引き返せない先へ
学園は修復中だった。
校舎の東棟が損壊していた。窓ガラスは半分が割れた。校庭の石畳は陥没したまま、土がむき出しになっている。生徒たちが瓦礫を運び、教師たちが結界の修復にあたっていた。食堂だけは無事で、朝のパンの匂いが廊下に漂っていた。
壊れた廊下を、チャーミィ先生が土埃まみれで歩いていた。鼻先を上げて、一度だけ空気を嗅いだ。
中庭のベンチで、マルル先生が生徒の包帯を替えていた。ウサギの耳がしょんぼり垂れている。
学園長は行方不明のままだった。
マスク先生が実質的な指揮を取っていた。授業の再開。修復作業の割り振り。生徒の安全確認。仮面の男が、一つ一つ処理していた。荒々しさはなかった。丁寧だった。
学園長室は空だった。窓枠にフードが置いてあった。
アルクが学園長室の前を通りかかったとき、マスク先生がいた。フードが風で落ちかけていた。マスク先生がそれを受け止めた。丁寧に畳んだ。一折り、二折り。角を合わせて。しわを伸ばして。窓辺に、そっと置いた。
何も言わなかった。手の丁寧さだけが語っていた。
声をかけずに通り過ぎた。
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リベルタ先生の独り言を聞いたのは、その夜だった。
研究棟の廊下。部屋の扉が少しだけ開いていた。
「魔王様……」
呟きだった。続きがあったかもしれない。聞き取れなかった。
足を止めかけて、歩き出した。
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パルフィー先生が夜の校舎を歩いていた。
塔に向かう途中で見かけた。眼鏡を外して、手に持っていた。足取りは安定していた。昼間の、何もないところで転ぶ人とは違って見えた。
塔の方をちらりと見た。一瞬だけ。視線をそらして去っていった。
廊下の影に、ラングリース先生が立っていた。パルフィー先生を見たまま、何も言わずに去っていった。
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その夜、夢を見た。
六本の剣が、荒野の地面に突き刺さっていた。赤い土。灰色の空。六本の剣は円を描くように刺さっていて、それぞれが違う色の光を放っていた。金、銀、赤、青、緑、紫。
円の中心に、人影が立っていた。背を向けていた。
「——お前は、まだ早い」
振り返らなかった。背中に何かが刻まれていた。符紋ではない。もっと古い何か。
目が覚めた。夢だったはずだ。ライの寝息が聞こえた。天井が見えた。夢だった——はずだ。
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翌日の放課後。剣術場。
「六天の魔王って、何ですか」
マスク先生の手が止まった。長い沈黙。
「……なぜ聞く」
「夢を見ました。六本の剣が——」
「夢か」
木剣を下ろした。壁にもたれて、腕を組んだ。
「六天の魔王は、百年前にスペリオルと戦った六人の術師だ。大封印を行って侵略を止めた。——教科書に書いてある以上のことは、言えない」
「言えないじゃなくて、言わないんですね」
仮面の下で、口の端が動いた気がした。
「一つだけ言う。お前の力の正体は——キミの祖父が知っていた」
「祖父が——」
「遺言があっただろう」
背筋が冷えた。
「声が聞こえるなら、いつかそれに会いに行け——だったか」
「……なぜ知ってるんですか」
答えなかった。木剣を拾い上げた。
「構えろ。今日の分はまだ終わっていない」
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夕方。塔の前。
スフィアの声が聞こえた。前よりずっと近い。
「消えない方法を見つける」
塔に向かって言った。
「君が空を見ていられるようにする」
「見つかる?」
「わからない」
嘘は言わない。スペルも使えない。力の正体もわかっていない。祖父の石の意味も。六天の魔王と自分の関係も。わからないことだらけだ。
「聞くから。君の声を」
「……うん」
「じゃあ、今日の空の色を教えて」
「夕焼けだ。赤とオレンジが混ざってる。雲が紫になってきた」
「……きれい」
「ああ。きれいだよ」
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夜風が吹き始めた。七つの塔が月明かりの中に立っていた。
2番目の塔だけが、かすかに光っていた。
塔に背をもたれた。冷たい石の壁が背中に当たった。
この先に何があるのか、わからない。学園長がいなくなった。八魔将の残り七人がいる。祖父の石。六天の魔王の遺産。リベルタ先生の「魔王様」。パルフィー先生の夜歩き。マスク先生が知っている祖父の遺言。
引き返せない。引き返すつもりもない。
空に星が出始めていた。スフィアに教えた。星の数を。星の色を。スフィアは一つ一つ、「うん」と相槌を打った。
石が温かかった。今夜はいつもより少し。
「今日の空はどんな色?」
スフィアが聞いた。さっき教えたのに。もう一度聞いている。答えた。同じ空を、違う言葉で。
そうやって、長い夜が始まった。
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この世界に魔法はない。でも、精霊は居る。




