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沈丁花

沈丁花の花言葉・・・「栄光」「勝利」

 初恋の記憶を覚えている人はどれくらいいるだろうか。

 それが幼ければ幼いほど、遠い過去の記憶となって、いつのまにやら自身の記憶からすっぽりと抜け落ちてしまう。そんな人が大半なんじゃないだろうか。

 だがフローラの場合は、25歳になったいまでも忘れられない初恋の記憶があった。


 忘れもしない。5歳の夏だった。

『遠い親戚の男の子が遊びにくる』と聞かされて、当時妹も生まれておらず、ほかに遊び相手のいなかったフローラは喜んだ。その男の子が来たら、なんて声をかけよう。初めてだからやっぱり挨拶から入るのがいいかしら。木登りもしたいし綱渡りもしたい。マフィンがお嫌いでなかったら、リラに言って作ってもらうのもいいわね。

 結果として、その少年――ハイドは木登りよりも読書が好きな物静かな男の子だったのだけれど、フローラの持ち前の明るさにすぐに打ち解け、一緒にリラの作ったマフィンを食べる仲になった。

 向こうがどう思っていたかはわからないけれど、フローラのほうは、いつかお嫁に行くならハイドのような人がいい、と思っていた。

 それが叶わない夢だと知ったのは14歳のときだ。

 14歳…。

 3歳上のハイドは、当時17歳になったばかりだった。数日前に社交界デビューを済ませたところで、あのころのあどけない感じとは一転、洗練された大人の男になっていた。


「聞いて、フローラ、僕、婚約したんだ。こないだデビュタントを済ませただろう? そのときに出会った素敵な女性と『これは運命だ』って話になって。彼女が18歳を迎える2年後の12月を待って式をしようということになったんだ」


 嬉しそうに話すハイド。きっと、古くからの友人に自分のこの喜びを共有したかったのだろう。兄妹のように過ごしてきたフローラだから、自分のことのように喜んでくれると思ったのかもしれない。

 でもフローラは、ちっとも嬉しくなんてなかった。


 ――どうして?

 ――どうしてわたしじゃないの、ハイド?

 ――わたしでは『運命の相手』だって思えなかった?


 ハイドのためにと想いをこめて作ったマフィンを、くしゃり、と手の中で握りつぶした。

 同じくハイドのことを慕っていたフリージアは、突然のことにショックを受けていたようだけれど、そんなもの、フローラの感じた痛みに比べれば可愛いものだ。


(5年が何よ。わたしはハイドのことを、9年も想い続けていたわ)


 フローラが少しずつ変わり始めたのは、そのころからだった。


 古臭いしきたりに縛られたくないと、頻繁に家を開けるようになった。街では姿を偽り、平民の娘のように振る舞った。『伯爵令嬢』のままでいたくなかった。

 ハイドのお嫁さんになれないのなら、貞淑な妻として顔も知らない貴族の男に嫁ぐくらいなら、初めから、貴族の娘になんて生まれなければよかったのだ。


(わたしが平民の娘だったら、なにか変わっていただろうか。たとえばこれから運命の人と巡り合って恋をするとか)


 3年間の寄宿学校生活を終えて戻ってきたときも、フローラはほとんど家にいることがなかった。

 平民の娘のような恰好で街をうろつきながら、いつかどこかで運命的な出会いがあったら、などと夢想じみたことを考えていた。


 そんなある日のことだった。

 ふと、父の書斎の前を通りかかったフローラは、偶然、ドア越しに聞いてしまった。

「……ああ……彼を養子に……娘たちには継がせられない……いずれは家を出る……」

 途切れ途切れにしか聞こえなかったが、言わんとすることはわかる。

 つまり、父は跡取りに養子を迎えようとしている、ということ。娘たちには継がせられないというのだから、家を出ると言ったのはフローラたちのことなのだ。

「それは本当なの、お父さま」

「フローラ……!?聞いていたのか」

 フローラは信じたくなかった。大好きな父親が、自分たちを()()()()()としているかも、なんて。

「本気なの。養子を迎えるって」

「……ああ。本気だ」

 それで、フローラも覚悟を決めた。

「わかった。なら、わたしもこの家を出て行くわ。安心して。二度と帰るつもりはないから。その、養子に入るかたの邪魔もしないわ」

 父は驚いていたが、それ以上、なにも言わなかった。



 **


 勢いで飛び出したはいいものの、これから住む家のあてなんてない。

 どうしよう。野宿でもする?

 とりあえず今夜だけ宿を借りて、それからゆっくりアパートでも探そうか。


 考えあぐねていたら、ふと、一軒の酒場の前にたどり着いた。

 ドアから小太りの中年男性が出てきて、看板を広げている。

 そろそろ開店の時刻なのだろう。気づけば空は日暮れに赤く染まっていた。


(……わたしが、もし平民の娘だったら。たとえばこの酒場の店主夫妻の娘として生まれていたら)


 じっと見ていたのがバレたらしい。おじさんはハッと振り向くと、何事かと声をかけてきた。


「お嬢さん、何かうちに用事かい? すまないが、開店は6時からなんだよ。あと10分くらい待ってくれな」


「ちが……ちがうんです、わたし」

「うん?」

 ただ見ていただけなんだと言おうとして、気づいたら、口走っていた。

「わたし……帰るところがないんです。それで、今夜の寝床を探していて。どこで過ごそうかって考えて」

「なんだ。そんならうちに泊まったらいい。うちは宿屋でもなんでもねえが、なあに、お嬢さんひとり泊めるくらいわけねえさ」

 まさかこんなにうまくいくとは考えていなかった。けど、これはもしかしたらチャンスかもしれない。

「お金は働いて返します。ですから、わたしを、ここに置いてもらえませんか」

 それだけでフローラが『訳あり』だと勘付いたらしい。だけど店主は、詳しいことは聞かずに条件を呑んでくれた。

 フローラが「昔の名前は使いたくない」と告げたら、新しく『カンナ』という名前を授けてくれた。店主の妻『アンナ』にも通じるいい名前だ。

 助けてくれた店主自身の名前は『ノビル』といった。

 ノビルとアンナの夫婦には子どもがなく、フローラ…もといカンナのことを、本当の娘のように可愛がってくれた。カンナも持ち前の明るさですぐに酒場になじみ、いつしか店の看板娘と呼ばれるまでになっていた。


(……これでいい。これでいいんだわ。わたしは初めから、ノビルとアンナの娘だった。貴族の娘なんかではなかった)


 トマス少佐と出会ったのは、そんなときだ。

 彼は酒場の常連客で、国の衛兵隊に勤める腕のいい騎士だった。

 歳はカンナより10歳上の29歳。

 いままで年の近い男の子(といってもハイドだけだが)としか遊んでこなかったカンナにとっては、29歳の少佐はひどく大人の男性に見えた。


「これは初めて見る顔だな。新入りかい?」


 ビールを運んできたカンナの顔を見て、物珍しそうに彼は言った。


「ノビルとアンナの娘なの。ここの店主の」

「親父さんに娘がいたなんて、初めて聞いたが」

 さすがは常連客。店主夫妻に『娘がいない』ことはよくわかっている。

 だが、そこはカンナにも考えがあった。

「子どもだったから、連れてきてもらえなかっただけよ。最近19歳を迎えたから、それならそろそろうちの店で働いてみるかって、声をかけてもらえたわけ」

「なるほど…」

 この話は店主夫妻にもきちんと相談して承諾をもらっている話でもある。カンナが19歳を迎えたばかりなのは事実だし、最近働きはじめたのも事実だから、みんなすっかり信用してしまっている。カンナ自身、自分は本当にこの家の子で、いままで店に来なかったのも子どもだったから連れてきてもらえなかっただけではないか、という気がしてきた。

「言われてみると、そうか、親父さんに似ているな」

「そんなこと…初めて言われたけど…」

 血の繋がっていないノビルとカンナが、似ているはずがない。カンナは本当は貴族の娘の『フローラ』で、血の繋がった父親はただひとり、ニレの木屋敷のオルム伯爵だけなのだから。

「いいや、そっくりだよ。特にその、笑った時に目尻にしわができるところとかね。それに親父さんに似て人懐っこい」

「わたしが人懐っこい?」

 少佐が力強くうなずく。

「不思議な子だよ。まだ若いのによく働いて、ほかの客からの反応もいい。既に店では『看板娘』になっているんじゃないか?現に僕だって、今日初めて会ったはずなのに、もう君のことが好きになりはじめている!」

 まさかお堅い軍隊の『少佐殿』が、初めて会った娘相手に、こんな冗談めいた台詞を吐くなんて思いもしなかったカンナは、腹を抱えて笑い出した。

「あっはは。それってナンパ?あなたみたいな人でも女の子を誘うことなんてあるのね」

 そう言うと、少佐はちょっぴり不服そうな顔をした。

「……別に、僕は誰でも彼でも誘うってわけじゃない。そんなに軽薄じゃない。僕が言ったのは、そう、相手が君だったからだ」

「わかってるわ。わたしも、あなたが軽薄な人だとは思わないもの」

 からかわれたと思ったから、反対にからかってみただけだ。本気で言ったわけじゃない。

 でも所詮その程度のこと、カンナが言い訳などしなくても、彼はとっくに『わかって』いた。

「……そんなことだろうと思っていたよ。まったく君にはかなわないな」

「お褒めにあずかり光栄にございます ――少佐殿」

 わざとらしくスカートの裾を持ち上げて、恭しくお辞儀をしてみせる。貴族の娘が偉い軍人さんや高名な貴族の紳士に出くわしたときの、お決まりの仕草だ。

「その『少佐殿』と言うのはやめてくれ。自分がそう呼ばれるたびにむずがゆくなる。せめて酒場でくつろいでいるときくらいは普段の自分でいたいんだ」

「なら、なんて呼べばいい?」

 彼はしばらく考える素振りをしてみせたあとで、ややあって、こう告げた。

「そうだな……ダフネ、そう、ダフネにしよう。僕の本当の名前はダフネ・トマスというんだ。トマスでもいいが、できたら、ダフネと呼んでほしい」

「わかったわ、ダフネ。ならわたしのこともカンナと呼んで」

「ああ。カンナ」

 実際に響きとしてそう聞くと、わたしは確かに『カンナ』なのだ、という気がしてくる。わたしはフローラじゃない。貴族の娘でもない。ごく普通の、酒場の店主夫妻の娘として生きてきた平民の娘なのだと。

※ダフネはイタリア語やフランス語で「沈丁花」のことです。

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