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魔力適性、ほぼゼロ

 この世界に魔法はない。だが、かつて精霊が居た塔が、三日前から少年を呼んでいる。


 適性値0.2。魔法学園の試験場に、その少年は立っていた。


---


 水晶球は冷たかった。


 それだけが、やけにはっきりしていた。試験官の声も、後ろのざわめきも、どこか遠い。冷たい。硬い。自分の鼓動が、球体を伝って返ってくる。


 受験生が一人ずつ水晶球に触れる。光った。青。白。金。三桁の数字。ため息。どよめき。また光った。また三桁。列が進む。


 アルクの番が来た。


 ここに来ると決めたのは自分だ。祖父が残した言葉に従って、声の聞こえる方へ。村を出て、馬車に揺られて、二日かけて。


 光れ、と思った。


 何も起きなかった。


 水晶球の内側で、かすかに——本当にかすかに、蛍の尻尾ほどの光が灯って、消えた。


 試験官が数値盤を覗き込んだ。眉が動いた。もう一度覗いた。顔を上げてアルクの方を見た。


「適性値、0.2」


 場が静まった。


 静まってから、逆に騒がしくなった。後ろの列で誰かが吹き出した。「ゼロじゃん」と声がした。ゼロではない。0.2だ。その差は、誰にとっても意味がなかった。


 手のひらが汗で滑った。周りの受験生たちが三桁の数字を出している。


 指が水晶球を握り返していた。離せ、と頭では思った。指が言うことを聞かなかった。もう一度。もう一回だけ。胸の奥で何かが手を押している。理屈ではなかった。爪が球体の表面を引っ掻いて、乾いた嫌な音がした。


「残念ですが——」


 試験官が口を開きかけた、そのときだった。


 扉の方から声がした。


 振り返ると、フードを目深に被った人影が立っていた。いつからいたのか、わからない。背はさほど高くない。声は落ち着いていて、温かい。男なのか女なのか、判然としなかった。


「この子は私が預かるよ」


 試験官が固まった。受験生たちが振り返る。アルクだけが、水晶球から指を引き剥がすのに手間取って、声の主を見上げるのが遅れた。


「魔導科に仮入学だ。——私の裁量でね」


 フードの縁から覗く口元が、かすかに動いた。笑っている、のだと思った。


 試験官が何か言いかけて、口を閉じた。周囲の視線が刺さる。0.2をコネで拾うのか、という空気が肌に触れた。


 歯を噛んだ。コネじゃない。——じゃあ何だ。答えは出なかった。


 黙って頭を下げた。


---


 中庭に出ると、風が吹いた。


 石畳が幾何学模様に敷かれていて、所々に苔が生えている。噴水があったが水は出ていない。かわりに鳩が一羽、縁に止まって首を動かしていた。


 ベンチに座った。木のベンチは日に焼けて白っぽくなっていて、座ると微かにきしんだ。周りには誰もいなかった。受験生たちは次の案内場所に移動したらしい。「ここで待っていなさい」と試験官に言われた。


 腹が鳴った。朝から何も食べていない。村を出るとき、父が握り飯を持たせてくれた。馬車の中で食べるつもりだったが、緊張で喉を通らなかった。今になって空腹だけが正直にやってくる。


 石畳を踏む足音が近づいてきた。


「驚かせてしまったね」


 隣に座られた。近すぎもせず、遠すぎもしない。フードの裾が風に揺れて、布の端がアルクの膝に触れた。柔らかい布だった。


「あの——なぜ、俺を」


「声が聞こえるかい」


 遮るように聞かれた。アルクの言葉が終わる前に、答えが先に来た。


 体がベンチの端にずれた。半歩分。目を逸らした。噴水の縁を見ていた。鳩はもういなかった。


「……聞こえます」


「どのくらい前から?」


「覚えている限り、ずっと」


「ふうん」


 フードの影が空を見上げた。切り取られた四角い空を、目を細めて見ていた。雲が一つ、校舎の屋根を渡っていった。


「その声、まだ聞こえているかい?」


「……はい。——あの」


「うん?」


「俺を入れて、何をさせるんですか」


 聞くつもりはなかった。口が先に動いていた。声が尖っていたのだと思う。


 フードの中で何かが揺れた。間があった。風が止んだ。


「——良い度胸だねえ」


 立ち上がった。足音は軽かった。去り際にもうひと言だけ残した。


「明日から授業だ。遅刻しないようにね。——食堂のパンはおいしいよ」


 石畳を踏む音が遠ざかる。消えてから、アルクはようやく息を吐いた。息を止めていたことに、そのとき初めて気づいた。


---


 寮に向かう渡り廊下で、上級生とすれ違った。三人。制服の袖に刺繍が入っている。アルクの制服にはない。


 一人が振り返った。


「学園長に拾われた子?」


 声に悪意はなかった。たぶん。ただ、値踏みするような視線が首筋に触れた。


 立ち止まらなかった。足だけ動かした。背中に視線が残った。聞こえなくなるまで、十二歩だった。


---


 寮の部屋は二人部屋だった。


 木の扉を開けると、ベッドが二つ。窓が一つ。机が二つ。タンスが二つ。壁に小さな棚。それだけの部屋。天井は高い。木の床は歩くと軋んで、壁には前の住人が付けたらしい小さな傷がいくつかあった。


 どこかから焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。さっき言われたやつだ。腹がもう一度鳴った。


 荷物を置いて、ベッドに座った。マットレスは固い。祖父の鞄を膝の上に乗せた。革の取っ手がすり減っていて、紐の長さが左右で違う。握るたびに、祖父の手の大きさを思い出す。


 鞄の底に手を入れた。七角形の石。触ると冷たい。ときどき、ほんの少しだけ温かくなる。


 祖父が死んだ日、台所の床は冷たかった。手を握ったら、同じ冷たさだった。


 祖父の最後の言葉を思い出した。


「声が聞こえるなら、いつかそれに会いに行け」


 ここにいる。


---


 扉が開いた。


「よっ」


 赤い髪。日に焼けた肌。目が合った瞬間に、にかっと笑った。


「アルクじゃん。同室かよ、運命だな」


 ライだった。村で一番うるさい幼馴染。


 袖が長い。いつも長い。兄貴のお下がりだ。


 荷物をもう一方のベッドに放り投げた。ベッドが軋んだ。タンスの扉が反動で少し開いた。閉めもしなかった。


「腹、減ってない? 食堂まだやってるっぽいけど」


「……減ってる」


「よし行こう」


 靴を履き直す暇もなく引っ張られた。廊下に出ると、別の階から笑い声がした。誰かが歌っていた。外れていた。


 食堂は広かった。天井が高く、梁が見えていた。壁に松明が並んでいて、薄暗いのに温かい。長テーブルが六列。生徒がまばらに座って食事をしている。パンの匂いと、煮込みの匂いが混じっていた。


 ライはトレーを二つ取って、一つをアルクに押しつけた。パン、スープ、チーズ。パンは耳が厚くて、割るとかすかに湯気が出た。


「うまくない?」


「……うまい」


 本当にうまかった。二日間ろくに食べていなかった喉に、温かいスープが落ちていく。パンを噛むと、小麦の味がした。


 ライは三個目のパンに手を伸ばしながら喋っていた。兄貴たちのこと。全員力が強いこと。ライだけが魔法に目覚めたこと。


 長テーブルの端に、黒髪の女子が一人で座っていた。目が合った気がした。すぐに伏せられた。


「兄貴たちは『ライに魔法なんかわかるわけない』って言うんだよ。でも俺、適性380出た」


「380」


「すごくない?」


 すごいのだと思う。三桁なのだ。


「お前は?」


 パンが、喉で止まった。


「……0.2」


 ライが、パンを口に入れたまま止まった。


 一拍。


「ゼロじゃないじゃん」


 噛んだ。飲み込んだ。四個目に手を伸ばした。


 スープを飲んだ。まだ温かかった。


---


 寮に戻ると、窓の外は暗くなっていた。


 七つの塔のシルエットが夜空に並んでいる。星の光だけが、輪郭を浮かび上がらせていた。


 そのうちのひとつが——ひときわ大きかった。


 2番目の塔。灰色の外壁が夜の闇に溶けかけている。


 声が聞こえた。


 いつもの声だった。村にいたときから、ずっと聞こえていた声。


 近い。前より、近い。——音の中に、何か別のものが混じっている気がした。意味のようなもの。まだ言葉にはならない。


 鞄の底に手を入れた。石に触れた。冷たい。でも——脈打った。一瞬だけ。心臓の鼓動と同じリズムで。


 ライはもう寝息を立てていた。窓の外で、塔はまだ少年を呼んでいる。


 石は脈打った。確かに。


 ——それだけで、いい。


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