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心が読める少女の物語  作者: A
一章 -出会い-
21/149

これからも隣に -透-

 

 エレベーターが、ゆっくりと上がっていく。

 二人だけの狭い箱の中に、低い機械音だけが響いていた。


 氷室君は何も言わなかった。

 壁際に立って、ぼんやりと階数表示を眺めている。

 私も、何も言わなかった。


 話そうと思えば、いくらでも話せた。

 天気のことでも、学校のことでも、借りた本のことでも。

 でも、ここで何かを口にしたら、このあと言わなければいけないことが、薄まってしまう気がした。


 数字が、私の部屋のある階で止まる。

 短い音がして、扉が開いた。


「こっち」

「ああ」 


 短い廊下を歩く。

 いくつかの扉を通り過ぎて、一番奥の自分の部屋の前で足を止めた。


 鍵を取り出す指先が、ぎこちない。

 差し込む音が、いつもより大きく聞こえた。

 かちゃり、と鍵が回る。

 扉を開ける。


 朝、出ていった時と何も変わっていない部屋だった。

 当然だ。

 誰もいないのだから。


「……どうぞ」

「お邪魔します」


 氷室君は、玄関で一度立ち止まった。

 靴を脱いで、きちんと向きを揃える。

 それから、どこへ進めばいいのかを確かめるように、私を見た。


「こっち」


 リビング、と呼ぶにはがらんとした部屋に通す。


 本棚。

 テーブル。

 キッチン。

 カーテン。


 氷室君の視線が、ゆっくりと部屋の中を動く。

 じろじろ見ているわけではなかった。

 目に入ったものを、ただ確かめているだけ。

 それでも、自分の部屋を見られるのは、思っていたより落ち着かなかった。


「きれいだな」

「人が来ないだけだよ」

「それでも、散らかる時は散らかる」

「氷室君の部屋?」

「ノーコメントで」


 思わず笑ってしまった。

 緊張していたはずなのに。

 笑えたことに、自分で驚いた。


「これ」


 氷室君が、手に持っていた小さな袋を差し出す。


「手土産」

「チロル?」

「半分は」

「半分?」

「何が好きかわからなかったから、適当に買ってきた」


 袋の中を覗く。

 チロルチョコがいくつか。

 それから、小さな焼き菓子と、スナック。

 小分けになったものばかりだった。


 食べきれなければ残せるように。好きじゃなければ、無理に開けなくていいように。

 そういう気遣いが、袋の軽さの中に入っていた。


「ありがとう。お茶入れるから座って待ってて」

「ああ」


 氷室君は、私が示したクッションの前に腰を下ろした。


 勝手に本棚へ近づいたりはしない。

 部屋の奥を覗こうともしない。

 ただ、そこに座って待っている。


 私はキッチンへ向かい、お茶を淹れた。

 自分のマグカップ。

 白い来客用のマグカップ。

 二つの器に、同じ色のお茶が満ちていく。


「どうぞ」

「ありがとう」


 カップを置く音が、静かに響いた。

 自分の部屋で、自分以外の音がする。

 それだけのことが、なんだか不思議だった。






◆◆◆◆◆





 時計の針が進む音。

 風に揺れる窓の音。

 お互いの呼吸。

 それだけが、部屋の中にあった。


 私は何も言わない。

 氷室君も、何も聞いてこない。

 沈黙は、痛くなかった。


 ただ、このまま何も言わずに、氷室君の優しさに甘え続けることはできなかった。

 カップを両手で包む。

 まだ、温かい。

 その熱を手のひらに集めるようにして、息を吸った。


「氷室君」

「なに?」


 声が、かすれた。

 手が震える。

 それでも、視線だけは逸らさなかった。


「私、ね」

「ああ」

「私は、ね」

「ああ」


 明日にしよう。

 今日はやめよう。

 まだ言わなくてもいい。

 頭の中で、弱虫な私ばかりが口を出す。


「っ……」


 息が浅くなった。

 吸っているはずなのに、足りない。

 膝の上で握った指先の感覚だけが、やけにはっきりしていた。


 完璧な蓮見透なんて、どこにもいない。

 教室で笑っている私は、こんな時には何の役にも立たない。


 何でもない顔で空気を読んで。

 相手が欲しい言葉を選んで。

 傷つかない距離だけを、いつも上手に測って。


 それなのに。

 本当に言いたいことだけが、言えない。

 それが、惨めだった。


「蓮見さん」


 氷室君の声がした。

 近くにいるはずなのに、遠くから聞こえた。

 でも、私を呼んでいることだけは、ちゃんとわかった。


「俺は、蓮見さんがどんな秘密を抱えてるのか知らない」


 いつもと同じ声だった。

 静かで。

 少し眠そうで。

 それでも、ちゃんとこちらまで届く声。


「知らないから、気にしなくていいとか、大丈夫だとか、そういうことは言えない」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 大丈夫。

 そう言ってほしかったのかもしれない。

 言われたら、きっと楽になれた。

 でも、簡単にそう言われたら、私はまた大丈夫なふりをしてしまう。


 だから。

 その言葉を渡されなかったことに、なぜか少しだけ息がしやすくなった。


「でも」


 氷室君が、視線を落とした。


「今、蓮見さんがしんどそうなのはわかる」


 喉の奥が熱くなる。


「中身まではわからない。けど」


 そこで、ほんの少し間が空いた。


「重いなら、一緒に持つくらいはできる」


 その言葉で、ふいに記憶が戻ってきた。


 夕日が差し込む校舎。

 ただ席が隣になっただけだった頃。

 「おはよう」と「また明日」を繰り返すだけの、まだ何でもなかった毎日。

 それでも、氷室君は手を貸してくれた。


 ――それとこれとは、関係ないからな。


 あの時の声が、頭の中で静かに響く。

 秘密を伝えたら、何かが変わってしまうと思っていた。

 もう二度と、普通の女の子みたいには見てもらえなくなる。

 そう思うだけで、怖かった。


 でも、もしも。

 それとこれとは、関係ないのなら。


「……私ね」

 

 声が震えた。

 でも、今度は止まらなかった。


「人の心の声が、聞こえるの」


 言った。

 言ってしまった。


 部屋の中の音が、一瞬で遠のいた。

 時計の針も。

 窓の音も。

 自分の呼吸さえも。

 全部が、離れた場所に行ってしまったみたいだった。


 氷室君は、何も言わなかった。

 ただ、私を見ていた。

 目を逸らさなかった。

 驚いたのかもしれない。

 信じられなかったのかもしれない。


 氷室君が、ゆっくり瞬きをする。

 それから、持っていたカップをテーブルに置いた。

 陶器が木に触れる、小さな音。

 その音だけが、部屋に落ちた。


「そっか」


 それだけだった。

 それだけなのに。

 指先の震えが、波が引くように治まっていく。


 拒絶でも。

 否定でも。

 笑いでもなかった。


 信じたのか、信じていないのかもわからない。

 受け止めたのか、まだ考えている途中なのかもわからない。


 それでも。

 氷室君は、逃げなかった。

 私を、怖いものを見るようには見なかった。


「今のが、言えなかったことか」


 声は、いつもと同じだった。


 静かで。

 少し眠そうで。

 壁の向こうにいるみたいに遠くて。

 でも、ちゃんとそこにいる声だった。


「……うん。それが、一番大きい秘密」


 氷室君は、なにか考えるように目を伏せた。

 その短い沈黙が怖くて、私は膝の上で拳を握る。


 今度こそ、何かが変わる。

 そう思った。


「なら、少しは軽くなった?」


 けれど、氷室君が次に言ったのは、予想していたどの言葉とも違っていた。

 一瞬、自分が言えなかったのかと思った。

 それとも、聞こえなかったのかと。

 

「……何を考えているか、わかるんだよ」

「聞いてた」

「……内緒で、心の中を覗いてるの」

「ああ」

「…………怖く、ないの?」

「蓮見さんのことが?」


 不思議そうな顔だった。

 その顔が、何よりも答えだった。

 視界がにじむ。

 そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。


「どうして、氷室君はそうなの?」


 一度あふれた感情は、もう止まらなかった。


「私は、ずっとずるをしてたんだよ」


 言葉が。

 気持ちが。

 濁流のようにあふれ出て、抑えきれない。


「心を覗いて……何も知らないふりをして」


 誰かが笑うたびに痛かった。

 気が合うねと言われると、消えてしまいたくなった。


「みんなが欲しい顔を、選んで、笑って」


 こんな力なんて、なくなってしまえばいい。

 何度もそう思った。


 なのに、私はその力を使っていた。

 心を覗いて、間違えないように笑っていた。

 本当の自分が、どこにあるのかもわからなくなるくらいに。


「…………私は、普通なんかじゃ、ないんだよ」


 氷室君は、しばらく黙っていた。


 その沈黙が怖かった。

 怒ったのかもしれない。

 呆れたのかもしれない。

 やっぱり気持ち悪いと思ったのかもしれない。


 けれど、氷室君はどれでもない顔をしていた。

 ただ、考えている。

 それから、ゆっくり口を開いた。


「……人の心の声が聞こえるって言われても」


 ぽつりと、言葉が落ちた。


「正直、まだ、全然わかってない」

「……うん」

「でも、さ」


 氷室君は視線を落としたまま、言葉を探していた。

 急がない。

 ごまかさない。

 その沈黙ごと、氷室君らしかった。


「蓮見さんが、頑張ろうとしてたのを、俺は知ってる」


 静かな目だった。

 でも、逸らせないくらいまっすぐだった。


「怖いのに言おうとして、言えなくて、泣いて、それでも言ったんだろ」


 涙が、頬を伝った。


「嫌われたくなくて、普通に見られたくて、なのに嘘をついたままではいたくなかった」

「……うん」


 氷室君は、ゆっくり口を閉じた。

 それから、自分で納得したように頷く。


「矛盾してて、むちゃくちゃで」

「……うん」

「相変わらず、呆れるくらい真面目でさ」


 声が出なかった。


「やっぱり俺には、蓮見さんは普通の女の子に見えるよ」

「……っ」

  

 否定しようとした。

 そんな綺麗なものじゃない。

 そんな簡単な話じゃない。

 私はもっとずるくて、卑怯だった。

 そう言いたかった。


 でも、言えなかった。

 氷室君は、全部を綺麗にしてくれたわけではない。

 私の力を、普通だと言ったわけでもない。

 私がしてきたことを、なかったことにしてくれたわけでもない。


 ただ、私のことを怪物みたいには見なかった。

 それだけだった。

 それだけなのに、胸の奥で固まっていたものが、少しずつほどけていく。


「……ほんとに、そう思うの?」

「今のところは」

「今のところなんだ」

「蓮見さんのこと、まだ知らないことも多いしな」


 あまりにも正直で。

 あまりにも氷室君らしくて。

 その「今のところ」の中に、ちゃんとこれからが含まれていて。

 私は、泣きながら少しだけ笑ってしまった。


「……全部知ったら、やっぱり嫌いになるかも」

「それは、その時考える」

「否定はしてくれないんだね」

「わかったふりをするのは苦手だ」


 氷室君が、目を伏せた。


「だけど」


 そこで一度、言葉が止まる。

 一呼吸が、やけに長く感じた。


「今日は、話してくれて嬉しかった」

「……そういうところ、ほんとずるい」

「ずるいのか」

「ずるいよ」

「そっか」

「そうだよ」


 手の甲で頬を拭う。

 うまく笑えたかは、わからない。

 でも、笑おうとは思えた。


「……私、これからも氷室君の隣にいて、いいかな?」


 氷室君は、目を細めた。

 本当に笑ったのかは、わからなかった。


「蓮見さんが、そうしたいなら」


 胸の奥に、ゆっくり光が落ちた。


 涙は、まだ止まらなかった。

 それでも、もう崩れてはいなかった。


 小さく息を吸って、頷く。


「……うん」


 ふと、本棚に目が行った。


 隙間は、なくなっていた。

 返ってきた本が、そこを埋めている。


 でも、元に戻ったわけではなかった。

 一度、私の手を離れて。

 氷室君の時間を、少しだけ挟んで。

 貸す前よりも、ほんの少しだけ折り目を柔らかくして。

 その本は、そこにあった。


 前と同じ場所に。

 前とは、違うかたちで。



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