心が読める少女
朝からずっと、誰かの声が頭の中にあった。
言葉になる前の苛立ち。
飲み込まれたため息。
笑顔の裏側に沈んだ、小さな棘。
そういうものが、何の断りもなく流れ込んでくる。
小テスト中、隣の席の子の焦りが入り込んできて、解けるはずの問題を一問落とした。
先生に褒められた時、その裏にある期待まで聞こえてしまって、返事が一拍遅れた。
クラスメイトに「すごいね」と言われた瞬間、薄く混じった嫉妬の声に気づいて、笑い方を選び直した。
たぶん、普通の人なら聞こえないまま流れていくものだ。
一度だけ、聞こえたことを口にしてしまったことがある。
相手が隠していたはずの言葉を、私が先に拾ってしまった。
その子は泣かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、笑ったまま、一歩だけ下がった。
その一歩ぶんの床の色を、私は今でも覚えている。
≪⋯⋯蓮見さんってなんか怖い≫
声に出されなかったその一言が、ときどき耳の奥で鳴る。
だから私は、聞こえても知らないふりをする。
それでも、聞こえてしまえば、なかったことにはできない。
≪蓮見さん、また満点かな。いいよね、ああいう子は≫
≪先生、蓮見さんへの態度あからさま過ぎでしょ≫
笑って、頷いて、ノートをしまう。
「蓮見さんって、ほんとすごいよね」
「そんなことないよ」
少しだけ、明るく返す。
その子の目元が緩んだところで、視線をノートへ戻した。
別の子が、こちらを見ている。
今度は、笑いすぎないようにする。
教室の中で、私はそうやって座っていた。
そうすれば、だいたいのことは上手くいく。
上手くいってしまう。
◆◆◆◆◆
学校を出ても、声は途切れなかった。
車内の揺れに混じって、知らない誰かの思考が流れてくる。
耳に聞こえる音よりも、聞こえないはずの声の方が、ずっとうるさかった。
本を開く。
紙の匂いが、指先の近くに来る。
栞の端が、昨日の続きで止まっていた。
≪……はぁ。明日、会社行きたくないなぁ≫
車内のどこかから、重たい息のようなものが届く。
私は一行目に視線を落とした。
文字は動かない。
こちらを見ない。
ただ、同じ場所に並んでいる。
ふと、視線を感じた。
顔を上げる。
斜め向かいの男性と、目が合った。
≪──うわ、すげぇ可愛い。制服? 高校生? ……いや、でも≫
反射的に、本を少し持ち上げた。
表紙の端で、相手の目だけを隠す。
文字が、わずかに滲んだ。
(…………別に、望んだわけじゃないのに)
本の端を握る指に、力が入る。
向かいの席の男性は、もう窓の外を見ていた。
それでも、私はしばらく本を下ろせなかった。
次のページへ進んでも、同じ行を何度も読んだ。
◆◆◆◆◆
四月の、ある月曜日。
ホームルームで担任が席替えを告げた瞬間、教室がざわめいた。
椅子がきしむ音。
机の脚が床をこする音。
誰かの笑い声。
その下で、声になる前の声が、いっせいに広がる。
≪前の方だけは嫌だな≫
≪窓際がいい。寝られるし≫
≪蓮見さんの近く、誰になるんだろ≫
期待。
面倒くささ。
小さな打算。
名前のつかない好奇心。
席替えなんて、普通は少し騒がしいだけの行事だ。
けれど私には、次にどの声の隣で過ごすのかを決める時間だった。
小さく息を吐く。
くじは、出席番号順。
自分の番が来るまで、意識を昨夜読んだ本の一節へ逃がす。
暗い森の奥で、主人公が一人きりになる場面。
誰の声も届かない場所。
木々の影だけが、静かに揺れている場所。
「次、蓮見」
「……はい」
名前を呼ばれた瞬間、栞を挟み損ねた本みたいに、思考がそこで閉じた。
立ち上がる。
教卓までの短い距離。
その間にも、視線が集まる。
熱と、棘。
どちらも、こちらへ向いていた。
頭の奥が、じわりと重くなる。
紙を引いて、開く。
「……窓際、最後尾」
悪くない。
後ろから見られることは減る。
左側には窓がある。
少なくとも、片側だけは静かだ。
問題は――右隣。
それだけだった。
◆◆◆◆◆
新しい席に向かいながら、隣になる男の子を見る。
無造作に伸びた黒髪。
きちんと着られた制服。
それから、遠慮のない欠伸。
眠そうな視線が、こちらを通り過ぎる。
「蓮見透。よろしくね」
「氷室誠。よろしく」
形式だけのやり取り。
名前を告げて、返されただけ。
本来なら、すぐに流れていくはずの挨拶。
――そのはずだった。
何気なく、意識を向ける。
いつも通りに。
息をするみたいに。
瞬きをするみたいに。
そこで、止まった。
何も、聞こえない。
「……?」
思わず、彼の顔を見る。
氷室君は、もう黒板の方を向いていた。
眠そうに瞬きをして、欠伸を噛み殺している。
教室のざわめきは、相変わらず頭の中に流れ込んでいた。
≪蓮見さんの隣、氷室か。いいな≫
≪一番前とか、最悪≫
≪今日の宿題、出すの忘れた≫
いつも通りだった。
なのに、右隣だけが違う。
声がない。
ただ、それだけのことが、やけにはっきりしていた。
「……なにかあった?」
声に、顔を上げる。
氷室君が、こちらを見ていた。
何も知らない顔で。
でも、私が一瞬止まったことには気づいた顔で。
「……ううん。何も」
「そっか」
それだけ言って、彼は机に突っ伏した。
ノートを開く。
右隣から、静かな寝息が聞こえてくる。
最初の行に日付を書こうとして、手が止まった。
騒がしい教室の中で。
右隣だけが、何も言わなかった。




