何もないってことにしなくていい -誠-
朝、蓮見さんはいつもと同じ時間に教室へ来た。
机の横に鞄をかけて、教科書を揃えて、俺に小さく「おはよう」と言った。
全部、いつも通りだった。
だからこそ、違和感があった。
昨日の放課後、あの「何もないよ」を聞いた時から、ずっと胸の奥に小さな引っかかりが残っている。
笑っていた。
ちゃんと、いつもみたいに。
でも、何かが違った。
俺はそれをうまく言葉にできない。
蓮見さんは怒っていたわけじゃない。
泣きそうだったわけでもない。
困っているようにも見えなかった。
ただ、あまりにも綺麗に何かを隠していた。
その笑顔だけが、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
昼休みも、放課後前の授業も、蓮見さんは変わらなかった。
俺の方がよほど変だったと思う。
ノートを取る手は何度も止まるし、教師に当てられても一拍遅れる。
授業中、机の端に小さく折られた紙が置かれた。
開くと、蓮見さんの丁寧な字が並んでいた。
『氷室君、眠いの?』
『いや』
『じゃあ、具合悪い?』
『そうでもない』
『まぁ、そういう日もあるよね』
寄り添うような優しさ。
けれど、その優しさが、余計に遠く感じる。
きっと今までなら、彼女は聞いてきたはずだ。
影武者ですか、とか、何か企んでるの、とか。
そんなくだらないことを。
チャイムが鳴って、最後の授業が終わる。
教室が一気に騒がしくなった。
椅子を引く音。鞄を閉める音。今日どこへ寄るかを相談する声。部活へ急ぐ足音。
その中で、蓮見さんはいつもより早く荷物をまとめていた。
几帳面な動きは変わらない。
教科書の角を揃えて、筆箱を鞄に入れて、机の横にかけていた袋を持つ。
けれど、早い。
明らかに、早い。
「それじゃあ、氷室君。また明日」
蓮見さんはそう言って、俺の返事を待たずに歩き出した。
その背中を見て、考えるより先に立ち上がっていた。
鞄を掴む。
椅子が床をこすって、少し大きな音がした。
蓮見さんは振り返らない。
俺は教室を出て、廊下を足早に進むその背中を追いかけた。
「蓮見さん」
呼ぶと、蓮見さんの足が止まった。
ゆっくり振り返る。
「……なに? 氷室君」
笑っていた。
昼休みに健介が、一段と可愛いと喜んでいたその笑顔。
だけどやっぱり、俺はその笑顔だけは好きになれなかった。
「話したいことがあるんだ」
蓮見さんの笑顔が、ほんの少しだけ揺れた。
「……今じゃなきゃ、ダメかな」
その声は、拒絶ではなかった。
でも、受け入れてもいなかった。
逃げ道を探している声だった。
少し、迷う。
今じゃなくてもいい。
そう言えば、蓮見さんはきっと安心する。
安心して、どこか不安そうな笑みを張り付ける。
それなら――
「たぶん、今がいい」
「……そっか」
蓮見さんは視線を落とした。
しばらく黙ってから、ぽつりと言う。
「ここじゃ、嫌」
「うん」
「人がいるところも、嫌」
「わかった」
「……じゃあ、少しだけ付き合って」
そう言って、蓮見さんは歩き出した。
俺はその少し後ろをついていく。
どこへ行くのかは聞かなかった。
聞けば、蓮見さんは説明しようとするだろう。
説明したくないことまで、ちゃんと説明しようとする気がした。
だから、黙ってついていくことにした。
学校を出て、通学路とは少し違う道に入る。
住宅街の細い道。
車一台がぎりぎり通れるくらいの幅で、両側には低い塀と古い家が並んでいた。
空は曇っている。
風が湿っていて、今にも雨が落ちてきそうだった。
蓮見さんは何も言わない。
俺も、何も言わない。
彼女の歩く速さは、いつもより少しだけ早かった。
逃げているようにも見えたし、どこかへ急いでいるようにも見えた。
やがて、古い鳥居が見えた。
小さな神社だった。
大きな道路から少し外れた場所にあって、通り過ぎようと思えば簡単に見落としてしまいそうなところだった。
鳥居をくぐる。
石段を上がると、小さな境内に出た。
古い社と、背の高い木と、端に置かれた石のベンチ。
境内は静かで、遠くから車の音だけが微かに聞こえた。
「ここ?」
「うん」
蓮見さんは石段の端に腰を下ろした。
俺も、少し離れて座る。
近すぎない距離。
離れすぎてもいない距離。
しばらく、沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、俺だった。
「言いたくないなら、言わなくていい」
蓮見さんは何も答えなかった。
だから続けた。
「でも、何もないってことにしなくていい」
風が吹いた。
蓮見さんの髪が少し揺れる。
彼女は膝の上で手を握っていた。
指先に力が入っているのが見えた。
「……それを言うために、追いかけてきたの?」
「そう」
「変なの」
「自覚はある」
「うん。変だよ」
蓮見さんはそう言って笑った。
でも、目は笑っていなかった。
「氷室君は、どうして聞かないの?」
「聞いたら、言わなきゃいけなくなるだろ」
「……言わなきゃいけないことなんて、ないよ」
目が、伏せられる。
適当に誤魔化してしまえばいいのに、それができない。
その真面目さが、蓮見さんらしいと思う。
「昨日から、蓮見さんの笑った顔を見るのが嫌だった」
「……え?」
「笑ってるのに、笑ってないみたいだったから。蓮見さんらしくないって思った」
蓮見さんの目が、まっすぐ俺を見る。
さっきまでの笑顔は、もうなかった。
「私らしいって何?」
硬い声。
周りの音が、少し遠くなる。
たぶん、ここで間違えたらいけない。
そんな気がした。
自分で言って、思った。
蓮見さんらしい。
それは何だろう。
俺は蓮見さんのことを、どれだけ知っているのか。
隣の席になってからのことしか知らない。
家の場所も、誰と仲がいいのかも、よく知らない。
好きな本の名前だって、まだ。
読書が好きだということを知っているくらいだ。
ほとんど、何も知らない。
それでも、思ったことを伝える。
「真面目で、几帳面で。それでいて、意外とお茶目で、子どもっぽくて」
学校のマドンナ。女神、天使。
その表現は、やけに綺麗で、似つかわしくないと思った。
蓮見さんはもっと人間臭くて。
ほんのちょっと手伝っただけのことに律儀に何度もお礼を言ってくるような人で。
授業中に寝ている俺に呆れて、それでもクスリと笑いかけてくるような人で。
「隣の席の、読書好きの、普通の女の子」
蓮見さんは黙っていた。
何も言わない。
けれど、その沈黙はさっきまでのものとは違った。
蓮見さんの唇が震え。
やがて、微かに開く。
「普通、だと思うの」
「思う」
風にかき消されてしまいそうなほど小さな声。
蓮見さんが普通でないのなら、世の中変人ばかりだ。
顔がどうのとか、周りが何と言っているかとかは関係ない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
短くとも、毎日の時間を積み重ねて。
ちゃんと悩んで、ちゃんと笑って、ちゃんと無理をする、普通の女の子に。
「ちょっと変わってるけどな」
「……そこ、余計じゃない?」
「嘘は得意じゃないから」
「……そうだね……うん。氷室君は、そういう人だよね」
蓮見さんは俯いた。
肩がわずかに震えている。
「普通の女の子、か」
泣いているのか、笑っているのか、怒っているのか、その声は震えていた。
蓮見さんはその言葉を、確かめるみたいに繰り返した。
「……氷室君は、だいぶ変わってるよね」
「そうか?こんなに平均的な男子高校生もいないと思うけど」
「ううん、違うよ」
蓮見さんは首を横に振った。
何度も、何度も。
「ぜんぜん、違うよ」
言い返そうとして、ぽつ、と頬に何かが当たった。
降り始めた雨の中で、蓮見さんは傘を差そうともしなかった。
ただ、こちらを見て笑っていた。
いつも通りで。
いつもと違って。
たぶん、蓮見さんらしい。
そんな笑顔だった。




