ひまわりの約束
ひまわりの花言葉・・・「私はあなただけを見つめる」
フィオーレの屋敷に戻るのは6年ぶりだった。
いや、正確に言えば、フローラは一度だけ、家に帰ってきたことがある。妹のフリージアが寄宿学校に入ったばかりのころだ。父の秘蔵っ子だったフリージア。そのフリージアがいなくなって、父は落ち込んでいるのではないかしら?想像したら居た堪れなくなって、不安になって様子を窺いにきた。
結果として、父は少し寂しそうではあったものの、ひどく落ち込んだ様子などはなかったし、口のほうもまだまだ達者で、フローラを見かけた瞬間に小言連発、それで嫌になってまた家出してきたわけだけれど。
でも今回は違う。
フローラは、父に会うために戻ってきたわけではない。母のためでも妹のためでもない。ただ、街にいたくなかった。
誰にも会いたくなかった。
父親にも、母親にも、酒場の店主夫妻やダフネでさえも。
家出同然に出てきたため、今更両親に合わせる顔がなかったというのもある。素性を偽っていたダフネたちには、貴族の娘とわかったところでどんな顔をされるのか怖かった。
活発な彼女にしては珍しく、一日の大半を部屋のなかで過ごしていた。
「……お嬢さま」
目下のところ、ドア越しに話しかけてくれるリラだけが、フローラの唯一の話し相手だった。
「ごめんね。あなたにばかり迷惑をかけて。これではだめだって、自分ではわかっているのよ」
奇しくも妹がリラに言ったのと同じセリフを、フローラは吐いた。なんだかんだ言ってもどこか似たところのある姉妹である。根が優しいのだ。
「いいえ、わたくしは迷惑だなんて思っちゃおりませんよ」
すると今日はここに、母の伯爵夫人がやってきた。フローラとふたりで話がしたい、と言うのでリラはひとこと断って中座する。
伯爵夫人クラベルは、一向に出てこない娘を怒ることなく、むしろできる限り寄り添った口調で語りかけた。
「フローラ、おまえがこのところずっと部屋に籠ったままなのは知っているわ。父さんやわたしに会おうともしないことも」
フローラはその言葉を、ドアの向こうで、ベッドに横になったまま黙って聞いていた。
「わたしは、出てきなさい、とは言わない。幸いにして、いまはリラが面倒を見てくれているし、食事もきちんと食べられているようだから、その点では心配はしていないわ。わたしたちに会いたくないのなら、それでもいいとさえ思っている」
でも、これだけは言わせて。そう言われて、フローラはわずかに起き上がった。
「おまえはこのままでいいの?ずっとこの部屋から出ずに過ごしていて、それで後悔しない?」
後悔……。
「昔っからお転婆で、家のなかでじっとしているなんて耐えられなかったような子だから、無理をしているんじゃないかって、それが心配でならないのよ。毎日部屋のなかにいて、退屈しているんじゃない?そろそろ、庭に出て走りまわりたくなったころじゃないかしら」
伯爵夫人のなかでは、フローラは6歳の子どものままらしい。バカね、ママ。わたしはもう25歳の大人の女で、子どもじゃないのよ。
「……そんなことないわ。わたし、もう子どもじゃないのよ」
わずかな沈黙のあとで、何かあったんだろう、と訊く。フローラはドア越しに小さく頷いた。
「わかるんだよ。わたしはおまえの母親だからね」
ベッドを下り、ゆっくりとした足取りでドアのほうへ向かう。震える手で扉を開けると、フローラの古い記憶のとおりの、優しい表情を浮かべた母親の姿があった。
「……お母さま」
思わず、抱きつきたい衝動に駆られる。だけどフローラは『姉』だから、すんでのところで堪えた。お姉ちゃんだから。もう赤ちゃんじゃないのだから。
「フローラ、おいで」
母親が両手を広げてフローラを迎えてくれる。それは言外に、甘えてもいいよ、と言ってくれているようだった。
……いいんだろうか、行っても?
妹が生まれてから、母の腕の中は妹のものだった。フローラは抱きつきたくても我慢して、いつもフリージアに譲っていたものだ。
フローラが黙っていたら、母のほうから近づいてきて、そっとその頭を撫でた。
(こんなの……、こんな気持ちは妹が生まれる前の6歳のとき以来だわ)
フローラの瞳から、涙がポツリとこぼれる。
その涙を、伯爵夫人は指先でそっと拭って、それから優しく微笑みかけた。
「ずうっと我慢していたんだね」
「お母さま。わたし……」
涙で嗚咽しながら、フローラは母親にすべてを打ち明けた。
初めての失恋。貴族の娘でいることへのプレッシャー。自分が平民の娘であったら、どれほど楽だったことか。政略結婚で見知らぬ相手に嫁ぐのも辛かったが、父親が新しい養子を迎えようとしているのも辛かった。自分は戦力外だと端から言われているような気がした。衝動的に家出して街をふらつき、偶然入った酒場で女給として働き始めたことも話した。
名前を偽り『カンナ』として過ごしていたことも。
それから……ダフネとのことも。
「好きなのかい?」
問われて、小さく頷いた。
「なら、もう一度会いに行って、ちゃんと話をしてきなさい。黙って出てきてしまったんだろう?」
「でも……今更会いに行って、変に思われないかしら。それに、わたし、彼に嘘をついていたのよ。貴族の娘だとわかっても仲良くしてもらえるかしら?それが不安で不安でたまらないの」
「だ!か!ら!・・・それを今から『ちゃんと』話すんだよ。好きなんだろ?愛しているんだろ?なら、自分の気持ちに正直におなりよ」
いつになく臆病な娘の背中を、母は包み込むようなあたたかさで押してくれる。
母親の愛情を今日ほど身に染みた日はない。
「誰が何と言おうと、これはおまえの人生なんだから。おまえの生きたいように生きないと後悔するよ」
フローラ自身が、平民の娘として、『カンナ』として生きていきたいのなら、そうすればいい。そう強く言われて、フローラも決意を固めた。
「わたし……、わたしは、ダフネと一緒にいたい。彼とふたりで生きていきたいの」
あとのことはわたしに任せなさい、と言う母を残して、フローラは屋敷を出て行った。
もう二度と戻ることはない。
わたしはもう、貴族の娘ではなくなったのだから。
**
荷物をまとめたフローラが真っ先に向かった場所は、あの、ノビルとアンナの夫婦が経営する酒場だった。
彼に会えるという確証があったわけではない。
でも、常連なのだし、ほかの場所を探すといってもどこに行けば会えるのかすらわからなかったから、とにかく店に来るしかなかった。
高鳴る胸を抑え、震える手で扉を開ける。
いつもと変わらない喧騒の中、酒を呑みかわす男たちを横目に、端っこのほうでひとり寂しく呑んでいる男がいた。
「……ダフネ」
彼が振り返る。大好きな顔、この顔を何度夢に見たことか。
部屋でひとり閉じこもっていた時間も、ずっと、彼のことを考えていた。彼にはもう顔向けができないと思う一方で、もう一度どこかで会いたい、会えたらと願う自分がいた。
「カンナ……で、いい、のか?」
久しぶりに会ったダフネは、彼女とどう向き合っていいのか、どう向き合うべきなのか戸惑っているようにも思えた。
「そうよ、カンナよ、わたしはただのカンナ。それ以外の何者でもないわ」
フローラ――もとい、カンナは手を伸ばしたが、ダフネはその手を取ろうとはしなかった。
両の腕を下ろしたまま、何かを考えこむように一点だけを見つめている。
「……ダフネ?」
「だが、君は僕に嘘をついていた。なぜ僕を騙した?庶民の娘のふりをして、僕がのぼせ上がるのを陰で笑っていたんだろう?付き合えるわけもないのに、おかしなことだと。まったく笑わせてくれる!!」
「違うわ!!」
ダフネが語気を強めたので、思わず、カンナの声も荒くなった。
一息ついて気持ちが落ち着いてきたところで、ぽつりぽつりと言葉を続ける。今更言い訳が通用するとも思っていないが、このまま喧嘩別れになるのだけは嫌だった。
「あなたのこと、バカになんてしてない。嘘を吐いたのは謝るわ。でも、決して、あなたのことをバカにしたわけじゃない。わたしが平民の娘でいたかったから。貴族の娘でいたくなかったの」
「やっぱり……貴族の娘なんだな」
それがどういう意味かはわからなかったが、カンナはきっぱりと頷いた。もう嘘は吐きたくない。
「確かに貴族の娘だったわ。然る伯爵の長女だった。何もなければ、普通に貴族の息子と結婚して、貴族の妻として暮らしていくんだと思っていた。でもそれが嫌になったの。わたしは……、もっと自由に生きたかった」
カンナの瞳から、涙がポタリと零れ落ちる。一粒、また一粒と流れ落ちて、カンナの白い頬を濡らすのを、ダフネは親指の腹で優しく拭ってくれた。このまま彼の胸に身を委ねたくなるのを、必死の思いで堪える。
「カンナ」
彼女のほうを真っ直ぐに見据えて、ダフネが言う。
「駆け落ちしないか」
かけおち。カケオチ……。
その言葉の意味を理解するまでに、だいぶかかった。駆け落ちって、あの駆け落ち?ダフネのように誠実で真っ直ぐな人が言う言葉だとは思えなくて、カンナは混乱した。
「本来なら、僕は平民、君は貴族の娘で、結婚が許されるような間柄じゃないだろう。いくら剣の腕を上げて少佐に上り詰めていても、平民は平民、伯爵の身分とは訳が違うからね」
ダフネは何を言っているの?彼は、こんなに大胆なことを言ってのける人だった?
「僕は君を自由にしてあげたい。なんでかって?君を、どうしようもないほどに愛しているからだ」
自由。
愛している。
彼の放った言葉が、カンナの頭のなかでぐるぐると回っている。
「……君は?君の気持ちも聞かせてほしいな」
「わ、たし。わたしは……」
震える声で。震える唇で。それでも何とか声を絞り出しながら、カンナは告げる。
「あなたを愛しているわ。わたしも、あなたと一緒に生きたいの」
想いを確かめ合ったふたりは、どちらからともなく抱き合い、そして、ゆっくりと唇を重ねた。