蓮見 透 三章②
ドクンドクンと彼の心臓が強く振動している。そして、私の心臓も。
耳を澄ませば、それらが混ざりあって、とても心地の良い音を奏でていた。
だが、そのずっと聞いていたくなるような音に全身をゆだねている中、たった一つだけ気に入らない音が聞こえてくる。
だから、正解の選択肢を彼の耳元で囁いた。
「透だよ」
触れた唇から漏れ出た息に反応したのか、彼の体が微かに揺れる。
そして、その反応に私が我慢できなくなる寸前、彼が私の肩を掴んで引きはがした。
「透さん、離れて欲しいんだが」
それは、私の求める答えでは無い。
「透!」
理性が外れてしまった私は、夢の中のような浮ついた気持ちになっていて本能のまま行動してしまう。
頬を膨らませそう言う私に、これまでずっと動揺していた彼が、呆れたような雰囲気を醸し出した。子ども扱いして、少し怒れてしまう。
「透、離れて」
でも、やっとその名を呼んでくれたのだ。特別な日であることに免じて、今日は許してあげよう。
「うん。合格だね」
私が笑いながらそう言うと、彼は疲れたような、諦めたような顔になった。
「急に、どうしたんだ?俺なんかしたかな」
いつもはほとんど無表情の彼が今日は多彩な顔を作っている。恐らくとても衝撃的なことだったのだろう。
「……したよ。それこそ、もう取り返しのつかないことをね」
しかし、私の中で起きた変化に比べればそんなことは大したことではないはずだ。
それこそ、世界が変わったと言ってもいい。
「ぜんぜん身に覚えが無いんだが。俺、何したんだ?」
「ふふっ。聞きたい?」
「ああ、とってもな」
その言葉を聞き、彼に気取られないくらいの勢いで深呼吸する。そして、精一杯の勇気を振り絞って言葉を伝えた。
「じゃあ、今から私の部屋に来てよ」
今まで、私の部屋には誰も入れたことは無い。それは、世界でたった一つ残された私の箱庭。
全てのノイズを排除し、私が、私だけのために生きられる唯一の場所だった。
「かなり恐ろしいけど行くよ」
私も一緒。とても恐ろしい。でも、それ以上に期待していた。
「……大丈夫、優しくするから。ほら、早く。こっちだよ」
きっと彼ならどんなことでも受け止めてくれる、そう信じているから。
◆◆◆◆◆
部屋に案内すると、彼は周りを見渡した後ポツリと呟いた。
「女子高生っぽくないな」
何気ない一言。だが、その言葉は聞き捨てならない。
「……誰かの部屋に入ったことがあるの?」
そんなことは許さない。
今まで人生を諦めていたが故に、私は怒ることがほとんど無かった。だけど、今は暗く重い怒りが抑えられない。
だから、私は彼の真意を問いただすために心の内を覗きこんだ。
「無いけどさ」
少しの気配も見逃さない、そんな風に意識を集中したもののその言葉に嘘はなかった。
「……ほんとみたいだね。それなら、よかった」
思わず、安堵のため息が出る。
「俺、顔に出てた?」
「出てないけど、わかるの」
心が読めるから。まだ、その言葉は言えなかった。
「そりゃ凄い。でも、それなら一緒にババ抜きはできそうにないな」
「嘘、わからない」
「おいおい。高校生にもなってババ抜きしたいのかよ」
彼は、揶揄うようにそうこちらに言ってくる。
「うん。きっと、誠君とならなんだって楽しいと思うから」
たった一ヶ月。それだけでこんなにも楽しいのだ。だったら、この先もきっと楽しい。
それこそ、彼の顔を見ているだけでも退屈なんて全くしないだろう。
「それで?何を話してくれるんだ?」
咳ばらいをしつつ、仕切り直すような雰囲気で彼はそう尋ねてきた。でも、もう少し楽しみたいので私は話を逸らす。
「待って。その前に、お腹空いてない?」
「空いたかも」
彼が燃費の悪いことは知っている。時間的にそろそろだと思っていた。
「じゃあ、なんか作るから待ってて」
「別にいいよ。長居するのも悪いし」
「ダメ。私がお腹が空いちゃったから。それに、一人分作るなら二人分作るのも一緒だしね」
あの日。体育館で一緒にお昼を食べた時の焼き直しだ。
私は、彼がどう言えば頷いてくれるのか、それが分かるから。
「…………なら、頼もうかな」
「うん!サッと作っちゃうから座って待ってて」
台所に立つと、彼は手持無沙汰なのか声をかけてくる。
「本、読んでもいい?」
「どうぞー」
「ありがとう」
私は、彼が本に目を向けたのを確認すると、両手を前に出して気合を入れた。
好きな人に作る初めての手料理、負けられない戦いがそこにあったから。
◆◆◆◆◆
料理を作り終わり、机に運ぶと彼は思った以上に深く本の世界に入り込んでいたようだ。
はっとしてこちらを見た後、漂う香りに気づくと無表情ながらに目を輝かせた。なんか、可愛い。
「あんまり、大した食材無くて。こんなものでごめんね?」
来ることを全く想定していなかったので、正直大した食材が入っていなかった。
「いや、十分美味そうだ。一人暮らしって聞いてたけど、流石だな」
「そんなことないよ?でも、ありがとう」
言葉とは裏腹に、昔から要領は良いので料理の腕にも自信はあった。普段それを発揮することはほとんどないが。
「どういたしまして。じゃあ、早速。いただきます」
「いただきます」
彼は、一口食べた後、かき込むようにそれを食べ始める。これだけ美味しそうに食べて貰えれば頑張って作った甲斐があったなと思う。
「こりゃ美味い!」
「ふふっ。どうぞ、どんどん食べて」
「ああ」
しかし、彼のお母さんも料理が上手いらしい。彼が毎日それを食べていると思うと、実のお母さん相手なのにちょっと妬けてしまう。
でも、今回は勝利判定を貰えたのでそれでよしとしよう。
「ありがとう」
「ん?何が?」
「ううん。なんでもないよ」
そして、お互い料理を食べ終わると彼が立ち上がった。
「ごちそうさま。食器ぐらいは洗わせてもらうよ」
「お粗末様でした。別に私がやるからいいよ?」
「いや、やらせてくれ。これくらいやらないと申し訳ない」
「本当にいいのに。でも、だったらお願いしようかな」
「ああ。台所にあるスポンジと洗剤借りるな。蓮見さ……透は座っててくれ」
好意に甘えつつ、癖で苗字を呼ぼうとするのだけは釘を刺しておいた。
彼のことだ。徹底的に慣らしていかないとすぐに戻ってしまうだろう。
そうして、彼が台所に立って洗い物をする背中をぼーっと見つめる。
食器から鳴る少し甲高い音と水の流れる音が断続的に鳴るのが聞こえる。
誰かが自分の部屋にいて、自分以外の音が聞こえてくる。
それは、慣れない光景ではあったが、全く嫌な気持ちにはならなくて。むしろ包みこまれているような居心地の良さがあった。
「…………いいな、こういうの」
そう小さくそう呟いた後、揺り籠に揺られるように私の意識は静かに沈んでいった。