マスク先生の一日
鉢植えに水をやった。
学園長室の窓辺。小さな鉢植え。白い花が一輪咲いている。学園長が育てていた。水をやるのは、あの方がいなくなってからマスクの仕事になった。
水差しを傾けた。水が土に染み込んでいく。花が揺れた。揺れただけ。応えはない。
椅子の位置を確認した。机の前。学園長がいつも座っていた椅子。少しだけ右に寄っている。学園長の癖。左足を組むから、椅子が右にずれる。ずれたまま、戻さなかった。戻す理由がなかった。
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朝の結界巡回。
東端の壁に手を当てた。冷たい。いつもの冷たさ。異常はない。北端。西端。南端。全周。仮面の下で息が白い。朝の空気が肺に入る。冷たい。
異常はなかった。今日も。
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教師会議。
学園長室を使っていた。椅子は学園長のもの以外を並べた。学園長の椅子には座らない。誰も座らなかった。
リベルタが報告した。符紋の解析。進展はない。「我輩にもわからんものがある。珍しいことだ」。冗談のつもりらしかった。誰も笑わなかった。
エメロードが結界の状態を報告した。「安定している。今のところは」。「今のところは」が重い。
ミラージュ先生がキセルを口から離した。「あたくしの担当範囲では、異常な痕跡はなかったわ。——今のところ、ね」。煙が天井をなぞって消えた。
睦月先生が腕を組んでいた。「生徒たちの魔力訓練を強化すべきだ。次が来たとき、教師だけでは——」。言いかけて止めた。
パルフィー先生が手を挙げた。控えめに。
「あの——私にできることがあれば」
マスクは目を見なかった。声は聞いていた。パルフィー先生の声はいつも柔らかい。柔らかいのに芯がある。その芯が何なのか、考えないようにしていた。
会議が終わった。教師たちが部屋を出ていく。パルフィー先生が最後だった。扉を閉めるとき、一瞬だけ振り返った。マスクと目が合いかけた。合わなかった。マスクが先にそらした。
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学園長室の扉の前で、チャーミィ先生が伏せていた。閉じた扉を見ている。帰りを待つ犬の目だった。
廊下でエメロード先生とすれ違った。
緑色の髪が窓からの光を反射している。足を止められた。
「マスク」
「何だ」
「お前の素顔を知っているのは、もう私とリベルタしかいないぞ」
仮面の奥で、目が動いた。
「——あの方が帰るまで、私が覚えておいてやる」
エメロード先生の目は冷たかった。冷たいのに、そこに温度があった。規律の人の、規律では覆えない場所にある温度。
「去年からだ」
「何が」
「パルフィー先生の手つきに気づいたのは。授業中の手つき。本を拾うときの手つき。——あの人は、教師として正しい。正しいのに、何かが違う。一年間、見ていた」
エメロード先生はそれだけ言って、歩き出した。
一年前から気づいていた。マスクが気づいていなかったことに、エメロードは気づいていた。
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夕方。剣術場で素振りをした。百回。二百回。木剣の風切り音だけが響いている。
生徒たちが帰った剣術場は広い。天井がないから空が見える。夕焼けが赤い。
ライが来た。放課後の個人訓練。ムートがついてきている。訓練場の隅に座って、金色の目でライを見ている。
「マスク先生」
「なんだ」
「今日、顔色悪くないですか」
「仮面で見えないだろう」
「声でわかります」
鬱陶しい生徒だ。鬱陶しいが、嘘は言わない。
「構えろ。喋る暇があるなら振れ」
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夜。結界の巡回。
東端。壁に手を当てた。
焦げていた。
石の表面に、薄い焦げ痕。昼の巡回ではなかった。夕方以降に刻まれたもの。符紋ではない。焦げ痕。何かが結界に触れた痒跡。
今朝、ライに「顔色悪くないですか」と言われた。少しだけ笑いかけた。笑えた。仮面の下で、口の端が動いた。一年前なら笑えなかった。この学園に来てから、少しだけ笑えるようになった。
焦げ痕に触れた。指先が熱い。
笑えた直後に、顔が強張った。




