表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心が読める少女の物語  作者: A
一章 -出会い-

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/153

約束 -透-


 ドアが閉まった後も、しばらく玄関に立っていた。

 

 部屋は、いつも通り。

 ただ、その静けさが、さっきより冷たかった。


「……」


 玄関マットの端に指をかける。

 さっき、私が引っかけたところだ。

 めくれていた角を、元の形に戻す。


 リビングに戻る。


 この部屋に、氷室君がいた。


 私の秘密を聞いて。

 ご飯を食べて。

 笑って。

 小指を絡めて。

 それから、帰っていった。

 

 こんなことが、あるなんて思ってなかった。

 でも、夢にしては、残り過ぎている。


 二つのカップ。

 箸とお皿。

 わずかに沈んだクッション。

 

 テーブルの端に残った水滴を拭おうとして、やめた。


 スマホを手に取る。

 画面を開いて、指を止める。

 それから、メッセージを送った。


『今日は、ありがとう』


 画面のうえに、すぐに既読が付く。

 たったそれだけのことなのに、胸の奥がふわりと浮いた。


『約束、忘れないでね』


 さっき絡めた小指の感触が戻る。


 ゴツゴツとした太い指。

 男の人の、手。


 重ねたところが温かくて、その熱が今も残っているみたいに感じる。


「……氷室君の家、か」


 声に出した途端、その言葉だけが部屋の中に残った。


 膝の上で、指先を握る。

 爪が手のひらに沈んだ。


 怖くないわけではない。

 誰かの家に行く、ということを、私はほとんど知らない。


 玄関の匂い。

 並んだ靴。

 台所から聞こえる音。

 食卓に置かれた箸の数。


 そういうもののそばには、たぶん、学校では聞こえない声がある。


 家族だけに向けられる声。

 気を抜いたときに落ちる声。

 隠すつもりもなく、そこに置かれている声。


 きっと、濃い。

 近づきすぎたら、息がしにくくなるくらいに。

 それでも。


『行くっ!』


 自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。


 思い出すだけで、頬が熱くなる。

 子どもみたいだった。

 けれど、嘘ではなかった。


「……氷室君。氷室……誠くん」


 意味もないのに、そう呟く。


 秘密を伝えてしまった人。

 それでも、普通の女の子と言ってくれた人。

 私が隠していた場所に、初めて居場所を作ってしまった人。


 明日が月曜日だったらいいのに。


 そう思ってしまう自分を、否定できなかった。






◆◆◆◆◆






 しばらくしてスマホが鳴る。


 家に帰ったこと。

 ご飯が美味しかったこと。

 それから、約束は忘れていないというだけの返事。


 氷室君らしい素っ気なさに、口が自然と緩む。


『いつ誘ってくれるの?』


 送ってから、その文面を見つめた。


 催促みたいだっただろうか。

 ……いや、催促なのだけれど。


 画面の中の文字が、急に自分のものではないみたいに見える。

 消せるはずもないのに、親指が少しだけ戻る。

 その前に、既読が付いた。


『近いうちに』

 

 短い返事だった。


 それなら、私も、うん、とだけ返せばよかった。

 楽しみにしてる、とか。

 待ってるね、とか。


 そういう、ちゃんとした返事を選ぶつもりだった。

 なのに、指が先に動いた。


『明日?』


 画面に並んだ文字を見て、胸の奥が遅れて熱くなる。

 

『明日は無理』


 返ってきた言葉に、指先が止まった。

 止まったはずなのに。


『どうして?』


 送信済みの文字を見て、息が詰まる。


 どうして、なんて。

 聞く必要のないことだった。


 氷室君には、氷室君の予定がある。

 私の知らない時間があって、私とは関係のない日曜日がある。


 そんなこと、わかっていたはずなのに。

 知りたいと思ってしまった。


『隆たちとゲームする』


 胸が、ちくりと痛む。

 私はしばらく、画面の文字を見つめていた。


 昨日まで、隣にいてくれるだけでよかった。

 秘密を聞いても離れないでいてくれたことだけで、十分だった。


 なのに。

 もう、明日まで欲しがっている。


『仲いいんだね』


 指先が、冷たい。


 責めているみたいに見えないだろうか。

 拗ねているみたいに見えないだろうか。


 いや、拗ねている。

 気づいてしまうと、耳の先が熱くなった。


『そうだな』


 返ってきたのは、いつも通りの短い返事だった。


 その短さに、救われる。

 氷室君は、たぶん深読みしていない。

 私が勝手に沈んで、勝手に浮き上がれなくなっていることにも、きっと気づいていない。


 それでいい。

 そう思ったのに、残念だった。


 なんと返せばいいかわからず、会話が止まる。

 スマホの画面をただ眺めていると、しばらくして、新しいメッセージが送られてきた。


『蓮見さんは、仲のいい人いるのか? 学校でも、それ以外でもさ』


 学校でも。

 それ以外でも。


 その言葉が、息のしやすい場所を用意してくれるところが、どこか氷室君らしかった。


 今の私だけで答えなくていい。

 教室の中だけで考えなくていい。

 そう言われた気がした。

 

『いる、かな。数は少ないけど』

『そうなんだ』


 自分で聞いたことなのに、それだけ言ってまた止まる。

 でも、どうしてそれを聞いてきたのかが、なんとなくわかった。

 熱に浮かされた感情が、ゆっくり薄くなっていく。

 

『地元にはね。本当に大好きで、大切な人たちがいるんだ』


 胸の奥が、わずかに疼く。


 片手で足りるほどの大切な人。


 それでも、両手で抱えて。

 全身で抱えて。

 何としても守りたいと思った。


 だから、私はここに来た。


 年々大きくなる周りの声に。

 摩耗した心で傷つけたくなくて。

 この闇を抱えて欲しくもなくて。

 離れることしか思いつかなかった。


 しばらく返事は来なかった。


 画面の上で、最後に送った言葉だけが残っている。  

 返事を待つ数秒が、長い。

 けれど、今は不安から目をそらさずにいられる。


『そうか』


 短い返事。

 それだけなのに、十分だった。


『少しは、安心した?』


 重くなりすぎた空気を、指先でそっと押し戻すみたいに送る。

 返ってきたのは、スタンプだった。


 ゆるい線で描かれた棒人間が、親指を突き出している。

 表情はほとんどない。

 なのに、なぜか妙に堂々としている。


 いつか見た、全力で土下座する棒人間の絵。 

 それに、よく似ていた。 


 口元が、ゆるむ。


『変なスタンプ』

『これ、好きなんだ。唯一、課金したやつ』

『変わってるね。でも、私も好きかも』

『さすが蓮見さん。これなら家に呼べる』

『なにかの試練だったの?』

『氷室家の登竜門と呼ばれてる』

『誰に?』

『俺に』


 今度こそ、声に出して笑ってしまった。


 部屋の中に、自分の笑い声が響く。

 誰もいない部屋で笑うのは、なんだか変な感じがした。


 けれど、嫌ではなかった。


『じゃあ、私は合格?』

『本試験が残ってる』

『内容は?』

『うちでゲーム。ただ、他の試験官が乱入してくるかも』


 他の試験官。

 もしかしたら、妹さんのことかもしれない。

 氷室君が前に話していたことが、頭に浮かぶ。

 

『私のこと、話したほうがいいかな?』


 送ってから、少しだけ息を止めた。


 私のこと。

 どこまで。

 何を。

 どういうふうに。

 それをはっきりと文字にすることはできなかった。


 でも、氷室君の家に行くのなら。

 氷室君にとって大事な人たちの前に立つのなら。

 きっと、普通ならそうしなければいけない。


 氷室くんだって、さすがに言うと思った。

 そうしてくれと。

 それとも、黙っておいてくれと。


『蓮見さんが、そうしたいなら』


 でも、答えは変わらなかった。

 氷室君は、いつもそうだ。

 

 私がどうしたいのか。

 それだけを、こちらに返してくれる。

 

『いいのかな? それで』

『秘密の暴露大会になったら、こっちも困る。親父なんか特ダネありそうだし』


 もしかしたら、それは本当なのかもしれない。

 でも、明るい逃げ道。

 それが、前に踏み出す勇気をくれる。


『ありがとう』

『お礼を言われるようなことじゃない』


 画面を見つめたまま、カーペットの上に転がった。

 天井の灯りが、まぶしい。


『日程は、家族に一度相談してみる』

『うん。待ってる』


 スマホを胸元に置く。

 ほんのり、温かかった。


  




◆◆◆◆◆






 シャワーを浴びて、部屋に戻る。

 いつも取り出すはずの本を、今日は読む気になれなかった。


 意味もなく立って。

 歩いて。

 座って。

 また立つ。

 

 ふと、キッチンで乾かしていた白いマグカップが目に入った。


 さっき、氷室君が使ったカップ。

 手に取って、布巾で水滴を拭う。

 棚の奥に戻そうとして、手が止まった。


 そこが、今までの場所だった。


 誰かが来た時のためだけに置かれていた場所。

 ずっと使われないままでも、特に困らなかった場所。


 少し迷ってから、そのカップを手前に置く。

 そして、自分のものをその隣に並べた。


 二つ並ぶ。

 ただそれだけで、棚の中の景色が変わった気がする。


 それに、不思議だった。

 いつもこれくらいの時間には、知らない誰かの声が少しは聞こえてくるはずなのに。

 気づかないほどに、静かだった。


 息を吸う。

 意識を向ける。

 聞こえないわけではない。


 それでも、きっと。

 もう私は一人きりではなかった。


 居場所がある。

 秘密を知っても、失わない場所がある。

 

 今度は、私の番だった。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ