虞美人草
ポピーの花言葉・・・「恋の予感」
それから3年の月日が流れ、フリージアは無事、寄宿学校を卒業してお屋敷に戻ってきた。
今年で19歳。初めてこのお屋敷を去ったときは若干幼さの残っていた顔も、心なしか、シュッとしたように見える。
姉のフローラに関しては、あれ以来、一度も家を訪ねていない。
いまはどうしているのか。ちゃんとごはんは食べているのか。
お屋敷を出られないリラにとってはもはや知る術もないことだが、あの子が路頭に迷っていると思うと不安でしかたなくなる日もあった。
「お姉さまは?相変わらずいないのね。しようのない人だわ。貴族の娘という自覚がないのかしら」
フリージアは溜息をつくように言う。
ちがう、違うのだ。フローラさまは決して貴族の自覚がないわけではない。
「違うんです、お嬢さま。お姉さまは……」
「何が違うの?違わないでしょう。お姉さまのあの振る舞いぶりは貴族の娘というには程遠かった。家出ばかり繰り返して、街では遊び呆けて、そう、あれはまさしく浮浪者のすることよ」
浮浪者……!
そう聞いた瞬間、リラは言葉を失った。まったくなんてことを言うのだ。それも実の姉に対して。
「お嬢さま!なんてことをおっしゃるんです!フローラさまは……フローラさまは……」
「本当のことを言って何が悪いの。だってお姉さまが『浮浪者』なのは事実でしょう」
なのにこの娘ときたら、ちっとも反省していない。
「お嬢さま、それ以上言うといくらお嬢さまでも怒りますよ」
「かまわないわ。だって間違ったことは言っていないもの」
「お嬢さま!!」
リラは語気を強めたが、フリージアは聞かなかった。
「正直に言うわ。わたし、お姉さまが大きらい。どうしてあんな人がお父さまの娘なんだろうって、仮にも伯爵家の令嬢として恥ずかしくないのかって、いまでも疑問に思うわ。あの人の振る舞いが、お父さまの顔に泥を塗っていることが許せないの」
初めて語られたフリージアの憎しみ。それは、大切な父親を想うがゆえのことだった。
大のパパっ子だったフリージアのことだ、父親に反抗してばかりいた姉のことをヘイトの対象に見てしまうのはしかたのないことなのかもしれない。
でも……。
「お嬢さま、覚えていらっしゃいますか。まだほんの子どもだったころのお嬢さまは、いつもお姉さまのあとをついて歩いて、お姉さまの真似っこばかりしていたんですよ」
そう。あのころのフリージアは、いつも遊んでくれる優しいお姉さまが大好きだった。
なのに……いつからだろう。ふたりは変わってしまった。
フローラは街に出て遊び歩き、フリージアは図書館にこもるようになって、お互いがお互いを避けているようにも思えた。
「知らないわ。そんなの……、ずっと昔の話よ」
フリージアは、ちょっと寂しそうに、両の目を伏せて呟いた。
**
お屋敷に戻ってきてからのフリージアの日課は、朝早く起きてキッチンで働く使用人たちに挨拶し、庭に出て庭師に声をかけ、それからようやく起きてきたお父さまに声をかけて、街の図書館に行くのが恒例だった。この図書館は、時々、古本屋だったり、家の書斎だったりするのだが、いかにも本が好きなフリージアらしい過ごし方である。
今日も、いつものように図書館に出かけていた。
村で一番の大きな図書館。そこにはフリージアの背丈の何倍もの大きな本棚があって、フリージアが一生かかっても読み切れないほどのたくさんの本が所蔵されていた。
今日はどんな本を読もう?
あっちは先週読んだから、今週はこっちの本にしてみようかな。
ずらりと並んだ本を眺めながら『これ』という本を選ぶ時間は、何物にも代えがたいものがある。
フリージアにとって、この上ない至福の時間だった。
(そうだわ。今日はこの本にしよう)
そう思って手を伸ばした、その瞬間――。
指先が、本ではない何かに触れた。
「あっ」
「す、すみません……」
フリージアの指が触れたもの。それは、奇しくも同じ本を手に取ろうとした、ひとりの男性の指だった。
しわひとつないシャツに、光沢のある素材のジャケット。一目見て上流階級の人間であることがわかる。そしてそれを難なく着こなしてしまうのが、彼だった。
「本、お好きなんですね。こりゃまた随分と難しそうな本だな」
そう言ってさりげなく本を差し出してくれる。
初めは戸惑ったが、フリージアは本を受け取り、それから男性のほうをまじまじと見た。思ったよりも若い。それに、なかなかのハンサムだ。形の良い唇が弧を描くようにくいっと上がり、フリージアのほうを見つめている。
「……そうよ。いけないかしら。女には学なんて必要ない、女らしく愛嬌を振りまいていればいい、とか言うつもりなのね」
紳士は、それを聞くと、堪えかねたように吹き出した。
「ははっ。おもしろいお嬢さんだ。別に僕は、女性だから、などと非難するつもりはありませんよ。むしろ、女性だからこそ、学を身につけて社会に貢献しようという人に僕は惹かれますね。この社会はまだまだ男性優位のことも多いですが、そういうときだからこそ、女性ならではの視点が必要だと思いますから」
フリージアは彼の話を黙って聞いていたが、やがて聞き終わると開口一番にこう訊ねた。
「あなた、名前は?」
「……はい?」
一瞬、彼が面食らった。
「名前よ。初めて会った女性に対して、名前も名乗らずにだらだらと長い話を聞かせるなんて、あんまりにも失礼じゃございません?紳士の風上にもおけないわ」
フリージアが言うと、彼は急に佇まいを改めて『紳士的な態度』で彼女の目前に立った。
「申し遅れました。僕はレイ、いまは然る伯爵のもとで一流の紳士になるための修行をしています」
「レイ?変わった名前ね」
「南国の島の言葉で、絆、という意味があるのですよ。父が昔、遠征で南の島へ行ったとき、現地の人に教えてもらったそうです。彼らは、現地に咲いている花を花輪にして、弔いやお祭りなどの儀式のときには幸運を祈って必ず贈りあうそうで、その花輪のことを『レイ』というんですよ。父はその話を大変気に入り、僕に『レイ』と名付けたんだそうです」
「ふうん」
この男のことはどうでもいいが、彼の父が聞いた、南国の島というのは少し興味があった。
「あなたは?あなたの名前も教えてください。それとも、昨今の淑女は、相手に名乗らせて自分は名乗らないのが流儀ですか?」
途端に、フリージアの顔がパッと赤くなる。
「……ッ、言うわ!言うわよ、言えばいいんでしょう!?フリージア。フリージア・フィオーレ、19歳よ」
「フィオーレ…というと、オルム伯爵のところのお嬢さんですか?」
「そうよ。悪い!?」
フリージアが憤慨すると、またレイが笑い出す。この男、もしかしてフリージアをからかっているのかもしれない。だとしたらすごく失礼な男だ。
「そんなことは言ってませんよ。ですが、はは…やはりあなたはおもしろいかただ」
「おもしろいですって?」
「図書館で偶然出会った女性にしつこく絡む奇妙な男…とでも思っているのでしょう。その視点は間違ってはいませんが、それは同時に、あなたが人目見たら忘れられなくなるほどの『強烈な女性』だからですよ」
「な…、わたしのどこが『強烈』なのよ!!」
フリージアは顔を真っ赤にした。やはりこの男、失礼極まりない。
「ははは…!!やはりあなたは最高の女性だ…!!!」
「もう!!」
フリージアは怒り狂い、本を彼に押しつけると慌ててどこかへ走り去ってしまった。
その後ろ姿を見つめながら、レイがぽつりとつぶやく。
「虞や虞や汝を如何せん…か。フリージア、僕は君に何をしてやれるのかな」
押しつけられた本の表紙には、遠い異国の文字で『史記』と書かれていた。
※虞美人草はポピーのこと。コクリコ、ひなげしともいう。虞美人は中国の古い伝説で項羽の恋人だった虞妃のことです。