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学園長のいない朝

学園長室の扉が、開いていた。


 早朝の廊下は暗い。壁の松明はまだ灯されていなかった。薄い光だけが石の床を照らしている。


 扉が開いている。いつもは閉まっていた。


 一歩、近づいた。埃の匂いがした。昨日まではしなかった匂い。誰もいない部屋が、急速に「誰もいない場所」に変わりつつある匂いだった。


 中に入らなかった。扉の隙間から、窓辺が見えた。畳まれたフードが置いてある。マスク先生が畳んだフード。角が合っていて、しわが伸ばされている。風で裾がかすかに揺れた。


---


 大講堂に全校生徒が整列していた。壁に掲げられた旗が朝の風に揺れている。


 アルクは二列目に立っていた。去年は最前列だった。一年が経った。制服の袖に刺繍が一本増えている。二年生の印。


 隣でライが欠伸をしていた。


「朝早すぎだろ……」


「朝礼だから仕方ない」


「朝礼を午後にずらす提案をしたい」


「却下されるだろ」


 ライの袖もアルクと同じ刺繍が入っている。袖が長すぎて刺繍が半分隠れていた。


 シノはアルクの反対側にいた。何も言わなかった。


 教壇に、マスク先生が立った。槍を佩いていなかった。両手を背中に組んでいる。


「学園長は不在だ」


 講堂が静まった。新入生たちが顔を見合わせた。上級生たちは、もう知っていた。


「——私が預かる」


 声は硬かった。丁寧で、静かで、それが重い。


 手が少しだけ震えていた。背中に組んだ指先が、わずかに動いた。壇上からでは見えない距離だった。アルクには見えた。一年間、毎日木剣を振る手を見てきたから。


---


 講堂の隅で、チャーミィ先生が前脚を伸ばしていた。犬だけがいつもと変わらなかった。


 教師陣が壇を降りた。


 パルフィー先生は最後に歩いてきた。眼鏡をかけて、本を二冊抱えている。一冊がずり落ちそうになって、膝で受け止めた。新入生から小さな笑いが漏れた。


 新入生の列の前を通るとき、パルフィー先生の目が一瞬だけ変わった。新入生を見る視線に重さがあった。測るような目。瞬きの間に消えた。


 顔を赤くして、小走りで去っていった。


---


 昼休み。図書館の前で、パルフィー先生とすれ違った。


「あら、アルク君。二年生になったのね」


「ありがとうございます」


「見つかるといいわね、学園長」


 声はアルクに向いていた。目は違った。図書館の窓の向こう——2番目の塔を見ていた。一瞬だけ。すぐにアルクの方を向いて、柔らかく笑った。


「頑張ってね」


 歩いていった。本を一冊落としそうになって、膝で受け止めた。いつも通りの後ろ姿だった。


---


 午後。シノが教室の窓際に座ったまま、外を指さした。


「……あの塔、少し傾いていません?」


 2番目の塔を見た。灰色の外壁が午後の光の中に立っている。一年前と同じ塔。


 違った。頂上が、ほんのわずかに右に寄っている。見えてしまったら、もう戻れなかった。


 塔に向かった。基部にリベルタ先生がいた。片膝をついて壁に手を当て、宝珠の光で石の表面を照らしていた。普段の飄々とした態度が消えている。


「塔が傾いているように見えるんですが」


「ふむ。よく気づいた」


 立ち上がった。ローブの裾の土を払った。


「構造的な問題ではない」


 それだけ。それ以上は言わなかった。


---


 夕方、塔に入った。結界はアルクにだけ開いた。


 螺旋階段を降りるたびに空気が変わる。石と苔と、地下水脈の湿った息。壁に触れると、指の熱を吸い取るような冷たさが掌に広がった。何百回降りても、この冷たさには慣れない。


 祭壇に着いた。


 薄い。


 スフィアがいた。足を投げ出して壁にもたれている。同調の後から、この座り方をするようになった。


 輪郭が薄い。前よりも、明らかに。最初に出会った夜よりも薄い。白銀の髪が光を通している。壁の石の模様が、スフィアの体越しに透けて見えた。


「スフィア」


「……来た」


 返事が遅い。最近は早くなっていたのに、また遅くなっていた。


「体、大丈夫か」


「大丈夫じゃない、かもしれない」


 声に感情が薄い。百年の沈黙に慣れた声に、また戻りつつある。


 祭壇の縁に座った。手を伸ばせば届く距離。触れられる距離。触れたら壊れそうだった。


「今日の空の色、教えて」


「曇りだった。昼から雲が出てきた。灰色の雲。雨は降ってない」


「……そう」


「明日は晴れるかもしれない」


「……うん」


---


 帰り道。研究棟の三階の窓に明かりが見えた。


 ノックした。


「入れ」


 リベルタ先生が拓本を広げていた。紫色の宝珠の光が机を照らしている。


「スフィアが薄くなってるんです。輪郭が。去年より、ずっと」


「……知っている」


「先生。俺の祖父の名は、ガルド・ライエルです」


 リベルタ先生の目が見開かれた。


 口を開いた。閉じた。もう一度開いた。


「——なるほど」


 それだけだった。


「帰れ。今日はもう遅い」


---


 寮に戻ると、ライが起きていた。木剣の手入れをしている。


「遅かったな」


「……うん」


「マスク先生、全部一人でやってんだよな。あの人の手、朝礼で震えてた。気づいたろ」


「気づいた」


「声は震えてなかった。手だけだ」


 布団を引き上げた。


「大人って、すげえな」


 三秒で寝息が始まった。


 窓辺に立った。2番目の塔が夜空に浮かんでいる。傾いている。頂上にかすかな光が灯っている。スフィアの光。小さくて、弱い。消えていない。


 ポケットの石が冷たかった。去年は温かかったのに。今夜は、冷たい。


 窓を閉めた。

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