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手を繋いで

 ジャノンが歩き出した。


 胸の傷が塞がり、巨大な体が立ち上がった。校庭に影が落ちた。2番目の塔に向かって歩いている。


 教師陣が食い止めようとしていた。マスク先生の槍が表皮を削った。削っただけだった。エメロード先生の光球が背中に焦げ跡を残した。それだけだった。マイト先生が体当たりして足が半歩ずれた。半歩だけ。


 学園長がいない。五人がかりで、足を止めるのが精一杯だった。


 ジャノンが腕を振った。マスク先生が吹き飛ばされた。地面を三回転がって、槍を杖にして立ち上がった。仮面が割れていた。左半分が欠けて、片目が見えた。


 塔まで、あと百歩。


 塔の陰では、チャーミィ先生が座ったまま空を見ていた。犬まで黙ると、校庭はやけに広かった。


---


 アルクは塔の前に立っていた。


 逃げるべきだった。後方にいるべきだった。何もできない。光はもう出ない。結界は開かない。


 足が動かなかった。動かすつもりがなかった。


 ここを退いたら、塔に着く。着いたら——


「スフィア」


 結界に向かって、声を出した。


「俺はまた間違えるかもしれない」


 手を伸ばした。結界に触れた。冷たかった。開かなかった。


「今は聞く。君の声を聞く」


 ジャノンが近づいてくる。地面の振動が足の裏から伝わった。五十歩。四十歩。


「だから教えてくれ。俺はどうすればいい」


 三十歩。


 沈黙。


 二十歩。


 心臓が五回鳴った。


 結界が——溶けた。音もなく。壁が消えた。鉄の門が軋んで開いた。


---


 中に入った。


 螺旋階段を降りなかった。降りる必要がなかった。スフィアが上に来ていた。


 階段の途中に立っていた。膝を抱えていなかった。立っていた。輪郭はまだ薄い。体はまだ半透明。虹色の瞳が、まっすぐアルクを見ていた。


「怒ってた」


 スフィアが言った。


「初めて怒った。百年間、怒ること——忘れてた」


 声が震えていた。怒りではなかった。もっと柔らかいもの。


「あなたのおかげで怒れた」


「ごめん」


「謝らないで」


 一歩、近づいた。


「——ありがとう」


---


 地面が揺れた。ジャノンが近い。塔の壁が振動している。


「同調したい。俺と、塔の力を一つにしたい。君はどうしたい」


 スフィアが目を閉じた。開いた。


「あなたが聞いてくれるなら」


 手を伸ばした。


 アルクの手。スフィアの手。半透明の指が、アルクの指に近づいた。数センチ。あの夜、触れられなかった距離。


 触れた。


 温かかった。半透明の手が温度を持っていた。指が絡んだ。握り返された。百年間、誰の手にも触れなかった指が、握り返していた。


 百年分の記憶が押し寄せた。暗い祭壇。天井の石。壁の染み。季節が変わっても変わらない景色。声が届かない日々。呼んでも、呼んでも。誰も来ない。来ない。来ない。——来た。この少年が。


 泣きそうになった。泣かなかった。


---


 塔の頂上から、光の柱が立った。


 白い光。学園長の金色とは違う。混じり気のない白。光が天に伸びた。黒い霧を切り裂いて、空に穴を開けた。


 光の柱が弧を描いて降りてきた。ジャノンの巨体を、真正面から貫いた。


 胸に穴が開いた。黒い表皮が蒸発した。岩のような体が砕けた。霧に還った。


 還りきらなかった。片膝をつき、穴が塞がっていく。再生が遅い。


 ジャノンが塔の頂上を見た。


「覚えておけ。残り七人は、俺より強い」


 黒い霧が渦を巻いた。ジャノンの体が霧に包まれて——消えた。東の空の黒が薄くなっていく。朝の光が戻ってくる。


---


 光が収まった。


 アルクは塔の入口に倒れていた。体が動かなかった。手だけが、まだ何かを握っていた。


 スフィアの体に色が戻っていた。半透明だった肌に、わずかに。白銀の髪が風に揺れていた。風。塔の中に風が入っていた。鉄の門が開いたままだった。


 スフィアがアルクの横に座っていた。膝を抱えていなかった。足を投げ出して、壁にもたれていた。新しい座り方だった。


「勝った?」


「追い返した。倒してはいない」


「そうか」


「残り七人は、もっと強いらしい」


「……聞いた」


 二人とも黙った。塔の外から教師陣の声が聞こえた。生徒たちの泣き声。風の音。


 手のひらを見た。スフィアの手の温もりが、まだ残っていた。温もりだけ。石越しではない、直接の温度。初めての。


「ありがとう」


「——どっちが」


「俺が。君に」


 スフィアが笑った。笑い方を忘れていたはずだった。百年間笑っていなかったはずだった。不器用で、ぎこちない。口の端が少し上がっただけ。


 目を閉じる前に、最後に見えたのは——虹色の瞳と、窓から差し込む朝の光だった。


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