これからも隣に -透-
エレベーターが、ゆっくりと上がっていく。
二人だけの狭い箱の中に、低い機械音だけが響いていた。
氷室君は何も言わなかった。
壁際に立って、ぼんやりと階数表示を眺めている。
私も、何も言わなかった。
話そうと思えば、いくらでも話せた。
天気のことでも、学校のことでも、借りた本のことでも。
でも、ここで何かを口にしたら、このあと言わなければいけないことが、薄まってしまう気がした。
数字が、私の部屋のある階で止まる。
短い音がして、扉が開いた。
「こっち」
「ああ」
短い廊下を歩く。
いくつかの扉を通り過ぎて、一番奥の自分の部屋の前で足を止めた。
鍵を取り出す指先が、ぎこちない。
差し込む音が、いつもより大きく聞こえた。
かちゃり、と鍵が回る。
扉を開ける。
朝、出ていった時と何も変わっていない部屋だった。
当然だ。
誰もいないのだから。
「……どうぞ」
「お邪魔します」
氷室君は、玄関で一度立ち止まった。
靴を脱いで、きちんと向きを揃える。
それから、どこへ進めばいいのかを確かめるように、私を見た。
「こっち」
リビング、と呼ぶにはがらんとした部屋に通す。
本棚。
テーブル。
キッチン。
カーテン。
氷室君の視線が、ゆっくりと部屋の中を動く。
じろじろ見ているわけではなかった。
目に入ったものを、ただ確かめているだけ。
それでも、自分の部屋を見られるのは、思っていたより落ち着かなかった。
「きれいだな」
「人が来ないだけだよ」
「それでも、散らかる時は散らかる」
「氷室君の部屋?」
「ノーコメントで」
思わず笑ってしまった。
緊張していたはずなのに。
笑えたことに、自分で驚いた。
「これ」
氷室君が、手に持っていた小さな袋を差し出す。
「手土産」
「チロル?」
「半分は」
「半分?」
「何が好きかわからなかったから、適当に買ってきた」
袋の中を覗く。
チロルチョコがいくつか。
それから、小さな焼き菓子と、スナック。
小分けになったものばかりだった。
食べきれなければ残せるように。好きじゃなければ、無理に開けなくていいように。
そういう気遣いが、袋の軽さの中に入っていた。
「ありがとう。お茶入れるから座って待ってて」
「ああ」
氷室君は、私が示したクッションの前に腰を下ろした。
勝手に本棚へ近づいたりはしない。
部屋の奥を覗こうともしない。
ただ、そこに座って待っている。
私はキッチンへ向かい、お茶を淹れた。
自分のマグカップ。
白い来客用のマグカップ。
二つの器に、同じ色のお茶が満ちていく。
「どうぞ」
「ありがとう」
カップを置く音が、静かに響いた。
自分の部屋で、自分以外の音がする。
それだけのことが、なんだか不思議だった。
◆◆◆◆◆
時計の針が進む音。
風に揺れる窓の音。
お互いの呼吸。
それだけが、部屋の中にあった。
私は何も言わない。
氷室君も、何も聞いてこない。
沈黙は、痛くなかった。
ただ、このまま何も言わずに、氷室君の優しさに甘え続けることはできなかった。
カップを両手で包む。
まだ、温かい。
その熱を手のひらに集めるようにして、息を吸った。
「氷室君」
「なに?」
声が、かすれた。
手が震える。
それでも、視線だけは逸らさなかった。
「私、ね」
「ああ」
「私は、ね」
「ああ」
明日にしよう。
今日はやめよう。
まだ言わなくてもいい。
頭の中で、弱虫な私ばかりが口を出す。
「っ……」
息が浅くなった。
吸っているはずなのに、足りない。
膝の上で握った指先の感覚だけが、やけにはっきりしていた。
完璧な蓮見透なんて、どこにもいない。
教室で笑っている私は、こんな時には何の役にも立たない。
何でもない顔で空気を読んで。
相手が欲しい言葉を選んで。
傷つかない距離だけを、いつも上手に測って。
それなのに。
本当に言いたいことだけが、言えない。
それが、惨めだった。
「蓮見さん」
氷室君の声がした。
近くにいるはずなのに、遠くから聞こえた。
でも、私を呼んでいることだけは、ちゃんとわかった。
「俺は、蓮見さんがどんな秘密を抱えてるのか知らない」
いつもと同じ声だった。
静かで。
少し眠そうで。
それでも、ちゃんとこちらまで届く声。
「知らないから、気にしなくていいとか、大丈夫だとか、そういうことは言えない」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
大丈夫。
そう言ってほしかったのかもしれない。
言われたら、きっと楽になれた。
でも、簡単にそう言われたら、私はまた大丈夫なふりをしてしまう。
だから。
その言葉を渡されなかったことに、なぜか少しだけ息がしやすくなった。
「でも」
氷室君が、視線を落とした。
「今、蓮見さんがしんどそうなのはわかる」
喉の奥が熱くなる。
「中身まではわからない。けど」
そこで、ほんの少し間が空いた。
「重いなら、一緒に持つくらいはできる」
その言葉で、ふいに記憶が戻ってきた。
夕日が差し込む校舎。
ただ席が隣になっただけだった頃。
「おはよう」と「また明日」を繰り返すだけの、まだ何でもなかった毎日。
それでも、氷室君は手を貸してくれた。
――それとこれとは、関係ないからな。
あの時の声が、頭の中で静かに響く。
秘密を伝えたら、何かが変わってしまうと思っていた。
もう二度と、普通の女の子みたいには見てもらえなくなる。
そう思うだけで、怖かった。
でも、もしも。
それとこれとは、関係ないのなら。
「……私ね」
声が震えた。
でも、今度は止まらなかった。
「人の心の声が、聞こえるの」
言った。
言ってしまった。
部屋の中の音が、一瞬で遠のいた。
時計の針も。
窓の音も。
自分の呼吸さえも。
全部が、離れた場所に行ってしまったみたいだった。
氷室君は、何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
目を逸らさなかった。
驚いたのかもしれない。
信じられなかったのかもしれない。
氷室君が、ゆっくり瞬きをする。
それから、持っていたカップをテーブルに置いた。
陶器が木に触れる、小さな音。
その音だけが、部屋に落ちた。
「そっか」
それだけだった。
それだけなのに。
指先の震えが、波が引くように治まっていく。
拒絶でも。
否定でも。
笑いでもなかった。
信じたのか、信じていないのかもわからない。
受け止めたのか、まだ考えている途中なのかもわからない。
それでも。
氷室君は、逃げなかった。
私を、怖いものを見るようには見なかった。
「今のが、言えなかったことか」
声は、いつもと同じだった。
静かで。
少し眠そうで。
壁の向こうにいるみたいに遠くて。
でも、ちゃんとそこにいる声だった。
「……うん。それが、一番大きい秘密」
氷室君は、なにか考えるように目を伏せた。
その短い沈黙が怖くて、私は膝の上で拳を握る。
今度こそ、何かが変わる。
そう思った。
「なら、少しは軽くなった?」
けれど、氷室君が次に言ったのは、予想していたどの言葉とも違っていた。
一瞬、自分が言えなかったのかと思った。
それとも、聞こえなかったのかと。
「……何を考えているか、わかるんだよ」
「聞いてた」
「……内緒で、心の中を覗いてるの」
「ああ」
「…………怖く、ないの?」
「蓮見さんのことが?」
不思議そうな顔だった。
その顔が、何よりも答えだった。
視界がにじむ。
そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。
「どうして、氷室君はそうなの?」
一度あふれた感情は、もう止まらなかった。
「私は、ずっとずるをしてたんだよ」
言葉が。
気持ちが。
濁流のようにあふれ出て、抑えきれない。
「心を覗いて……何も知らないふりをして」
誰かが笑うたびに痛かった。
気が合うねと言われると、消えてしまいたくなった。
「みんなが欲しい顔を、選んで、笑って」
こんな力なんて、なくなってしまえばいい。
何度もそう思った。
なのに、私はその力を使っていた。
心を覗いて、間違えないように笑っていた。
本当の自分が、どこにあるのかもわからなくなるくらいに。
「…………私は、普通なんかじゃ、ないんだよ」
氷室君は、しばらく黙っていた。
その沈黙が怖かった。
怒ったのかもしれない。
呆れたのかもしれない。
やっぱり気持ち悪いと思ったのかもしれない。
けれど、氷室君はどれでもない顔をしていた。
ただ、考えている。
それから、ゆっくり口を開いた。
「……人の心の声が聞こえるって言われても」
ぽつりと、言葉が落ちた。
「正直、まだ、全然わかってない」
「……うん」
「でも、さ」
氷室君は視線を落としたまま、言葉を探していた。
急がない。
ごまかさない。
その沈黙ごと、氷室君らしかった。
「蓮見さんが、頑張ろうとしてたのを、俺は知ってる」
静かな目だった。
でも、逸らせないくらいまっすぐだった。
「怖いのに言おうとして、言えなくて、泣いて、それでも言ったんだろ」
涙が、頬を伝った。
「嫌われたくなくて、普通に見られたくて、なのに嘘をついたままではいたくなかった」
「……うん」
氷室君は、ゆっくり口を閉じた。
それから、自分で納得したように頷く。
「矛盾してて、むちゃくちゃで」
「……うん」
「相変わらず、呆れるくらい真面目でさ」
声が出なかった。
「やっぱり俺には、蓮見さんは普通の女の子に見えるよ」
「……っ」
否定しようとした。
そんな綺麗なものじゃない。
そんな簡単な話じゃない。
私はもっとずるくて、卑怯だった。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
氷室君は、全部を綺麗にしてくれたわけではない。
私の力を、普通だと言ったわけでもない。
私がしてきたことを、なかったことにしてくれたわけでもない。
ただ、私のことを怪物みたいには見なかった。
それだけだった。
それだけなのに、胸の奥で固まっていたものが、少しずつほどけていく。
「……ほんとに、そう思うの?」
「今のところは」
「今のところなんだ」
「蓮見さんのこと、まだ知らないことも多いしな」
あまりにも正直で。
あまりにも氷室君らしくて。
その「今のところ」の中に、ちゃんとこれからが含まれていて。
私は、泣きながら少しだけ笑ってしまった。
「……全部知ったら、やっぱり嫌いになるかも」
「それは、その時考える」
「否定はしてくれないんだね」
「わかったふりをするのは苦手だ」
氷室君が、目を伏せた。
「だけど」
そこで一度、言葉が止まる。
一呼吸が、やけに長く感じた。
「今日は、話してくれて嬉しかった」
「……そういうところ、ほんとずるい」
「ずるいのか」
「ずるいよ」
「そっか」
「そうだよ」
手の甲で頬を拭う。
うまく笑えたかは、わからない。
でも、笑おうとは思えた。
「……私、これからも氷室君の隣にいて、いいかな?」
氷室君は、目を細めた。
本当に笑ったのかは、わからなかった。
「蓮見さんが、そうしたいなら」
胸の奥に、ゆっくり光が落ちた。
涙は、まだ止まらなかった。
それでも、もう崩れてはいなかった。
小さく息を吸って、頷く。
「……うん」
ふと、本棚に目が行った。
隙間は、なくなっていた。
返ってきた本が、そこを埋めている。
でも、元に戻ったわけではなかった。
一度、私の手を離れて。
氷室君の時間を、少しだけ挟んで。
貸す前よりも、ほんの少しだけ折り目を柔らかくして。
その本は、そこにあった。
前と同じ場所に。
前とは、違うかたちで。




