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きみの声だけ、聞こえない ―心の声が聞こえる私の、たったひとつの静けさ―  作者: A
一章 -出会い-

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誰かが、いた部屋 -誠-

 

 二杯目のお茶は、一杯目より少しだけ薄かった。

 湯気が細く立ち上り、天井へ届く前に淡く消えていく。


 借りていた本のこと。

 他愛ない学校での会話。


 話題はいくつもあった。

 ただ、どれも、さっきの「秘密」のそばを避けて通っていた。


 人の心の声が聞こえる。

 言葉の意味はわかる。  

 けれど、実感はまだなかった。

 それよりも、自分をずるいと責めながら泣いていた蓮見さんの声の方が、ずっと頭に残っている。


 大丈夫とは、言えなかった。

 知らないものを、わかったふりで包みたくなかった。

 そうしてしまえば、蓮見さんがこれほど苦しんできたものまで小さくしてしまう気がした。


 だから、今の自分なりの答えを出した。

 知らないことは、まだ知らない。

 それでも、話してくれたものをなかったことにしないために。

 

 蓮見さんはカップを両手で包んだまま、親指だけを動かしている。

 縁に沿って、ゆっくり。

 何度も同じところをなぞるみたいに。


「氷室君って、成績よかったんだ」

「まぁ、それなりに」

「授業中寝てるのに」

「一応、要点だけは押さえるようにしてる。自由にする分、最低限はやらなくちゃな」

「そっか。偉いね」

「別に、自分がただ嫌なだけだ」

「氷室君らしい」

 

 蓮見さんが小さく笑う。

 その笑い方は、教室で見るものよりずっと短かった。

 カップの縁をなぞっていた指が、そこで一度止まる。


「……」

「……」


 カップに口をつける。

 飲もうとして、中身がすっかり冷めていることに気づいた。


 外を見ると、日は傾いていた。

 茜の光が、フローリングに長い帯を作っている。

 さっきまでテーブルの脚にかかっていた光が、いつの間にか壁際まで伸びていた。


 鞄に手を伸ばし、腰を浮かせかける。


「蓮見さん――」

「そうだ!」


 声が重なった。

 蓮見さんのカップが、受け皿の上で小さく鳴る。

 彼女はすぐにそれを押さえて、こちらを見た。


「お腹、空いてきてない?」

「……そうだな。減ったと言えば、減ったかも」

「だよねっ。すぐなにか作っちゃうから待ってて」


 言い終わる前に、蓮見さんは立ち上がっていた。

 その背中に言葉を投げかけようとして、やめる。

 冷蔵庫の前に立った彼女の手は、もう迷いなく食材を取り出していた。


「料理、よくするんだな」

「まぁ、ひとり暮らしだしね」


 離れたキッチンから、いつもより大きな声が返ってくる。

 声を張ることに、まだ慣れていないような響きだった。


 水道の音。

 まな板を打つ包丁の音。

 フライパンに何かを落とす音。

 

 順番に鳴って、重なって、部屋の静けさを埋めていく。

 

「実家は、遠いのか?」

「そうだね。日帰りでは、難しいかな」

「そっか」


 そこで会話は一度途切れた。


 蓮見さんは手を動かしながら、ときどきこちらを振り返る。

 確認するように一瞬だけ視線を合わせ、微笑み、すぐに鍋へ戻る。

 後ろで結われた髪が、そのたび小さく揺れた。


 部屋を、もう一度見渡す。


 立派なエントランスから想像した通りの、立派な部屋だった。

 新しくて、綺麗で、照明の色味まで整っている。

 余計なものがひとつもない。

 まるで、今さっき人が住み始めたみたいに。


 その中で、壁際の本棚だけが妙に目立っていた。

 隙間なく並んだ背表紙。

 入りきらず、横に寝かされた文庫本。

 一番上の段には、さらに数冊が重ねられている。


 置く場所は、ほかにもいくらでもあるはずだった。

 それでも本だけが、その狭い一角からはみ出さないように集められていた。


 さっき、俺の声に重なった早い声。

 受け皿の上で鳴ったカップ。

 それを押さえた指先。


 どれも、答えにはならない。

 それでも、頭から離れなかった。







◆◆◆◆◆






 ぼんやりしていたらしい。

 気づくと、蓮見さんがお盆を両手で持って、目の前に立っていた。


「……つまらなかった?」


 お盆を置こうとした手が、そこで止まっていた。

 時計を見ると、思ったよりも時間は経っていない。

 それでも、料理がいくつも並んでいた。


「ごめん。ちょっと、考え事してた」

「……さっきのこと?」

「いや」

「……忘れてくれても、いいからね」


 蓮見さんは笑った。

 けれど、目だけが先に逸れた。

 お盆の上には、二つ分の箸が綺麗に並べられている。


「蓮見さん」

「……なに?」

「俺はさ」


 ゆっくりと息を吐く。

 味噌汁の湯気が、二人の間を細く上っていった。


「自分で決めて、ここにいる。蓮見さんだけじゃなくて、俺も」

「……」

「だから、それを蓮見さん一人のものにしないでほしい」


 蓮見さんは、すぐには答えなかった。

 お盆を、テーブルにそっと置く。

 食器が、小さく鳴った。


「……ありがとう」

「こっちこそ。預けてくれて、ありがとう」


 笑おうとした。

 口元が、思ったより重かった。

 それでも、頬に力を入れる。


 蓮見さんが、驚いたように目を見開いた。

 それから、堪えきれなくなったみたいに吹き出す。


「ふっ……ふふっ。氷室君、それ、笑顔のつもり?」

「⋯⋯蓮見さんの作り笑いも、同じくらいひどいよ」

「そっか……そう、かもね」


 そのあとも、蓮見さんの口元には笑みが残っていた。


「……明日にしなくて、よかった」

「次の日学校だしな」

「ふふっ。私は、最近学校好きだよ」

「意見の相違だな」

「みたいだね」


 料理の香ばしい匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。

 待ちきれないとでも言うように、お腹が小さく鳴る音が聞こえた。

 

 蓮見さんの目が、あからさまに逸らされる。

 頬のあたりが、じわじわと赤くなっていった。





◆◆◆◆◆






「あんまり、大した食材なくて。こんなものでごめんね?」

「いや、すごく美味い。店、開けるんじゃないか?」

「ふふっ。ありがとう」


 サラダ、生姜焼き、汁物に、小鉢がいくつか。

 そのどれもが美味しかった。


「おばあちゃんが、いろいろ教えてくれたんだ」

「そうなんだ」


 俺が食べ進めるのを見てから、蓮見さんはようやく自分の箸を取った。

 綺麗な所作で肉をつまむと、小さく口に入れる。

 噛んで、ひとつ頷いた。


「ちゃんと、習っておいてよかった」


 蓮見さんは箸を持ったまま、皿の上を見ていた。

 生姜焼きのたれが、白い皿の縁に細く伸びている。

 それを箸先でそっと戻してから、小さく息を吐いた。


「きょうだいとかは、いないのか?」

「いないよ。でも、似たような人ならいる、かな」

「そっか」


 似たような人。

 それ以上は、聞かなかった。

 蓮見さんも、自分から続きを足すことはしなかった。


「氷室君は?」

「妹がいる。中学生の」

「似てる?」

「似てるよ。目と鼻と口の位置とかは、だいたい同じだ」

「あははっ、それは似てないっていうんだよ」


 蓮見さんが、声を上げて笑う。

 教室では、聞いたことのない笑い方だった。


 口元を押さえることも忘れて、身を前に倒している。

 笑い終えたあとも、肩が小さく揺れていた。

 

 その姿を見ていると、こちらまで息が抜けた。

 味噌汁を口に運ぶと、出汁の香りに、わずかな甘さが混ざっていることに気づいた。


「……これ、何の出汁だ?」

「あ、わかる? 昆布と、あとちょっとだけ干し椎茸」

「手が込んでるな」

「ふふっ。今日は、ちょっとだけね」


 今日は、ちょっとだけ。


 その言葉を、味噌汁と一緒に飲み込んだ。

 椀の中で、薄く切られた豆腐がゆっくり沈んでいく。


 いつもは、もっと簡単に済ませているのだろう。

 たぶん、本当にひとりで食べる時は。





◆◆◆◆◆



 



 食器は、二人で流しまで運んだ。

 水音が短く立って、消える。


 ふと、窓の外を見る。

 茜の帯はもうほどけて、空はくすんだ群青に沈んでいた。

 時計の針は、思っていたよりも、ずっと先まで進んでいる。


「そろそろ、帰るよ」

「あ……うん」


 蓮見さんの唇が、わずかに開いて、閉じた。


「……」

「……」


 玄関までの短い廊下を、ゆっくりと二人で歩く。

 靴を履く音が、やけに大きく聞こえた。


 振り返ると、蓮見さんが両手を前で重ねている。

 指先だけが、袖口をつまんでいた。


「⋯⋯じゃあ、ね。氷室くん」


 吐息みたいな声だった。


 口の端だけを、どうにか持ち上げたような笑顔。

 けれど、目元は少しも笑えていなかった。


 そのまま扉が閉まれば、たぶん、今日はそれで終わる。

 それでも、いいはずだった。

 でも、なぜか足が動かなかった。


「……今度、さ」

「え?」

「うち、来る?」


 蓮見さんが、目を見開いた。

 次の瞬間、重ねていた手がほどける。

 ぐっと、こちらへ距離が詰まった。


「行くっ!」


 思ったよりも大きな声が、玄関に反響した。

 俺が瞬きをしたのと、蓮見さんが自分の声に気づいたのは、たぶん同時だった。


「あ……いやっ、これは、ちょっと……違くてっ」


 お互いの息遣いすら聞こえそうな距離だった。

 蓮見さんは、そこでようやく自分の距離に気づいたみたいに、顔を赤くした。

 慌てて一歩下がろうとして、かかとが玄関マットの端に引っかかる。


 体が、小さく揺れた。


「危な――」


 手を伸ばしかけて、途中で止める。

 蓮見さんはすぐに体勢を戻した。

 けれど、顔だけは戻らない。


「ははっ」


 自然と、声が出た。

 さっきまできちんと並べられていた表情が、全部ずれてしまったみたいだった。


 目を見開いて。

 眉を寄せて。

 口を結んで。


 忙しく変わる顔が、教室で見る蓮見さんとは重ならなかった。

 顔が、耳の根元までじわじわと赤くなっていく。


「……」


 蓮見さんは目を細めて、こちらを見た。

 その目元には、まだ赤みが残っている。


「悪い」

「……」

「笑うつもりじゃなかった」

「……笑った」

「笑ったな」

「認めるんだ」

「見られてたし」


 蓮見さんは、唇を尖らせた。

 けれど、怒っている顔ではなかった。

 怒る場所を探して、見つからなかったみたいな顔だった。


「……帰ったら、連絡してね」

「ああ」

「絶対だよ」


 不意に差し出されたのは、小さな小指だった。

 一瞬、何をしているのかわからなかった。

 すぐにその意味を理解して、苦笑する。


「約束?」

「約束」

「あー……ちなみに、破ったらどうなるやつ?」

「ふふっ。それは、内緒」


 絡めた指先は、思っていたよりも細くて小さかった。

 わずかに力を抜けば、すぐにほどけてしまいそうで。

 だから、こちらからは動かさなかった。


「じゃあ、また」

「うん」


 ドアを開ける。

 廊下の空気は、部屋の中より冷たい。


「氷室君」

「なに?」

「……ううん。また後で、ね」


 蓮見さんは、小さく手を振った。

 ドアが閉まる直前まで、その手は見えていた。





◆◆◆◆◆





 駅へ向かう道を、ひとりで歩く。

 日はすっかり落ちて、街灯だけが足元を等間隔に照らしている。

 ポケットの中で、スマホが短く震えた。


『今日は、ありがとう』


 短い、飾りのない文面だった。

 立ち止まるほどではない。

 けれど、歩く速度はわずかに落ちた。

 画面を見ていると、もう一度、スマホが震える。 


『約束、忘れないでね』


 さっき絡めた小指の感触が、遅れて戻ってきた。

 細くて。

 ひんやりとしていて。

 離すタイミングを、少しだけ迷った指先。


 返信は、帰ってから。

 そう決めて、スマホをポケットへ戻す。


 数歩歩いて、また手がポケットの上をなぞった。

 取り出すほどではない。

 でも、気にならないふりをするには、近すぎた。


 信号が赤に変わる。

 足を止める。


 ポケットの中で、スマホはもう震えていない。

 それなのに、まだ手のひらだけが、そこに残っていた。



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