赤いフリージア
フリージア(赤)の花言葉・・・「純潔」
フリージアの口から本音を聞いた父は、やはりそうか、と言うように大きく頷いた。その上で、改めてフリージアを正式な跡取りに任命したいとまで言ってくれた。
「いいの…?」
まだ不安そうなフリージアに、父の伯爵は安心させるように続ける。
「フリージア自身が『継ぎたい』と言ってくれているんだ。いいに決まっているだろう。私としても、実の子に跡を継がせられるのだから、これはもう大歓迎だよ」
思えばおまえは幼い頃から私の仕事に興味を示してくれたね、と懐かしく語る様子を見て、フリージアも懐かしくなった。父の書斎に入り浸り、父のひざの上に乗っかって難しい本を読みあさった日々。知らない言葉が増えるたびに嬉しくて、もっといろんなことを知りたいと思うようになった。初めて『父の跡を継ぎたい』と思ったのもこのころだ。そのときはまだ、限嗣相続だとか養子縁組だとかいう話は知りもしないころだったけれど。
「あの」
そのとき、ふと、いままで脇に控えていたリラが遠慮がちに口を挟んだ。
「つかぬことをお伺いいたしますが、この辺りの土地では『限嗣相続制』が主流だったかと存じます。旦那さまは、そちらを廃止なさるお考えでよいのでございましょうか」
このとき限嗣相続の言葉を初めて知ったフリージアに、リラは小さな声で「ご長男だけが当主の権利を相続できる制度のことですよ」と教えてくれる。
だがオルム伯爵は、そんなことなど気にもしていなかった、という風に声を立てて笑い始めた。
「限嗣相続?そんなものはハイド青年が婚約したときから破綻しておるよ」
ハイド青年とは、伯爵の遠縁の…フィオーレの血縁で唯一の独身男子だった青年のことである。無論、いまは独身ではないが。
唯一の跡取り候補を失ったフィオーレ家は、必然と、限嗣相続制を廃止するしかなかった。そしてそれは当主のオルム伯爵も十分に承知していた。
新しい跡取り候補に娘たちの名が挙がらなかったのは、フローラもフリージアも結婚したら家を出ていくものだとと思っていたからだ。フローラは貴族の当主として屋敷を切り盛りするようなタイプではないし、フリージアは大人しすぎて、まさか『跡取りになりたい』なんて言い出すとは夢にも思っていなかった。
だから、知人を通じて適齢期の青年たちと知り合い、その中から、跡取りとしてふさわしい青年を探してひそかに育てようと目論んでいた。
レイは非常に優秀な跡取り候補だった。
跡を継がせるなら彼しかいないだろうと思っていたし、彼もきっと頷いてくれるだろうと信じて疑わなかった。
当主にはなりません、と言われたときは怒りよりも先に「なぜ?」が頭に浮かんだし、跡取りとしての養子ではなくて『婿養子』としての養子縁組をしたい、と言われたときは驚いた。
「大の読書家のおまえたちのことだから、きっと相性はいいだろうと踏んでいたが、まさか彼のほうから『お嬢さんに縁談を申し込みたい』と言われるとはね。私も驚いたよ」
「すみません」
ばつが悪そうに頭を下げるレイを見て、フリージアもちょっとからかってやりたくなった。
「わたしだって驚いたわ。まさかあなたが高名な伯爵さまだなんて思いもしなかったし、ふたりだけの姉妹で、姉を差し置いて末っ子のわたしに縁談が来るとも考えられなかったから、きっと姉への縁談だと思っていたの。お父さまとのことだって、てっきり、フィオーレの跡取りに収まるつもりで世話になっているんだとばかり思っていた。どうしてなにも言ってくれなかったの?」
「それは……」
「わたしたち、いいお友達だったでしょう。なにも言ってくれないなんて、ひどいわ」
ぷいっと顔をそらすと、とたんにレイが慌てはじめる。そんなところもかわいいと思う。
「違うんだ、僕は……」
「なにが違うの。違わないでしょう?」
「……違う。ちゃんと説明させてくれ」
レイがあまりに真剣な顔で見つめるので、思わず、フリージアの背筋も伸びる。息をのんで見つめていると、レイは、ゆっくりと話し始めた。
**
18歳になったとき、父親から「おまえもそろそろ社会経験を積むべきだ」と言われて然る伯爵を紹介された。
それがオルム伯爵、すなわちフリージアの父親だったというわけだ。
レイの父親はオルム伯爵の古い友人で、人柄もよく知っていたから、息子を預けるのに適任だと考えた。実際、オルム伯爵はレイにとても親切にしてくれたし、レイもオルム伯爵のことを気に入っていた。
オルム伯爵の屋敷の書斎にはたくさんの本が置いてあり、読書家のレイにとってはまさしく夢のような部屋だった。
お屋敷を訪れて、伯爵と会話を交わすたびに、好きな本を読ませてもらえるのが嬉しくてしかたなかった。
それから3年の月日が流れたころだったろうか。
あるとき、伯爵がポツリとレイに言った。
「君を見ていると娘のことを思い出すよ。私には娘がふたりいるということは前にも話したろうが、なかでも下の娘は昔から本を読むのが好きな子でね。花やドレスももちろん好きだったが、なにより新しい本をプレゼントしたときが一番喜ばれた。変わった娘だと思うだろう?だが自慢の娘なんだよ」
下の娘――つまりフリージアのことだ。
伯爵のフリージアのことを語る眼差しはあたたかく、そんなにも父親の愛情を受ける自慢の娘とは一体どんな娘なのだろうと、レイも興味を惹かれた。
寄宿学校から戻ってきたばかりだというその娘は、普段は街の図書館にいることが多いらしい。気になったら会いに行ってみるといい、と言われて、本当にそのとおり会いに行った。
初めてレイに会った日のことを、フリージアはよく覚えている。
偶然の出会いだと思っていた。
図書館で同じ本を取ろうと手を伸ばした瞬間に、互いの指が触れて恋に落ちる。なんて運命的でロマンティックな出会いだろうと、夢想にふけった日も一日限りではない。
「謀った…のね?」
レイはそんな人間ではないと思っていた。思いたかった。
「結果的にそう思わせてしまったことは、申し訳ないと思っている。だが、これだけは言わせてほしい。僕は初めて会ったときから、君に惹かれていたよ。会った瞬間から強烈で、忘れられなくなる女性、会えない日も君のことを考えない日はなかった――愛しているんだ」
――愛。
愛とはなんだろう。惚れた腫れただのというのが愛?会えない日にも相手のことを考えるのが愛?恋愛経験の少ないフリージアは、家族以外の男性に対して『愛』という感情を抱いたことがなかった。
お父さまを大切に想う心が『愛』なら。
お姉さまを好きだと思うこの気持ちが『愛』なら。
フリージアがいま、レイに抱いているこの気持ちはなんだろう。
あったかくて、やさしくて、ほんの少し胸の奥がツンとするようなこの気持ちは。
「わたし。わたしは……」
うつむきそうになる顔をくいっと上げて、フリージアはレイのほうを真っ直ぐに見る。
ずっと会いたかった顔。本当はもっともっとお話ししていたかった。
大好きな本のこと。レイの父親が過ごしたという南の島のこと。おじいさまの好きだったたくさんの花のことも、レイがその目で見てきた世界のいろんな土地の話も、もっと聞きたかったし、もっと話したかった。
「わたしも、レイが好きよ。初めて会ったときから、ではないけれど。図書館に行くたびに、いつもあなたの姿を探していたわ。あなたに会って話すのを心から楽しみにしていた。今日はどんな話を聞かせてもらえるのかって、わくわくしたわ。あなたは不思議な人ね。会わない日でも、なぜかまぶたの裏に浮かんでくるの。わたしの中のあなたは、いつもわたしを見て笑っていたわ」
そう言うと、フリージアの記憶にある姿とまったく同じ姿で、レイは笑った。
しばらくフリージアのほうを見つめていたレイは、やがておもむろに片膝をつくと、スッと右手を差し出して言った。
「フリージア・フィオーレ、私と結婚してくださいますか?」
結婚……。
わたしがレイと?
でも。でもでも。
「結婚を承諾してくれれば、僕が婿養子に入るというのは先程説明したとおりです。フリージアはお父上の正式な後継者、次期当主となる。『オルム伯爵』の称号を継ぐのも僕ではなくフリージアです。もちろん、この屋敷もその他の財産もすべてフリージアのものですよ」
フリージアは財産がほしかったわけではない。だが、父親の後継者として認められたのが嬉しかった。これまで女には与えられてこなかった『伯爵』の称号が手に入るかもしれないことも。レイはすべての権利を、自分ではなく、フリージアのために譲ってくれた。
「……レイ。わたし」
あふれそうになる涙をこらえながら、フリージアはレイに言った。
「わたし、あなたと結婚するわ。あなたが好きなの。あなたのそばにいると幸せなのよ。わたしがそばにいてほしいの」
「僕もだ」
レイはフリージアの身体を抱き寄せると、彼女のふわりとした髪にそっとキスをした。