誰かが来る部屋 -透-
夜になっても、雨は止まなかった。
窓の外で、細い雨粒が街灯の光を斜めに横切っている。
テーブルに置いたスマホの画面を、何度も見る。
連絡先の一覧に、今日増えた名前がある。
氷室誠。
ただ、それだけ。
苗字と名前が並んでいるだけなのに、そこだけ画面の温度が違う気がした。
『明日、』
メッセージ欄に文字を入れて、消して、それを何度も繰り返す。
何を打つかは、決まっていた。
それでもその先に、なかなか進めない。
放りっぱなしにしてしまっていた鞄を手繰り寄せる。
革が、鳴る。
玄関の壁際にいつも掛けている鞄を、今日は床に放りっぱなしにしていた。
なんだか非難されているように思えた。
「ごめんね」
誰もいない部屋で、その言葉が空気に溶けて消える。
家に帰って、そのまま座りこんで、ずっとこうしている。
自分のことさえ、面倒を見る余裕がなかった。
玄関の方に目を向ける。
そこには折り畳み傘が、干すために広げられていた。
黒い、傘。
お揃いになるはずなのに、ならなかった。
本当は、あの雨の日のことを嘘じゃないんだと、もう一度確かめたかったのに。
でも、だからこそ言葉にしなければいけないのだと思う。
氷室君は、全部を察してくれる人じゃない。
先回りして、私の答えを知ってくれる人でもない。
だから、私が伝えたいことがあるのなら。
私の声で、伝えなければいけない。
『明日、うちでもいいかな』
喉が渇く。
つばを飲み込んで、送信ボタンを押す。
そのまま、逃げるようにシャワーを浴びに行った。
◆◆◆◆◆
温かいお湯が、頭の中をすっきりとさせてくれる。
家に呼ぶ。
その言葉の意味が、少し遅れて胸に届いた。
ただのクラスメイトの男の子を、ひとり暮らしの部屋に呼ぶ。
普通なら、たぶん少しおかしい。
でも、あの神社を教えた。
大事にしていた本を貸した。
自分の欠片を少しずつ、渡していった。
部屋も、その続きでいい。
そう思いたかった。
それでも、不安はある。
やっぱり変だったかな。
重すぎたかな。
そんな考えが、次々に浮かんでは沈む。
スマホを手元に置けたら、ずっと見ていた。
返ってくるまでが不安で、見続けていた。
だから、見ないようにする。
シャワーの中なら、見られない。
レバーを戻す。
お湯が止まる。
浴び過ぎたのか、少し頭がくらくらとした。
◆◆◆◆◆
お風呂を出て、着替える。
髪を乾かして戻ると、ちょうどスマホが振動した。
『わかった』
絵文字はおろか、句読点すらもない、飾り気のないメッセージ。
強張っていた肩が、画面を見るだけでほどけた。
返信をしようとした瞬間、通知が再び鳴った。
『とりあえず、手土産はチロルでいい?』
いつかの口止め料。
金額交渉には頑なに応じなかった、半ば溶けかけのチョコ。
肺に溜まっていた重い空気が、抜けていく。
『別に、チロル以外でもいいんだよ?』
同じ言葉を、あの時も返した。
あの机の上に、半ば溶けかけのチョコが置かれた日。
ついこの前のことなのに、それがずっと昔のことのように感じる。
『なら、なにがいい? 買ってくよ』
変わらないのに、変わっていく。
スマホを握って、一呼吸だけ目を閉じた。
再び目を開けると、指は自然に動いた。
『氷室君に、期待しとく』
返ってきたのは、了解を意味するスタンプ。
いつも通り、短くて。
いつも通り、そっけない。
なのに、しばらくそれを見つめていた。
◆◆◆◆◆
翌朝。
まだ暗い時間に目が覚める。
いつもより早くかけた目覚ましは、まだ鳴っていなかった。
心が、落ち着かない。
でも、それはどこか浮ついたようなもので、嫌な気分ではなかった。
布団の中で、スマホの画面がぼんやりと光る。
『氷室君に、期待しとく』
その文字は、自然と出た。
押し付けられる自分が嫌で、期待が重くて、使うことのなかった言葉。
手繰り寄せても、誰かに言った記憶はほとんど思い出せなかった。
返ってきたのがスタンプでよかったと思う。
もし、きっかけがあったなら、私はきっと会話を続けていた。
チャイムがあるから、教室ではやめられた。
今はそれがないことが、少しだけ怖かった。
立ち上がり、流し台の方へ行く。
食器棚を開ける。
一番奥に、白いマグカップが一つ、しまわれている。
手を伸ばして、洗って、自分のものと並べる。
二つ並ぶだけで、部屋の景色が少し変わる。
誰かが来る部屋みたいだった。
◆◆◆◆◆
午後二時。
駅の改札前に、氷室君は立っていた。
眠そうな顔。
はねた寝癖。
制服姿でないこと以外は、本当にいつも通りで、呆れに似た安心感を抱く。
「おはよう、氷室君」
声をかけると、ゆっくりと視線がこちらを向いた。
何もなかった場所に、ぼんやりと短く波紋が起きる。
やっぱり、その心のうちは覗けない。
それでも、どこか温かくて、居心地がよかった。
「蓮見さん、もう昼だよ」
やれやれとでもいうように、氷室君が首を振る。
どうやら、「おはよう」と言ったことへの意趣返しらしい。
「……どうせ、さっきまで寝てたくせに」
「……蓮見さん、世の中には言っちゃいけないこともあるんだ」
二人で、にらみ合う。
同時に、こらえきれずに吹き出した。
「あははっ。こんにちは、氷室君」
「こんにちは、蓮見さん」
氷室君の目尻が確かに緩む。
初めての挨拶に、初めての表情。
それが嬉しくて、頬が緩みっぱなしになる。
「私の家、あっちなんだ」
「りょーかい。着いてく」
手に持っている小さな袋が、歩くたびにかすかに音を立てる。
「何時に起きたの?」
「一時間前かな」
「ふふっ、もう少しで待ちぼうけになるところだったね」
雨は、もう降っていない。
日陰の水たまりだけが、ポツンと取り残されていた。
駅から私の部屋までは、歩いて十分ほど。
土曜日の午後の道には、学校の制服はほとんどない。
買い物帰りの人や、手を繋いだ親子、犬を連れた人が通り過ぎていく。
≪今日、魚安かったな≫
≪あれ、公園どっちだっけ≫
≪あの二人、不思議な組み合わせだな≫
いくつもの声が、流れていく。
いつもなら、声に意識を引っ張られる。
でも今日は、隣を歩く足音が、声の輪郭を鈍らせてくれた。
神社でも、傘の下でも、いつもそうだった。
声から逃げなくても、声の方が、勝手に遠ざかっていく。
「そういえば、何買ってきたの?」
「秘密」
「え、なにそれ。教えてよ」
「やだ」
思わせぶりな言葉。
学校とは違う。
神社とも違う。
お互いの口が、軽くなる。
「ミステリアスな男なんだ、俺。蓮見さんと一緒で」
その言葉に、心臓が跳ねた。
氷室君は、まだ知らない。
私がこれから打ち明けようとしていることも。
その言葉が、私の胸のどこに触れたのかも。
それでも、彼はいつも通りだった。
変に踏み込まない。
ただ、軽い言葉を置いて、私の足元を歩きやすくしてくれる。
心を読めなくても、全部を言葉にできなくても、少しだけならわかる。
それが、無意識に私の荷物を減らそうとしてくれる優しさなのだと。
「……じゃあ、私の秘密と交換だね」
「おつりは、おまけしとくよ」
「ふふっ、ありがとう」
「どういたしまして」
何でもないやり取り。
でも、その何でもなさが、強張っていた心をほどいていく。
気づくと、家は目の前になっていた。
エントランスで、足を止める。
新しくて、立派な、学生には不釣り合いなマンション。
おばあちゃんが、ここだけは絶対に譲らなかった。
私が、もっと安いところでいいと言った時も。
ひとりで暮らすなら、せめて鍵だけはちゃんとしている場所にしなさい、と。
深呼吸をして、オートロックを解除する。
ピッ、と小さな音が鳴る。
その向こうは、私が毎日帰ってくる場所だった。
誰の声もしない、私だけの部屋。
まだ、誰も入れたことのない場所へ。
氷室君を連れていく。
「……ここ」
そう言うと、氷室君は何も聞かずに、ゆっくり頷いた。




