夏の名残のバラ
バラの花言葉・・・「愛」
当代のオルム伯爵家には男子がいない。
通常であれば、限嗣相続、すなわち遠戚の男子を1名連れてきて、伯爵の持つ土地・屋敷・爵位を含むすべての財産を継ぐことになる。
この場合、『娘』であるフローラとフリージアには相続の権利さえ発生しない。
遠縁の男子。
フィオーレの血縁は現在、男子の数よりも女子の数のほうが多く、親戚筋もほとんどが娘ばかりの女系一家であった。その中で唯一、男の子として生まれたのが、オルム伯爵の父親の妹の、夫の腹違いの弟の、そのまた娘の3番目の子どもとして生まれたハイドだ。
ハイドはフローラより3つ年上で、つまりフリージアの9歳上になるわけだが、年頃の近い3人は自然と仲良くなり、恰好の遊び相手として幼年期をともに過ごす間柄となった。
だから夫妻は伯爵家の相続人としてこのハイド少年をぜひにと考えていたし、それは伯爵家で働いている使用人たちも、友人知人たちもきっとそうなるだろうと信じて疑わなかった。
これはメイドのリラが後から聞いた話だが、父の伯爵としては、いずれはこのハイドに、娘ふたりのうちどちらかの婿になってもらえればと考えていたようである。
娘たちは娘たちで、また別の意味の策略があった。
フローラがハイドに初めて会ったのは5歳のとき。ハイドは8歳で、まだほんの子どもだった。
フリージアがハイドに初めて会ったのは、だから正確に言えば母親のお腹にいたころということになるが、そんなこと覚えているはずもないので、4年後、3歳になったばかりのころに12歳のハイドと会っている。3歳の幼い少女の目からは、12歳の幼馴染と9歳の姉の姿はさぞかし大人びて見えたに違いない。
ほかに遊び相手のいなかった姉妹が唯一遊ぶ相手、それも同世代の男の子となれば、特別な感情が芽生えるのも不思議な話ではない。
フローラもフリージアもハイドのことが『大好き』だったし、その『好き』が単なる幼馴染としての『好き』ではなく恋愛感情としての『好き』に変わるのは時間の問題だった。
あの日、お屋敷のキッチンに漂う甘い香りを、リラはよく覚えている。
甘いお菓子がお好きな方だった。
遊びにきた日には必ずと言っていいほどリラお手製の甘いマフィンを欲しがり、フローラやフリージアとお互いの取り分を競うようにして召し上がっていた。
大好きなハイドのために、自分でマフィンを作りたいとフローラやフリージアがリラにお菓子作りを教わりにきたこともあった。
最後の日も…、そう。
フローラは。そしてフリージアは。ハイドのために、想いをこめて自分なりのマフィンを焼き上げたのだ。
なのにあの方は……想いもむなしくほかの女性のもとへ行ってしまわれた。
フローラが14歳、フリージアは8歳だった。
その頃、社交界デビューを終えたばかりだった17歳のハイドは、はじめて行ったパーティーの席で美しい貴族の娘に出会い、そこで自らの運命を変えるような恋に落ちた。
そして、事もあろうに、その娘と婚約するなどと言い出したのである。
限嗣相続を目論んでいた伯爵には青天の霹靂ともいえる出来事だったし、フローラにとっても、またフリージアにとっても衝撃的な出来事であるのは変わらなかった。
こうして、姉妹の初恋は苦い思い出へと変わった。
伯爵が新しい相続相手の候補をどう決めているのかはわからない。
ハイド青年のほうは、あれからその娘と正式な婚姻を済ませ、遠く離れた地で、しあわせな結婚生活を送っているそうだ。