約束 -透-
ドアが閉まった後も、しばらく玄関に立っていた。
部屋は、いつも通り。
ただ、その静けさが、さっきより冷たかった。
「……」
玄関マットの端に指をかける。
さっき、私が引っかけたところだ。
めくれていた角を、元の形に戻す。
リビングに戻る。
この部屋に、氷室君がいた。
私の秘密を聞いて。
ご飯を食べて。
笑って。
小指を絡めて。
それから、帰っていった。
こんなことが、あるなんて思ってなかった。
でも、夢にしては、残り過ぎている。
二つのカップ。
箸とお皿。
わずかに沈んだクッション。
テーブルの端に残った水滴を拭おうとして、やめた。
スマホを手に取る。
画面を開いて、指を止める。
それから、メッセージを送った。
『今日は、ありがとう』
画面のうえに、すぐに既読が付く。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がふわりと浮いた。
『約束、忘れないでね』
さっき絡めた小指の感触が戻る。
ゴツゴツとした太い指。
男の人の、手。
重ねたところが温かくて、その熱が今も残っているみたいに感じる。
「……氷室君の家、か」
声に出した途端、その言葉だけが部屋の中に残った。
膝の上で、指先を握る。
爪が手のひらに沈んだ。
怖くないわけではない。
誰かの家に行く、ということを、私はほとんど知らない。
玄関の匂い。
並んだ靴。
台所から聞こえる音。
食卓に置かれた箸の数。
そういうもののそばには、たぶん、学校では聞こえない声がある。
家族だけに向けられる声。
気を抜いたときに落ちる声。
隠すつもりもなく、そこに置かれている声。
きっと、濃い。
近づきすぎたら、息がしにくくなるくらいに。
それでも。
『行くっ!』
自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。
思い出すだけで、頬が熱くなる。
子どもみたいだった。
けれど、嘘ではなかった。
「……氷室君。氷室……誠くん」
意味もないのに、そう呟く。
秘密を伝えてしまった人。
それでも、普通の女の子と言ってくれた人。
私が隠していた場所に、初めて居場所を作ってしまった人。
明日が月曜日だったらいいのに。
そう思ってしまう自分を、否定できなかった。
◆◆◆◆◆
しばらくしてスマホが鳴る。
家に帰ったこと。
ご飯が美味しかったこと。
それから、約束は忘れていないというだけの返事。
氷室君らしい素っ気なさに、口が自然と緩む。
『いつ誘ってくれるの?』
送ってから、その文面を見つめた。
催促みたいだっただろうか。
……いや、催促なのだけれど。
画面の中の文字が、急に自分のものではないみたいに見える。
消せるはずもないのに、親指が少しだけ戻る。
その前に、既読が付いた。
『近いうちに』
短い返事だった。
それなら、私も、うん、とだけ返せばよかった。
楽しみにしてる、とか。
待ってるね、とか。
そういう、ちゃんとした返事を選ぶつもりだった。
なのに、指が先に動いた。
『明日?』
画面に並んだ文字を見て、胸の奥が遅れて熱くなる。
『明日は無理』
返ってきた言葉に、指先が止まった。
止まったはずなのに。
『どうして?』
送信済みの文字を見て、息が詰まる。
どうして、なんて。
聞く必要のないことだった。
氷室君には、氷室君の予定がある。
私の知らない時間があって、私とは関係のない日曜日がある。
そんなこと、わかっていたはずなのに。
知りたいと思ってしまった。
『隆たちとゲームする』
胸が、ちくりと痛む。
私はしばらく、画面の文字を見つめていた。
昨日まで、隣にいてくれるだけでよかった。
秘密を聞いても離れないでいてくれたことだけで、十分だった。
なのに。
もう、明日まで欲しがっている。
『仲いいんだね』
指先が、冷たい。
責めているみたいに見えないだろうか。
拗ねているみたいに見えないだろうか。
いや、拗ねている。
気づいてしまうと、耳の先が熱くなった。
『そうだな』
返ってきたのは、いつも通りの短い返事だった。
その短さに、救われる。
氷室君は、たぶん深読みしていない。
私が勝手に沈んで、勝手に浮き上がれなくなっていることにも、きっと気づいていない。
それでいい。
そう思ったのに、残念だった。
なんと返せばいいかわからず、会話が止まる。
スマホの画面をただ眺めていると、しばらくして、新しいメッセージが送られてきた。
『蓮見さんは、仲のいい人いるのか? 学校でも、それ以外でもさ』
学校でも。
それ以外でも。
その言葉が、息のしやすい場所を用意してくれるところが、どこか氷室君らしかった。
今の私だけで答えなくていい。
教室の中だけで考えなくていい。
そう言われた気がした。
『いる、かな。数は少ないけど』
『そうなんだ』
自分で聞いたことなのに、それだけ言ってまた止まる。
でも、どうしてそれを聞いてきたのかが、なんとなくわかった。
熱に浮かされた感情が、ゆっくり薄くなっていく。
『地元にはね。本当に大好きで、大切な人たちがいるんだ』
胸の奥が、わずかに疼く。
片手で足りるほどの大切な人。
それでも、両手で抱えて。
全身で抱えて。
何としても守りたいと思った。
だから、私はここに来た。
年々大きくなる周りの声に。
摩耗した心で傷つけたくなくて。
この闇を抱えて欲しくもなくて。
離れることしか思いつかなかった。
しばらく返事は来なかった。
画面の上で、最後に送った言葉だけが残っている。
返事を待つ数秒が、長い。
けれど、今は不安から目をそらさずにいられる。
『そうか』
短い返事。
それだけなのに、十分だった。
『少しは、安心した?』
重くなりすぎた空気を、指先でそっと押し戻すみたいに送る。
返ってきたのは、スタンプだった。
ゆるい線で描かれた棒人間が、親指を突き出している。
表情はほとんどない。
なのに、なぜか妙に堂々としている。
いつか見た、全力で土下座する棒人間の絵。
それに、よく似ていた。
口元が、ゆるむ。
『変なスタンプ』
『これ、好きなんだ。唯一、課金したやつ』
『変わってるね。でも、私も好きかも』
『さすが蓮見さん。これなら家に呼べる』
『なにかの試練だったの?』
『氷室家の登竜門と呼ばれてる』
『誰に?』
『俺に』
今度こそ、声に出して笑ってしまった。
部屋の中に、自分の笑い声が響く。
誰もいない部屋で笑うのは、なんだか変な感じがした。
けれど、嫌ではなかった。
『じゃあ、私は合格?』
『本試験が残ってる』
『内容は?』
『うちでゲーム。ただ、他の試験官が乱入してくるかも』
他の試験官。
もしかしたら、妹さんのことかもしれない。
氷室君が前に話していたことが、頭に浮かぶ。
『私のこと、話したほうがいいかな?』
送ってから、少しだけ息を止めた。
私のこと。
どこまで。
何を。
どういうふうに。
それをはっきりと文字にすることはできなかった。
でも、氷室君の家に行くのなら。
氷室君にとって大事な人たちの前に立つのなら。
きっと、普通ならそうしなければいけない。
氷室くんだって、さすがに言うと思った。
そうしてくれと。
それとも、黙っておいてくれと。
『蓮見さんが、そうしたいなら』
でも、答えは変わらなかった。
氷室君は、いつもそうだ。
私がどうしたいのか。
それだけを、こちらに返してくれる。
『いいのかな? それで』
『秘密の暴露大会になったら、こっちも困る。親父なんか特ダネありそうだし』
もしかしたら、それは本当なのかもしれない。
でも、明るい逃げ道。
それが、前に踏み出す勇気をくれる。
『ありがとう』
『お礼を言われるようなことじゃない』
画面を見つめたまま、カーペットの上に転がった。
天井の灯りが、まぶしい。
『日程は、家族に一度相談してみる』
『うん。待ってる』
スマホを胸元に置く。
ほんのり、温かかった。
◆◆◆◆◆
シャワーを浴びて、部屋に戻る。
いつも取り出すはずの本を、今日は読む気になれなかった。
意味もなく立って。
歩いて。
座って。
また立つ。
ふと、キッチンで乾かしていた白いマグカップが目に入った。
さっき、氷室君が使ったカップ。
手に取って、布巾で水滴を拭う。
棚の奥に戻そうとして、手が止まった。
そこが、今までの場所だった。
誰かが来た時のためだけに置かれていた場所。
ずっと使われないままでも、特に困らなかった場所。
少し迷ってから、そのカップを手前に置く。
そして、自分のものをその隣に並べた。
二つ並ぶ。
ただそれだけで、棚の中の景色が変わった気がする。
それに、不思議だった。
いつもこれくらいの時間には、知らない誰かの声が少しは聞こえてくるはずなのに。
気づかないほどに、静かだった。
息を吸う。
意識を向ける。
聞こえないわけではない。
それでも、きっと。
もう私は一人きりではなかった。
居場所がある。
秘密を知っても、失わない場所がある。
今度は、私の番だった。




