氷室 誠 三章①
夏休み前の登校最終日、全てが終わった解放感で一日を終える。
教室の皆も足早に帰宅する中、俺も早くバイクに乗りたくて一直線に帰宅する。
「ただいま、母さん。夕飯までちょっと出てくるよ」
「おかえり、誠。貴方も本当に飽きないわね。まるで隼人さんが二人いるみたいだわ」
母さんが親父の名前を出しながら呆れたように言う。
「流石に、俺もあそこまでではないと思うんだが。まあ、いいや。いってきます」
「いってらっしゃい。遅くなるようなら連絡してね」
「わかった…………あー、しまった」
「どうかしたの?」
無意識にスマホを触ろうとして無いことに気づく。
思い返すと、最後、机の中で隠れて操作していた時にプリントが回って来てから、それをポケットに入れた記憶がない。
「スマホ、学校に忘れた」
無言で母さんが呆れた視線を向けてくる。
俺は、ため息をつきながら学校へ戻ることを決めた。
◆◆◆◆◆
「失敗したなー。でも、近くまでバイクで行けばいいしそんなに時間もかからないか」
とりあえず、服だけ着替えてバイクに跨る。親父から貰ったバイクは完全にツーリング仕様なので荷物入れがあって助かっている。ヘルメットも入るくらいだしな。
エンジンをかけ、暑さに汗をしたたらせつつ、アクセルを吹かす。
普段は通いなれた光景も、改めてバイクで行くと新鮮に感じ、走っているだけで楽しかった。
近くの公園にバイクを停めると学校へ向かう。
テスト終わりで下校時間も早いのでもうみんなはとっくに下校しているようだ。
物音一つしない静かな廊下を進み教室に入ると、誰もいないと思っていたその場所には、何故か蓮見さんの姿があった。
「あれ?蓮見さん?」
彼女は、椅子に座ってただただ空を眺めていたようだが、俺の声に気づくとこちらへと顔を向けた。
「……氷室君?どうしたの?」
「あー。スマホ忘れちゃってさ。蓮見さんはこんなところで何してんだ?人待ち?」
こんな時間まで一人でいるなんて、誰かを待っているのだろうか。
疑問に思いそう尋ねる。
「ううん、違うよ」
「じゃあ、何を?」
「何もしてないを、してる、かな」
不思議ちゃんみたいな答えを返す彼女に困惑する。夏バテで思考が停止しているのだろうか。
「頭悪そうな回答だね」
「ふふっ。そうかもね」
「まるで俺の妹みたいだよ。それこそ、蓮見さんらしくない」
俺がそう言うと、彼女は何も感じさせない顔をしてじっとこちらを見つめてくる。
二人の間に沈黙が流れる。周りの音が全て切り取られてしまったような静寂の中で、何とも言えない張り詰めた空気が満ちているような気がする。
その普段とは違い過ぎる彼女の様子に俺が理由を訪ねようとした時、彼女が先に口を開いた。
「私らしいって何?」
簡潔な問いかけ。だが、全てを見透かすような黒い瞳が俺を射抜く。
それは、最初の頃を思い出させ、まるで、楽しく会話した記憶は俺の見た夢だったかのように思わせるほどに冷たく、鋭く聞こえた。
「一言でいうなら……ツッコミ役かな」
少し考えた後、思ったことをそのまま伝える。
漂っていた重々しい空気にそぐわぬ答えが俺から出されたからか、彼女はポカンとした顔でこちらを見つめている。
「俺がとぼけたことを言って、君がツッコむ。一ヶ月そうだったじゃないか。だから、急にボケに回られても困るんだ」
わずかな沈黙の後、彼女は最初は小声で、そしてだんだんと我慢できないというように声を出して笑い出した。
しばらく笑うと落ち着いてきたのだろう。笑い過ぎたのかその目に涙を浮かべながらこちらを見る。
「やっぱり、氷室君は面白いね。最高だよ」
「そりゃよかった。俺は、蓮見さんが変なものでも食べたんじゃないかと思って心配したけどな」
「心配したんだ?」
「そりゃ元隣の席の間柄だしな」
「ふふっ。何その間柄、もっといい感じの表現は無かったの?」
「申し訳ありませんが、そのような商品は当店ではお取り扱いしておりません」
それは仕方が無い。まさにその通りだからな。
妹にはモテたければ褒めろ!気の利いた言葉を言え!と昨日言われたような気がするが正直柄じゃない。
それに、彼女は俺がそんな淡白な言葉を使っても許してくれるという確信もあるしな。
「そっか。じゃあ仕方ないね」
「ああ。仕方ない」
お互いそう言うと、沈黙が流れる。だが、それは先ほどまでの張り詰めた雰囲気では無く、以前のように優しく、温かい居心地のいい雰囲気だった。
「そう言えば、体調は大丈夫か?」
「どうしたの、急に?」
いいタイミングだし、ふと気になっていたことを聞こうと思い尋ねる。
だが、会話の脈絡なくそう聞いたため、彼女は不思議そうな顔をしていた。
「いや、最近、あんまり体調良さそうじゃ無かったから。それこそ、あんまり寝てないんじゃないか?」
妹で見慣れているからわかるが、メイクが目元を誤魔化すように感じられる。
勘違いだったらそれでいいのだが。
「…………氷室君は私をちゃんと見てくれてるんだね」
「何となくだけどな。なんだったら送っていくが、どうする?」
体調悪い中一人で帰らせるのも寝覚めが悪いので一応聞いておく。
「……お願いしてもいいかな?」
「りょーかい。実はバイクで来てるんだ。たぶんあっという間だぜ」
二人で教室を出る。下校を一緒にしたことは無いので、ちょっと新鮮な気持ちだった。
公園までの道すがら、取り留めも無いことを話して歩く。
「バイクの免許、もう取ったんだね」
「ああ。テスト期間のおかげでな」
「テスト期間はそのためにあるんじゃないんだよ?」
「それは親父に言ってくれ、そもそもの原因だから」
「ふふっ。面白い人なんだね」
「面白いというか、ノリと勢いって感じの人だな」
そんなことを話していると、あっという間にバイクのところに到着する。
俺が、どう乗ればいいか分からない彼女に気づいて手を差し出すと、おずおずとその手が重ねられた。
その手は女性特有の柔らかを感じさせる。それに、強く握ると折れてしまいそうなほどに細く、力加減を間違えないよう気をつけながら優しく後ろの席に乗せた。
キーを回しエンジンを吹かす。
曲がる方向に腰を叩いてもらいながらバイクを走らせ、ほどなくして一つのアパートの前に到着した。
そして、彼女はゆっくりとバイクから降りるとこちらに笑顔を向けた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
気づいたら時間もかなり経っていたようだ。夕日に照らされて二人の影が地面に長く伸びているのが見える。
「氷室君は凄いね。私が立ち止まっている間にもうやりたいことを形にしてる」
「前も言っただろ?別に凄くはないよ。自分がしたいことをやってるだけだからな。そういえば、蓮見さんの方はちゃんとやりたいことは見つかったのか?」
「……うん。見つかった」
以前、彼女は考えてみると言っていたがどうやら見つかっていたらしい。
「そりゃよかった。何がやりたいんだ?出来ることなら手伝うが」
その問いに対し、彼女は今まで見たことが無いような艶やかな笑みを浮かると、不意にこちらに近づき抱き着いた。
そして、俺の頭が、そのあまりにも予想外なことに真っ白になり、何も考えられなくなっているうちに彼女はその細い手を背中に添わせながら、耳元に口を近づけてくる。
「私ね、氷室君と……ううん、誠君と仲良くなりたいの。もっと、ずっと。それこそ、誰よりも」
脳を蕩けさせるような甘美な声が囁かれる。更に身をこわばらせた俺を尻目に、彼女の楽し気な笑い声だけが静かに響き続けていた。