。


 肌は透き通るように白い。目を閉じている。輪郭が薄い。半透明の——人ではない何か、だった。祭壇の青白い光が、少女の髪を下から照らしている。影がない。影のない存在が、そこに座っていた。


 アルクの足が止まった。


 声が止んだ。


 ここだ。三年前から——いや、覚えている限りずっと聞こえていた声の出どころ。祖父が「会いに行け」と言った、その先。


 少女が目を開けた。


 虹色の瞳だった。一つの色に定まらない。見る角度で青にも緑にも紫にも見える。その奥に——長い長い時間が沈んでいた。百年、と思った。百年という数字は知っていた。歴史の授業で聞いた。百年が目の前にあると、それは数字ではなかった。重さだった。


「——スフィア」


 少女が、自分の名前を言った。声は小さかった。かすれていた。長い間使っていなかった声帯を、久しぶりに震わせたような音だった。


「塔の……意思が、宿った——精霊」


 言葉と言葉の間に、長い間があった。返事が遅い。表情が乏しい。感情という機能が錆びついてしまった人の話し方だった。——人ではないのだが。


 何を言えばいいのかわからなかった。


 スフィアがアルクを見た。虹色の瞳が、アルクの顔をじっと捉えた。


「……またか」


 小さく呟いた。


 すぐに口を閉じた。


 聞けなかった。


 沈黙が落ちた。長い沈黙だった。祭壇の青白い光だけが、二人の間に漂っている。壁の奥で、何かが軋む音がした。塔が呼吸しているような音だった。


「怖い?」


 スフィアが聞いた。声は平坦だった。怖いかどうかを気にしているのではなく、確認しているだけの声だった。


「怖くない」


 即答した。嘘ではなかった。


「ただ——」


 言葉が出なかった。百年間一人でいたのか、と思った。それを言うのは違う気がした。言葉にすると、百年という時間が軽くなってしまう。百年を、自分の口から出る言葉で測っていいわけがない。


 だから、黙った。


 長い沈黙。


 スフィアが、小さくうなずいた。何に対してうなずいたのか、わからなかった。ただ、返事までの間が——さっきより少しだけ短くなった気がした。気のせいかもしれない。


---


 塔が震えた。


 足元から突き上げるような振動。壁が軋む音。空気が一瞬で変わった。排除するような力が、アルクの体を押し始めた。


 スフィアが目を伏せた。


「——時間だ」


 その声は、少女のものではなかった。塔のものだった。低くて、重くて、拒絶の声だった。


 アルクの体が浮いた。足が床から離れた。螺旋階段を逆流するように、上へ、上へと押し戻されていく。抵抗する暇もなかった。壁の冷たさだけが背中を掠めた。視界がぐるりと回って——


 気づいたとき、塔の外に立っていた。


 鉄の門が閉じた。結界が戻った。膝に手をついた。息が荒い。手のひらに芝の露がつく。冷たい。


 夜明けの空が、東の端から白くなり始めていた。


---


「会えたかい?」


 振り返ると、学園長が立っていた。


 フードの奥から、穏やかな視線がこちらを見ていた。驚くほど近い距離だった。いつからそこにいたのか。最初からいたのかもしれない。


「……はい」


「そうかそうか」


 学園長は嬉しそうだった。嬉しそうに見える口元だけが、フードの下から覗いている。


「合格だよ。正式に魔導科に編入する」


「——え?」


「入学試験だったんだよ。最初から全部ね」


 全部——試験だった。


「最初から、知ってたんですか。俺が塔に行くことを」


「知っていたさ。声が聞こえるなら、いずれ行く。行かずにいられないからねえ」


 学園長はフードの縁を直した。夜明けの風が裾を揺らしていた。


「試されたのは、力じゃないんだよ」


「じゃあ——」


「聞こうとしたか。声が聞こえたとき、近づこうとしたか。——それだけさ」


 声が聞こえたとき。近づこうとしたか。〇・二でも、コネでも、それは関係ない。聞こうとしたかどうか。それだけが、本当の試験だった。


「でも、まあ——よかったよ。行けない子もいるからね」


 それだけ言って、学園長は歩き出した。足音が石畳を叩いて、遠ざかっていく。軽い足音だった。


「あの——」


 呼び止めた。学園長が振り返った。


「スフィアは——あの子は、ずっと一人だったんですか」


 学園長が止まった。フードの影が、少しだけ深くなった気がした。


「……長い間ね」


 それだけだった。それ以上は言わなかった。足音が再び遠ざかって、校舎の角を曲がって消えた。


---


 アルクは塔を振り返った。


 2番目の塔は、夜明けの光の中で少しだけ色が変わって見えた。灰色が、わずかに青みを帯びている。あるいは、最初からこの色だったのかもしれない。気づかなかっただけで。


 胸の奥で、声はまだ鳴っていた。スフィアの声なのか、塔の声なのか、もう区別がつかなかった。


 ポケットの石に手を触れた。冷たい。でも——さっきより、ほんの少しだけ違う冷たさだった。氷の冷たさではなく、石の冷たさ。夜明けの空気に触れた石の、自然な温度。


 また、行こう。


 明日の夜も。その次の夜も。声が聞こえる限り。


 寮に戻ると、ライはまだ寝ていた。毛布から赤い髪だけが出ている。


 窓の外が明るくなっていく。鐘が鳴るまで、まだ少しある。ベッドに腰を下ろした。マットレスが軋んだ。手のひらを見た。結界に触れた手。スフィアには触れなかった手。


 百年。一人で。


 何も言えなかった自分のことを、少しだけ考えた。言えなかったのは優しさではない。ただ、足りなかっただけだ。言葉が。覚悟が。全部。


 行った。行って、会えた。それだけは——たぶん、嘘ではない。


 鐘が鳴った。ライがうめいた。


「……朝?」


「朝」


 三日目が始まる。

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