七角形の石
リベルタ先生の研究室は、薬品と古い紙の匂いがする。
宝珠が三つ、棚の上で淡い光を放っている。窓は閉め切られていた。紫色の光だけが部屋を満たしている。
アルクはポケットから石を取り出した。
七角形の石。祖父の鞄の底にあった石。あの秋から、ずっとポケットに入れて持ち歩いている。
机の上に置いた。宝珠の光が石の表面を照らした。七つの面が鈍く輝いた。六つの面は滑らか。七つ目の面だけが粗い。未完成のような手触り。
リベルタ先生が目を落とした。
「……これは」
声が変わっていた。飄々とした調子が消えている。
石を持ち上げた。裏返した。光に翳した。宝珠を近づけて、紫の光を石の表面に這わせた。七つの面を、一つずつ。壊れ物に触れるように。
手が震えていた。
石を机に戻した。かすかに硬い音がした。
「この石のことは——誰にも言うな」
低い声だった。理由は言わなかった。
「先生、これは何なんですか」
「言うな、と言った」
廊下を歩く足音が聞こえた。研究室の前で一瞬だけ止まった。通り過ぎていく。途中でつまずきかけた音がした。パルフィー先生だ。窓のない部屋からは見えない。足音でわかる。
リベルタ先生の声がさらに低くなった。
「特に、あの女には」
あの女。パルフィー先生のことだ。チョークを折って、本を落として、拾うのだけが速い。あの先生に、なぜ石を見せてはいけないのか。
「帰れ。石はキミが持っていろ」
---
廊下に出ると、光が眩しかった。研究室の紫に慣れた目が追いつかない。廊下の窓辺で、チャーミィ先生が日向ぼっこをしていた。尻尾だけがぱたりと動いた。
パルフィー先生が向こうから歩いてきた。本を抱えている。
「あら、アルク君。リベルタ先生のところ?」
「はい。ちょっと……相談事で」
「そう。リベルタ先生は頼りになるわよね」
何でもない笑顔だった。何でもない笑顔が——少し遠く見えた。
---
翌日。教室の窓から外を見たとき、結界の外に誰かが立っていた。
白い軍服。長い髪。学園の結界の外側、境界線のあたりに一人で立っている。
ライが窓に張りついた。
「なんだ、あれ」
シノが目を細めた。
「……スペリオルの軍服です」
声が平坦だった。平坦すぎた。制服の裾を握る手が白い。
---
二日目も、いた。同じ場所に。朝からいて、昼もいて、夕方になっても。結界には触れない。見ている。
ライが窓枠に肘をついた。
「おい、アルク。あの人、弁当食ってる」
本当だった。地面に腰を下ろして、膝の上に包みを広げている。三日目にして初めて立っていない姿だった。
ムートが教室の奥から声をかけた。
「行儀がいいとも言える」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
「三日間立ちっぱなしよりは人間的ではある」
---
四日目。白い軍服の女が、結界に近づいた。
「こんにちは」
穏やかな声だった。笑っていた。
「少しお話ししてもよろしいでしょうか」
マスク先生が槍を構えたまま、低く呟いた。「セレナ」と。名前を知っていた。
「話すことはない」
「そうですか。残念です」
セレナが踵を返した。歩き出した。
足を止めた。振り返った。マスク先生の方ではなかった。校舎を見ていた。パルフィー先生の教室がある棟を。
「——ああ、ここにいたんですね」
独り言だった。風が運んできた。声は穏やかだった。
笑った。さっきまでの笑顔と同じ形。同じ形なのに、違う笑顔だった。温度が違った。懐かしいものを見つけた顔。
セレナの後ろ姿を、渡り廊下の陰からラングリース先生が見ていた。腕を組んだまま、パルフィー先生の教室がある棟に目を移した。前髪の奥の目が、何かを確かめるように細まった。
白い軍服が、夕日の中に溶けていった。
---
夜。塔の中。
スフィアに話した。石のこと。リベルタ先生の震えた手。セレナのこと。四日間。弁当。「ここにいたんですね」。
スフィアの輪郭が揺れた。石越しの声も、少し遅くなっていた。
石の震えと、パルフィーの教室を見たセレナの目。この二つが繋がっている気がした。繋がっているのに、どこがどうつながっているのか見えない。
ポケットの石は、今日は温かくも冷たくもなかった。何の反応もない。黙っている。




