ラベンダーは青い
ラベンダーの花言葉・・・「不信感」「疑惑」
父親のオルム伯爵から「おまえに会わせたい相手がいる」と言われたのは、それから数日が経ったころの夕食の席でのことだった。
「会わせたい…人?」
フリージアにはまったく見当がつかなかったが、あの父がわざわざ「会わせたい」というほどの相手だ。きっと何かあるのだろう。
「誰なの、それは?」
「会えばわかる。なあに、おまえもすぐに気に入るさ」
普段は秘密主義ではないのに、妙にもったいぶっている気がしたのが何かひっかかった。
(会えばわかるってどういう意味かしら。それに『わたしが気に入る』って?)
結局、謎は解明できぬまま、フリージアは緊張の面持ちでその日を迎えた。
既に相手は屋敷に着いていて、父親の書斎にいるというので、ドキドキしながらドアをノックする。
「失礼します。フリージアです」
「入りなさい」
奥から父の声が聞こえて、ドアノブに手を掛ける。おそるおそるドアをあけると、そこには、見慣れた父の姿と――もうひとり、若い客人の姿があった。
若い客人。
おそらく、彼が父の言う『会わせたい人』なのだろう。
結論から言えば、彼は、フリージアの知らない人……ではなかった。
「レイ……?どうしてここにいるの?」
そこにいたのは、フリージアが図書館で出会った美しい青年、レイだった。
フリージアの問いに、レイではなく、父のオルム伯爵が答える。
「紹介しよう。彼はレイモンド・セント・ル・パルファン君、21歳。私の古い知人の息子で、伯爵家の次男坊なんだが、縁あって私のもとで世話をしている。賢い青年だよ。いずれはこのフィオーレ家の養子にと考えていてね。おまえもそう思うだろう?」
なんですって。フィオーレ家の養子?だったら、血の繋がった子どもであるフローラとフリージアはどうなるのだ?
愚かなフリージアは、ようやく気付いた。
自分は最初から『父親の跡取り』になんてなれるはずがなかったのだと……。
伯爵は、フローラにも、もちろんフリージアにも自分の跡を継がせるつもりなんてなかった。
女しかいない兄弟で、男の子の跡取りがいなかったフィオーレ家は、どこかよそから養子を迎え入れるしかなかった。そして、それが、たまたまレイだったのだ。
(レイは知っていたのかしら。この話を。わかっていて、わたしに近づいた?何のために?)
この期に及んでレイが何のひとことも発しないことが、余計にフリージアの不信感を煽る。
自分だけが蚊帳の外に置かれたような気がして、気分が悪かった。
「……レイ。どうして黙っているの」
レイは何も言わない。いや、この部屋に入ったときから、彼はこちらの様子を窺うばかりで何も話してはくれなかった。
父と知り合いだったことも、父が彼を養子に考えていたことも、何も教えてはくれなかった。
「レイ……」
彼のほうを見つめたまま、フリージアは、これまでのことを思い返していた。
初めて図書館で出会ったときのこと。
指と指が触れ合って、一瞬、電流が流れたような衝撃を覚えた。
お互い読書がすきで、いろんな本の話をした。
フリージアが学を身につけて社会に貢献したいという話をしたら、それはいい考えだと賛成してくれた。
あの日々はすべて嘘だったのだろうか?
それとも、すべてわかっていて、フリージアをからかっていただけ?
信じたくなかったが、そうとしか思えなかった。
「騙していたのね。すべて知っていたんでしょう?図書館に行けばわたしに会えると、そう言われた?それで図書館に行って、父親の跡を継ごうと躍起になっている女を見つけて陰で笑ってたのね? ――継げるはずもないのに、おかしなことだって」
「違う!!」
そのとき、初めて、レイが声を荒らげた。
「違う。ちがうんだ。フリージア、僕は……」
「言い訳は聞きたくないわ。あなたのこと、信じていた。信用してもいい人間だって、そう思い始めていた。でも、それが間違いだったのね」
これ以上、レイと話を続けるつもりはなかった。正直に言えば顔を見るのもつらかったし、二度と会いたくない、というのがいまの本音でもあった。
「フリージア、待って……」
レイが止めるのも聞かなかった。
フリージアは書斎を出て、さっさと自分の部屋にこもった。
大好きな父親とレイ、大切に想っている二人から同時に激しいしっぺ返しをくらった気分だった。
もう誰も信じられない。
お父さまも、レイも、お母さまやリラにだって会いたくない。
ふと、お姉さまのことを思い出す。
大好きだったお姉さま。
フィオーレの家に寄り付かなくなって、もう、何年も経つ。
いまはどこにいるのだろう。ひょっとしてまだ街に?
(お姉さまは、知っていたのかしら。わたしやお姉さまが家を継げないことを。知っていて、家を出た?まさか)
あながち間違いではないのかもしれない、と思い立つ。
ああ見えて案外、頭のいい人だ。何らかのきっかけで自分が…自分と妹が家を継げないと知ってしまったのかもしれない。知った上で、家を出よう、というのが姉の選択だったのではないか。
(お姉さま、どこにいるの。わたし、お姉さまに会いたい。会って話がしたい)
レイと会いたくなくて、父や母にも会いたくなくて、いままで避けていたはずの姉に会いたくなるのはなんて皮肉なんだろう。
しかし、いまのフリージアが腹を割って話せるのは、間違いなく、姉のフローラしかいなかった。
**
次の日、フリージアは姉を探して街へやってきていた。19歳の若い娘であるにも関わらず、お目付け役もつけずに…だ。リラが知ったら卒倒していただろう。
(でも、お姉さまは必ずいるはず。この広い街のどこかに)
さんざん歩き回って、一軒の酒場の前に辿り着いたころにはすっかり辺りも暗くなっていた。喉も乾いていたし、正直に言えばお腹だって空いていた。
焼いたパンとチーズ、それからビールは苦手なのでワインを注文して(一応、この国では18歳になれば成人とみなされる。それは飲酒に対しても同じだ)辺りを見回す。小さな店だが雰囲気は悪くない。酒を飲みながら談笑する客たち。店主と客との距離も近く、まるで長年連れ添ってきた友人のように熱い会話を交わしている。派手なドレスを着て専属の給仕のいるレストランで食事するのが当たり前になっているフリージアにとっては、何やらくすぐったい感じもしたが、嫌いではない、むしろ居心地のよさを感じていた。
「はい。まずはワイン、それから焼いたパンとチーズね」
しばらくすると女給がやってきて、注文の品を運んでくる。なんてことない瞬間だが、ふと、彼女のほうを見上げたそのとき、言いようのない既視感に襲われた。
彼女、どこかで見たことがある。でもどこで?初めて来た店なのに……。
だが、それは目が合った瞬間に確信に変わった。『どこかで見たことがある』なんてレベルではない。ずっと見てきた顔だ。忘れるはずがなかった。
「お姉さま……!?」
あろうことか、その女給の顔は、随分前に家を出て行ったフリージアの姉、フローラの顔にそっくりだったのである。見間違えるはずがない。これはフローラだ。でもなぜ姉がここに?恰好だって家にいたころとは違いすぎる。ボロきれを継ぎ足したような服、それもところどころシミや煤で汚れていて、平民の娘のようだった。
「どうしてここに?それに、その恰好はなに?お父さまが知ったら悲しむわよ。煤で汚れたツギハギだらけの服を着て、下働きの男たちが来る店で女給をしているなんて。仮にも貴族の娘が、そんなことをしていいと思っているの」
自分でも気づかぬうちに、声を荒らげていた。フリージアの声に気付いた客の何人かが振り返って、二人を見る。その中には店主の姿もあった。
「……知らないわ。あなたなんて知らない。人違いじゃないかしら?世界には自分と似た人が3人いるってよく言うものね」
女はそう言ったが、間違いない、この声…この喋り方…姉のフローラだ。
なぜ『知らない』などと嘘をつくのだろう?どうして家に帰ってこないの?
「人違いなんかじゃないわ。あなたはお姉さまよ。オルム伯爵家の長女、フローラ・フィオーレ、そうでしょう?」
伯爵家…と聞いた瞬間、周囲がざわめくのを感じた。
「やめて。その名前で呼ばないで」
「ほら、やっぱりお姉さまじゃない。どうしてこんな店で働いているの?その恰好は何?家になかなか帰ってこないのは、そのせい?一体、何があったの?」
「しつこいわね。あんたには関係ないわ」
「関係なくないわ!だってわたしは……」
「はい、そこまで」
思わずヒートアップしそうになったところを、やってきた店主に止められた。
店主はフローラのほうを向き直ったあと、確かめるようにこう訊ねる。
「いまの話は本当かい?おまえさんが、貴族のお嬢さんだって話は……」
わずかの沈黙の後で、彼女は言った。
「本当よ」
女給はフローラだった。
働いていた理由をフリージアには明かさなかったが、以来、フローラが店で働くことはなくなった。いや、街に行くことすらなかった。街に行くことも、庭に出ることもなく、ただずっと部屋にこもって一日を過ごしている。
フリージアもまた、図書館に行く気力もなく、父や母と顔を合わせるのも気まずくて、ずっと部屋にこもっていた。