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教師は誰も普通じゃない

朝は鐘で始まった。


 低い鐘の音が、壁を通り抜けてきた。腹に響く鋳鉄の音。村の教会の鐘よりも太い。目を開けると知らない天井がある。木の匂い。昨日の続きだった。


 向かいのベッドで、ライがうめいた。毛布から赤い髪だけが出ている。


「……朝?」


「朝」


「嘘だろ。まだ暗い」


 暗くはなかった。窓から白い光が差し込んでいて、廊下の向こうから足音が複数聞こえる。ライが毛布を頭から被り直した。


「五分」


「授業に遅れる」


「三分」


「二分で起きろ」


 ライの足が毛布から飛び出した。靴下が片方ない。


---


 最初の授業は剣術だった。


 剣術場は学園の東棟にあって、石造りの壁に囲まれた吹き抜けだった。床は硬い木材で、踏むとわずかに弾力がある。天井がないので空が見える。朝の光が斜めに差し込んで、埃が金色に舞っていた。


 生徒たちが整列して待っていると、教壇の奥から仮面の男が現れた。


 銀色の仮面が顔の上半分を覆っている。口元だけが見えた。体格はしっかりしているが、巨漢ではない。腰に槍を佩いていた。歩き方に無駄がなかった。一歩ごとに、床を踏む音の質が変わる。


「俺の名前は——そうだな、マスクとでも呼んでくれ。剣術を教える」


 それだけ言って、木剣を投げた。アルクが慌てて受け取った。もう一本が飛んできた。ライが顔面で受け止めそうになって、辛うじて右手で弾いた。


「理屈は後だ。まず痛みを覚えろ」


 容赦がなかった。


 マスク先生は生徒を一人ずつ前に呼び出して、木剣で打ち合わせた。打ち合いというよりは、一方的に叩きのめしていた。速い。視認できない速さではないが、見えたところで体が追いつかない。


 アルクの番が来た。構えた。次の瞬間には床に転がっていた。右の脇腹が熱い。打たれたのだと思う。いつ打たれたのか、わからなかった。


「遅い。立て」


 立った。また転がった。三回目で、打たれる方向だけはわかるようになった。四回目で、木剣を上げる時間だけはもらえた。五回目で、ようやく一度だけ受け止めた。手のひらが痺れた。木剣を落としそうになった。落とさなかった。


「——悪くない」


 仮面の奥の目が、一瞬だけ動いた。


 その視線の先に、中庭の柱の影が見えた。フードの人物——学園長が立っている。いつからいたのか、わからない。見ていたらしい。マスク先生がそちらに気づいた瞬間、空気が変わった。


 仮面の奥の目が、すっと伏せられた。背筋が伸びた。さっきまでの荒々しさが消えて、別の人間のように従順な佇まいになった。


 学園長が小さく手を振って去っていく。マスク先生はしばらくその方向を見ていた。それから何事もなかったかのように振り返った。


「次」


 アルクは床に座ったまま、脇腹をさすっていた。痛い。でも嫌ではなかった。理由はわからない。


 隣で同じように座っていたライが、声を潜めた。


「あの先生、学園長が来たら急に——」


「うん」


「何あれ」


「わからない」


 わからなかった。ただ、あの背筋の伸び方は——怖れているのとは違う気がした。


---


 二限目は魔術基礎だった。


 教室に入ると、黒板の前に男が立っていた。若い。三十に届かないくらい。黒髪を後ろで束ねて、目元が涼しい。教壇の上に忍者刀が置いてあった。


「里見睦月だ。魔術基礎を担当する。——ああ、それは気にするな。癖でな」


 忍者刀のことらしい。


「さて、手のひらに意識を集中して、魔力を流してみよう。何が起きるかは人それぞれだ」


 生徒たちが一斉に手をかざす。あちこちで小さな光が灯った。火花が散った者もいれば、風が渦を巻いた者もいた。ライの手のひらから、ぼんやりとした熱が出ていた。「おお」と本人が声を上げている。


 アルクの手のひらには、何も起きなかった。


 集中した。腹の底から力を押し出そうとした。何度やっても、何も起きなかった。隣の席の生徒がちらりとこちらを見た。〇・二の噂はもう広まっている。視線に同情が混じっていた。侮蔑より、同情の方が堪えた。


 睦月先生が近づいてきた。アルクの手を見て、それからアルクの顔を見た。


「焦らなくていい」


 声だけが、教室の温度を変えた気がした。


「魔力の形は一つじゃない」


 それだけ言って、次の生徒のところへ行った。意味はまだわからなかった。


---


 二限目が終わる前に、三限目が始まった。


 知らない教師が睦月先生の教室に入ってきた。ローブ姿で、手にフラスコを持っている。「我輩の教室が使えなくなった。ここを借りるぞ」。睦月先生が「俺の授業中だが」と言った。「些末な問題だ」。睦月先生が忍者刀を肩に担いで出ていった。時間割が、壊れた。


 教室に、すでに匂いがした。


 薬品と、古い紙と、焦げた何か。教壇の上にフラスコが三本並んでいて、一本は中身が紫色に沸騰していた。煙は出ていない。出ていないのに匂いだけが充満していた。


 教壇に立っていたのは、猫背の男だった。年齢がわからない。ローブの上から魔法帽子を被っていて、片目にモノクルをかけている。髪は無造作に散っていた。近づくと、薬品の匂いがした。フラスコを一本持ち上げて、光にかざした。中身が一瞬だけ赤く光って、消えた。


「我輩はリベルタ。研究者だ。——教師は副業であるよ」


 一人称「我輩」。聞き間違いではなかった。


「本業は塔の研究だ。貴様らに教えるのは、そのおこぼれに過ぎん。だが、おこぼれでも他の教師の授業よりは実になるであろう」


 フラスコを教壇に置いた。置き方が乱暴で、中身が揺れた。紫色の液体がふちを超えそうになって、ぎりぎりで戻った。


「今日は精霊結晶の反応観察をする。各自、机の上の石に手を触れよ」


 机の上に小さな石が配られていた。白い石。触れると冷たい。水晶球よりもずっと冷たくて、温度が指先を伝って腕まで昇ってくる。


 他の生徒が触れると、石がかすかに光った。色は人それぞれで、青い光、赤い光、白い光。アルクの石は——光らなかった。昨日の測定室と同じだった。


 リベルタ先生がアルクの前で足を止めた。石を覗き込んだ。


「ふむ」


 それだけ言って、通り過ぎた。ただ、通り過ぎるとき——一瞬だけ、視線がアルクの胸ポケットの方に動いたように見えた。石を入れている場所。祖父の七角形の石。


 気のせいかもしれなかった。


---


 四限目と五限目の間の廊下で、歴史教師とすれ違った。


 眼鏡をかけた女性。長い髪を一つに結んでいる。本を三冊抱えていた。すれ違いざまに一冊落とした。拾うのが速かった。落としたのは遅いのに、拾うのだけが速い。


「あら、ごめんなさい」


 壁の色に溶けてしまいそうな人だった。パルフィー先生。歴史担当。廊下の向こうに消えていった。


---


 五限目は総合魔術だった。


 教室に入ると、エルフの女性が立っていた。緑色の長い髪。耳が長い。姿勢が完璧で、背筋が一本の線のように伸びている。


「私はエメロード。総合魔術を担当する。ようこそ、歓迎しよう」


 冷たい声。嫌な冷たさではなかった。規律そのもの、という感じだった。


「魔力の基本操作は睦月先生に学んだはずだ。総合魔術では、それを実戦に近い形で組み合わせる。わからないことがあれば聞け。わからないままにしないことだ」


 訓練が始まった。的に向かって魔力を放つ基礎練習。生徒たちが次々に的を光らせていく中、アルクの的だけが暗いままだった。


 エメロード先生が近づいてきた。アルクの手の動きを見ていた。長い時間。他の生徒なら三秒で通り過ぎるところを、十秒以上。


「——続けなさい」


 一言だけ。通り過ぎるとき、教壇の方を一瞬だけ振り返った。そこには誰もいなかった。何を見たのか——あるいは何も見ていなかったのか。わからなかった。


---


 六限目は体育だった。


 体育場に立っていたのは、壁だった。


 壁ではなかった。人間だった。ただ、人間の幅を超えていた。上腕が太ももほどの太さで、胸板が樽のようだった。笑顔は満面で、圧が凄まじい。


「マイト・ダイナだ。体育を担当する」


 声が腹の底から来ていた。


「諸君! 健全な魔術は健全な肉体に宿る! 今日は基礎体力測定を行う!」


 ライが手を上げた。


「先生、質問です」


「うむ、何だ!」


「死にますか」


「死なん! 上腕二頭筋ッッ!!」


 マイト先生は自分の二の腕を叩いた。衝撃で地面が揺れた。比喩ではない。前列の生徒が二人よろけた。


 十周のランニングで三人が脱落した。腕立ての途中でさらに五人が倒れた。マイト先生は倒れた生徒を片手で起こしながら「まだまだァ!!」と叫んでいた。ライは八周目で地面に突っ伏して動かなくなった。


 アルクは十周走りきった。腕立ては六十三回で腕が上がらなくなった。


「うむ! 根性はある! 筋肉が足りん!」


 マイト先生の目が輝いていた。生徒たちの目は死んでいた。


---


 帰り道は、夕焼けだった。


 ライとアルクは並んで寮に向かっていた。ライは腕を振ることすら億劫そうだった。制服の袖が長すぎて、手が半分隠れている。


「アルク」


「ん」


「ここ、まともな大人いないな」


 少し考えた。仮面の剣術教師。忍者刀を持った魔術教師。我輩と名乗る研究者。本を拾うのだけ速い歴史教師。規律そのもののエルフ。上腕二頭筋で地面を揺らす体育教師。フードで顔を隠した学園長。


「……いないな」


「だろ」


 ライが笑った。疲れているのに、笑い方だけは元気だった。


「でも、なんかちょっと安心した」


「安心?」


「普通じゃないのは、俺たちだけじゃないってことだろ」


 返事はしなかった。足取りが、少しだけ軽くなった。


 寮に戻ると、ライは先にベッドに倒れ込んで、三秒で寝息を立て始めた。早い。


---


 窓辺に立った。


 夜の空気は村より冷たかった。風が建物の間を抜けて、少しだけ唸っている。


 2番目の塔が見えた。昨夜と同じ位置に、同じ姿で立っている。月明かりに照らされた輪郭が、夜空に黒く浮かんでいた。


 声が聞こえた。


 昨夜よりも近い。


 胸のポケットに手を入れた。七角形の石に触れた。冷たい。でも——リベルタ先生がこちらを見たとき、あの視線は石のあたりを見ていた。たぶん。気のせいかもしれない。


 パルフィー先生の、拾うときだけ速い手。睦月先生の「魔力の形は一つじゃない」。マスク先生の、学園長に向けた背筋。エメロード先生の、十秒間の視線。


 石は冷たいままだった。声は、少しだけ近い。


 窓を閉めた。ライの寝息が聞こえていた。

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