野ばら
野ばらの花言葉・・・「素朴な愛」
あれから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
フリージアにはわからなかったが、体感では2,3ヶ月は経ったように思えた。次の誕生日を迎えていないから、1年は経っていないはずである。
フリージアは部屋から一歩も出ることはなかったし、それはフローラのほうも同じだった。
バスルームは部屋に備え付けのものを使えば済んだし、汚れた衣服は部屋の外に出しておけばリラが新しいものと取り替えてくれた。毎日の食事を運んできてくれたのもリラだ。気づいたら、この数ヶ月、リラとしか言葉を交わしていない。
「お嬢さま。今日もきちんと召し上がられたのですね。食欲も出てきたようでなによりです。退屈はしていませんか?また新しい本をお持ちしましょう。きっと気分も晴れますわ」
リラは優しい。フリージアがずっとふてくされていても、根気強く相手をしてくれる。
「ごめんね。あなたにばかり苦労を押しつけて……わたしもわかってはいるのよ、このままじゃいけないって」
「わたくしは苦労だなんて思っちゃいませんよ」
この会話も、いま、ドア越しにしている。声しかわからないが、きっとこのドアの向こうでは優しく微笑んでいるのだろうと想像した。幼い頃、何かあるとフリージアをいつも包み込んでくれていたあの笑みで。
ふいに、ドアの向こうでバタバタと走り回る足音が聞こえた。
「誰かいるの?お客さん?」
「ああ…これから大事なお客さまが来るので、うちのメイドたちは朝からその準備に追われているのですよ。ごめんなさいね。お嬢さまを心配させるようなことではなかったのですが」
「大事なお客さま?」
誰だろう、と思っていたら、リラはあっさり教えてくれた。
「お嬢さまはご存知かどうかわかりませんが、ハイデンローゼ伯爵とおっしゃる高名な貴族のかたです。若いのにしっかりした紳士ですよ。旦那さまとは随分前からお話に来られてましたが、今日はなんでも『特別な日』だそうで」
「特別な…日?」
それを訊くのはちょっと怖い気もしたが、怖いもの見たさで訊いてみることにした。
リラはなぜか勿体ぶったような口ぶりで「知りたいですか?」と聞き返す。なんだ。なんか嫌な予感がする。
「なに…?何かあるの?」
「お嬢さまが興味がないとおっしゃるなら、わたくしは何も言いません。ですが、少しでもご興味があるのでしたら、話して差し上げないこともないですわね」
興味は…ある。
『特別な日』というのが何なのか、ハイデンローゼ伯爵とやらとどういう関係があるのか、父親とはどういう関係なのか、フリージアには知りたいことだらけだったが、その先に見える真実を知ってしまうのは少し怖い気もした。
ゆっくりと、ドアを開ける。
そこには、いつもと変わらない、優しいリラの顔があった。
「……お嬢さま」
「教えて。今日はどうして『特別な日』なの?」
**
フリージアの顔を見たリラは、大切な縁談があるから、だと言った。
ハイデンローゼ伯爵はずっとまえから父のオルム伯爵とこの話をしていて、ようやく、今日になって話がまとまったのだと。
「お嬢さんに縁談の申し込みをしたい、と、そうおっしゃったんですよ」
フリージアのベッドに並んで腰かけながら、リラはそう話してくれた。
「お姉さま、結婚するの?」
「フローラさまがですか?さあ…どうなんでしょうね」
「でも、お相手は高名な伯爵さまなのでしょう?お父さまとも随分前から話をされていたって、それは、ほとんど決定事項なんじゃないの?」
「そりゃあ、お父さまとお相手のかたとのあいだでは決まった話でしょうけれども、一番はご本人の気持ちでしょうから、気持ち次第ではどうとも言えないんじゃないですか」
「ふうん…」
フリージアはそう言ったが、納得はしていなかった。
貴族同士の結婚で、それも父親とあらかた話が付いている縁談を、娘の気持ち次第でそう簡単に破談にできるものだろうか?
フローラの性格ならできそうな気もしないではないが、どうなんだろう。
そもそも、姉は結婚という枠には収まりそうにないタイプに思える。どちらかというと、結婚や縁談というものに縛られない生き方をしそうな気がするのだ。
もっといえば、姉は『貴族』の型にはまらない生き方をするような気がする。
それこそ、あの夜、街の酒場で見た、ひとりの女給としての姿のように。
「さあ、おしゃべりはこれくらいにして、わたくしたちも応接間へ向かいましょう」
一通り話し終えたリラは、フリージアの背中を押すようにそう言った。
「わたしも行くの?」
今日は大事な客人があると、そう言ったのはリラではないか。姉の縁談相手が来ると言うのに、なぜ、フリージアがそこにいる必要があるだろう?普通に考えれば、姉の縁談の席にいる妹など、邪魔でしかたがない。フローラだってそう思うはずだ。
「お嬢さまに会いたいとおっしゃっているのですから、お嬢さま本人が会いに行くのが筋というものでしょう」
「わたしが?なぜ?」
「そりゃあ、縁談を申し込みたいからですよ。さっき申し上げたばかりでしょう。もうお忘れになったんですか」
リラは呆れたように言う。何を言っているのかと思ったが、突然、あっと気付いた。
「まさか、その縁談って……わたしに?」
驚いた。てっきり、姉への縁談だと思っていたのに。でも、どうしてわざわざ次女のフリージアに縁談を申し込んできたのだろう?
「聞きたいことがおありなら、本人に訊くのが一番ですよ。さ、参りましょう」
うむ。それはそうだ。フリージアはリラのあとについて応接間へ向かうことにした。
「失礼いたします。フリージアお嬢さまをお連れしました」
どうぞ、と声が聞こえてドアが開かれる。
見慣れた応接間だが、そこには既に父の姿があって、客人と一緒にソファーに腰掛けていた。
父の向かいに、仕立てのいいスーツ姿の男性がいる。おそらく彼がハイデンローゼ伯爵なのだろう。思ったよりも若い。背格好からして、20代前半くらいか?たぶんフリージアより少し年上くらいだと思う。
「オルム伯爵次女、フリージア・フィオーレと申します。このたびは御目掛けいただき光栄にございます。就きましては……」
一歩前に進み出て、ドレスの裾をつまみ『淑女式』のお辞儀で迎え入れる。
ハッと顔をあげると、目の前にハイデンローゼ伯爵の顔があった。
いや違う。
忘れるはずがない。この顔は…。
「レイ!?」
フリージアがハイデンローゼ伯爵だと思っていたその人は、レイ――すなわちレイモンド・セント・ル・パルファン氏だった。
「どうしてここにいるの?あなたとは会いたくない、そう言ったはずよ。なぜ懲りずにやってきたの?わたしはあなたのような人とは結婚なんてしません!!」
「フリージア、聞いて…」
「聞きたくないわ。顔も見たくない。もうあっちへ行って!!」
「フリージア、違うんだ、僕は…」
「聞こえなかったの?あっちへ行って、と言ったの!さあ、わかったら早く出て行って!!」
捲し立てるようにそう言って、ドアのほうを指差す。
しばしのあいだ気まずい沈黙が続いた。
レイは目を泳がせかけたが、フリージアがまっすぐに見つめてくるので、仕方なしに目を合わせるしかなかった。
ピリ…とした空気が部屋じゅうに流れる。
沈黙を破ったのは、フリージアではなく、レイでもなく、オルム伯爵のほうだった。
「あー…何か誤解しているようだが」
「誤解?」
父のほうに顔を向けたフリージアが、思わず、首を傾げる。
オルム伯爵はコホンと咳払いをしたあと、ゆっくりと説き伏せるように話し始めた。
「レイモンド君は私の『跡取り』にはならないよ。お断りされたんだ」
「え?」
レイがオルム伯爵の跡取りにならない…?でも、たしか、あの日は『養子に考えている』と言っていたはず。こうして縁談の申し込みにも来ているのに、断られたとは、一体どういうことだろう。
「正直に言えば、私も初めは、彼を我が家の跡取りに…と考えていた。彼は古い友人の息子で、人柄もよく知っているし、次男坊だから家を継ぐ必要もない。何より聡明だ。それにルックスだって悪くないしね」
わかっていたはずなのに、ズキリと胸が痛むのを感じた。
「だから私は彼にこう言ったんだ。『フィオーレ家の次期当主として、私の養子に入ってほしい』…とね」
「でも。断られた…のね」
オルム伯爵は頷いた。
「彼はこう言ったよ。『私は次期当主にはなりません。ですが、あなたの養子にはなれたらと思っています』と」
随分と思わせぶりな言い方だった。次期当主にはなるつもりはないが、養子にはなりたい?矛盾している。伯爵は次期当主に迎えるつもりで養子縁組を持ちかけたのに、養子になっても次期当主になってくれなければ意味がないではないか。
「早い話が、おまえと結婚したい…と言ってきたんだよ」
それは、つまり――。
「ただの養子ではなくて、婿養子、ということ?」
「そういうことだ」
レイは、フリージアが父親の跡を継ごうとしていることを知っていた。だからこそ、オルム伯爵からの誘いを『次期当主として』ではなく『フリージアの夫として』受けようと考えたのだ。
「彼から聞いたよ。おまえはこの私の跡を継ぐつもりで、これまでずっと勉学に励んできたんだってね。寄宿学校を出たあとも熱心に図書館に通い詰めているのは、そのためだと。知らなかったよ。それに驚いた。まさかあの小さかったおまえが、そこまで考えていたなんて」
フリージアだって驚いた。レイはそこまで父に打ち明けていたのだ。
フリージアが直接父親に言えなかった想いを、レイを介して伝えてくれていた。伝えた上で、結婚したい、と言ってくれたのだ。
「わたし……、お父さまの……お父さまの跡を継ぎたい」
ずっと言えなかった想いを、フリージアは、いま、初めて父親に打ち明けた。
※ハイデンローゼライン(Heidenröslein)はドイツ語で「野ばら」のこと。ハイデは『荒野』の意味で「荒野のバラ」ともいう。