空が見える
目が覚めたのは、翌朝だった。
医務室のベッド。天井の染み。犬の形の染みが、まだそこにあった。体が重い。指先に力が入らない。
枕元に湯気の立つ薬草茶があった。丸い字で「のんでね」と書かれたメモが添えてある。メリーナ先生の字だった。
右手に、何かの感触があった。温かい。見下ろすと——スフィアが、ベッドの横に座っていた。
塔の外に、いた。
「——スフィア?」
「起きた」
声は静かだった。体が前より鮮明だった。半透明だが、輪郭がはっきりしている。白銀の髪に光が当たって、虹色の反射がある。
「なんで——外に」
「封印が一部解けた。少しだけ——出られるようになった」
体を起こした。窓を見た。朝の光が差し込んでいた。スフィアの横顔に光が当たっていた。百年間浴びていなかった光に。
窓辺では、チャーミィ先生が丸くなっていた。耳だけが、風のたびにぴくりと動いた。
スフィアが窓を見ていた。
「——空」
「きれい」
それだけだった。百年間見ていなかった空を、目を細めて見ていた。瞬きをしなかった。瞬きすら惜しむように。
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校庭に出た。
芝生が朝露で光っていた。戦闘の傷跡はまだ残っていた。石畳が割れて、地面に溝がある。校舎の窓ガラスが数枚割れたままだった。空は青かった。
校舎の屋根の端に、探索学担当のジル先生が座っていた。高い場所の方が落ち着く先生なのかもしれない。授業ではいつも先頭を走っていて、気がつくと屋根の上にいる。暗い紺の髪の下で猫耳が風に揺れ、金色の目だけが遠くの空を測るみたいに細くなっていた。こちらを見ていなかった。空を見ていた。
スフィアが立ち止まった。空を見上げた。両手を広げた。風が髪を揺らした。白銀の髪が朝の光を反射して、散った。
「風」
「うん」
「温かい」
「うん」
「土の匂い、する」
「——うん」
スフィアの目が百年分の渇きを吸い込んでいるように開かれていた。
体が薄くなり始めていた。校庭に出てから数分。輪郭がぼやけている。手の先から透明になっていく。塔の中にいなければ、存在を維持できない。
「スフィア、体が——」
「知ってる」
「塔に戻れ」
「戻りたくない」
声が硬かった。初めて聞く強さだった。
「百年。——百年、戻りたくない」
「このままじゃ——」
「消えるかもしれない」
声は平坦だった。恐怖はなかった。空を見ていたいという気持ちが、上回っていた。
「少しだけ。もう少しだけ」
空を見上げたまま。瞬きすら惜しむように。百年分の空白を、一秒で埋めようとしているかのように。
スフィアの手を握っていた。いつから握っていたのか覚えていなかった。温度がある。昨日は同調の熱に紛れていた。今のは純粋にスフィアの体温。低い。人間よりずっと低い。確かに温度があった。
「消えるな」
「約束はできない」
虹色の瞳がまっすぐアルクを見た。
「あなたが呼んだら、きっと戻ってくる」
「根拠は」
「百年待てたから」
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スフィアは消えなかった。
消えかけた。輪郭がほとんど透明になって、手の中で温度が消えかけた。塔が震えた。2番目の塔から光の糸が走った。スフィアの体に繋がった。引き戻すように。
スフィアが塔に戻った。姿が消えた。手の中から温度が消えた。
校庭にアルクだけが残った。
声が聞こえた。塔の方角から。耳元のように近い。
「今日の空はどんな色?」
「青だよ。雲が少しだけある。風がある。——君がさっき見た空と、同じだ」
「……うん」
「明日も教えて」
「ああ」
「毎日教えて」
「毎日教える」
風が吹いた。2番目の塔が朝の光の中に立っていた。前と同じ灰色の塔。
頂上に、かすかな光が灯っていた。小さな、温かい光。
スフィアが外の記憶を持って帰った。空の色と、風の温度と、土の匂いを。
それは百年間で初めてのことだった。




