カニ令嬢
世界の漁業のおよそ51%を掌握している大企業、ギョギョギョール水産(有)。その社長、御塁手大毛下男は今、かつてないほどに悩んでいた!
「セバス!セバスチャンはいるか!?」
「はい、ここに。旦那様」
ここはそのギョギョ水産の社長室。ど真ん中にドンと鎮座する高級な机の上に広がった書類に、まるで魚のように離れた目をぎょろぎょろ目配せしているのは大毛下男。つまり社長である。大声で執事兼秘書を呼び寄せ、こう怒鳴った。
「来週の娘の誕生日プレゼントは突き止めてあるんだろうな!」
「はい、はい。こちらに」
「おお、よしよし!それでいいんだ!!」
ニタリと笑みを浮かべつつも書類の束から目を離さない。社長に休みなどあってないようなものなのだ。確認したものから順に、次は判を押していく。
「これでとりあえず、今年も『お父様ありがとう!』と言って貰えるだろう。いやあ助かった」
何故ここまでこの男がここまで焦っているのかと言うと、こんな事が先週あった。
「嫌ですわ嫌ですわ!わたくしにポッキーの持ち手の部分を食べろとおっしゃるの!?そんなのまるでピザの耳を食べる野蛮人のようじゃない!!」
「ナポリピッツァ協会に殺されますよお嬢様」
「なんですの?そのふざけた協会!とにかく嫌ですわ!早く貴方が食べるか下町に居る『太っちゃうわ』が口癖の中年主婦連中に与えてきなさい!」
「チッ、御意に」
御塁手喜瀬世、御塁手家の一人娘にして正真正銘のお嬢様である。東京ドーム0.75倍の広さを持つ豪邸に住み、贅の限りを尽くして自由奔放に生きる私立筍ノ里一番学院
の二年生。花も恥じらう十七歳の乙女だ。
「全く!お昼から嫌な気持ちになってしまいましたわ!」
「お嬢様はいつも一人で忙しいですね」
そして彼はお嬢様の専属執事。あだ名は何となくで羊にされてしまっている。朝の支度から紅茶淹れ、外出の際のボディーガードにスマブラの相手までなんでもこなすスーパーエリートボーイが彼なのだ。
「機嫌が悪いわ、カズヤの十連コンボの餌食になりなさい」
「お言葉ですが、お嬢様のお粗末なA技連打には常々噴飯ものでございます。せめて動画なりインターネットなりで研究を……おっと、ゲーム以外は機械音痴でしたね。失礼をば」
「殺しますわ」
「労災は下りますでしょうか」
と、決して口には出さないが。身の回りで唯一気の許せる相手でもあるのだった。……脱線した気がするので、本題に入ろう。それは、その日の午後のこと。
「羊!カニを食べますわよ!」
と、いきなり部屋から飛び出し、廊下でウチワサボテンに水をやっていた羊を引きずり込んだ。
「どうされましたかお嬢様、そんな一昔前のラノベssの導入のような口上で」
「これを見てみなさい!」
ばん、と突き出されたのは『さかなのずかん』と描かれた幼児向けの魚図鑑。
「字が読めたのですね」
「こんな話を知っていて?自分が女性だとして、ドバイの石油王が経営するホテルの中で経営者本人と出会うとするじゃない」
「はい」
「もし、強引に部屋に攫われて何かされても、ホテル職員は誰も何も言えないそうよ。上司にも現地警察にもね」
「この度は大変なご無礼を」
「よろしい、そんなことよりこれよ。このイキモノ」
びし、と図鑑の一部分を指さした。
「ほう、これはこれは」
「わかった?」
「はい。いつ見ても苦労を知らない、ナイフとフォークとゲームのコントローラーより重いものを持ったことがないであろう貧弱な御手でございますね」
「今から初めて人を叩いて見ようと思うのだけれど、どう思いまして?」
「叩く方も叩かれる方も痛いと聞きますね」
「もういいですわ。貴方と話しているとちっとも本題に進めません。コレです。このとげとげした赤い生物です」
苦労を知らない手で示されたのは、カニ。カニである。赤くてトゲトゲした謎の生物。庶民と海物語に興じるパチンカスが愛してやまない、食べにくいアイツだった。
「カニですね」
「そう。カニよ!」
ついに壊れたか、と次の就職先の目処を付け始めた羊の思考はまたもや高い声によって引き戻された。
「わたくし、こんなイキモノ初めて見ましたわ!説明によると食べられるそうじゃない!」
「カニを、見たことがない……?」
言葉を失う羊。どっこい、はたと思い出す。そうなのだ、この蝶よ花よと育てられた温室育ちの食虫植物はまず食材というものを見ない。親がどんな仕事で稼いでいるか知っているくせに、三年前まで魚は切り身のまま泳いでいると本気で思っていた。食事中、『このサーモンという生き物は滑稽ねえ、こんな姿で泳いでいるなんて生命の神秘よ』と真面目な顔で呟いたので面白すぎてつい『そこのムニエルって名前の魚は肺呼吸なんですよ』と言ってしまったくらいだ。
「羊!命令よ、今晩このカニとやらを出しなさい。是非味わってみたいわ」
「はあ、かしこまりました」
そうは言うが、カニなぞお嬢様が気づいていないだけで何度も食べている。伊達に大富豪のお嬢様ではない。ほのかに甘い旨味の籠った甲殻類の肉と図鑑のトゲトゲボディが本人の中で結びついていないだけなのだ。
こうした突拍子もないお嬢様のワガママだが別段珍しい事でもない。伊達に世界の漁業の51%を占めてはいない。なんなら一時間で最高級の新鮮なカニを用意することだってできる。この程度、お嬢様のカズヤを1v3で永パに落とすくらい容易い事だ。
「では、本日の夕餉に用意致します」
「ええ!」
毎日一食、それこそカニより圧倒的に値の張る食事をしていると言うのに時々おかしなものをおかしなタイミングで食べたがるお嬢様なのだった。
「では、私は午後のお昼寝に」
「あなたそれでよくクビになりませんわね、いいから黙って研究中のナッツ入りチョコの中身をアーモンドかマカダミアナッツか見極める方法についての論文を書く手伝いをなさい」
「お嬢様それでよく名家の令嬢出来てますね」
そして夕食時。
「お待たせ致しました」
「ふふ、待ちわびましたわ!」
無駄に広い空間に無駄に豪華なシャンデリア、無駄な長さのテーブルの上には無駄にきらびやかな皿の数々。が、アンバランスにも乗っているのはカニ、カニ、カニ。豪勢に丸ごと赤く塩ゆでされた最高級のカニ達がずらり、各種並んでいた。
「……何だかシュールですわね」
「カニを、と仰いましたので」
「そ、そうですけど」
もう少しやりようがあったのでは?と訝しみつつ、椅子に座った。気を取り直していざ手をつけようとするがどう手をつけていいか分からない。
「ちょっと、どうやって食べますの」
「ええと、これは……ズワイガニですね。まずハサミでお腹から足を切り取ります」
「はさみ?」
「一体今までどうやって生きてきたんですか?」
「失礼ね!何勘違いしてるの!知ってるわよハサミくらい!」
「ああよかった。では用意してありますので、どうぞ」
「まさか紙以外のものも切れるとは知りませんでしたわ」
「w」
「何?」
「何も」
慎重にバキバキとハサミでカニの脚を切り離していく。次に脚の太い関節手前部分と付け根を切り落とした。
「めんどくさいですわね」
「そうしたら、太い方を下にして振れば身が出てくるそうです」
鉛筆のように持ち上下に振る。出てこない。強めに振る。水分からか手から滑り落ち、勢いのまま後ろに吹き飛んだ。フライングカニ脚はそのまま時価一千万円の壺に直撃し、台座から揺れ落ちて無惨に砕け散った。
「寝ますわ」
「もう少し、もう少し頑張りましょうお嬢様。このままでは命を削って漁ってきた漁師と壺職人が報われません」
「知りませんわー!!!」
生臭い手を握りしめ、怒りのまままくし立て始めた。
「そもそもなんですのこの生臭っさい空間!びっくりですわ!ドン引きですわ!部屋に入った時から感じてはいましたが我慢してましたのよ!?もう我慢の限界ですわ!しかも同じ匂いが私の手にまで!二時間かけてネイルケアしていますのに!していますのに!!!」
「はい」
「あと怖いですわ!普通に怖いですわ!テーブルの端から端までカニづくし!確かにカニを、とは言いましたが何もこんなに揃えなくても宜しくてよ!?メインディッシュはどこですの!??!?」
「カニです」
その後もお嬢様のカニマシンガントークは続いた。最後に羊が『確かにこんなにカニばかり食べたらばカニなっちゃいますね』という激寒ギャグをかましたことにより、大人しく席に戻ったのだった。
「にしてもどうしましょう、これではただの身の詰まった生臭くて赤い筒ですわ」
「そんな時にはこれを」
しゅぱ、と羊の袖から飛び出したのはスプーンともフォークとも言えない謎のガジェット。
「なんですの?」
「カニスプーン、もといカニフォークです。カニ専用のフォークですね」
「先に出しなさい!」
「いえ、これを使うようになると綺麗に取れなくなったり、最悪お通夜みたいな空気になったりするので」
「ええ?」
「なんでもないです、とにかくどうぞ」
「どう使ったらいいのかしら」
「えっとですね、一本頂いても?」
「特別よ、頭を垂れ感涙にむせびながら私とお父様への感謝の念を抱きつつ口に運びなさい」
無視して哀れな赤い筒に手を伸ばす羊。カニフォークをずっと突き刺し、おもむろに身をほじくり出し始める。
「……想像していたものより原始的ね」
「こうして折れてしまったり切り分け損じたカニの脚から身を助け出すのです」
ではどうぞ、と助け出されたカニの身を小皿ごと渡す。そのまま食べるのかと思ったので不意を打たれるお嬢様。
「え、ええ。いただくわ」
別のフォークでカニの身を口に運ぶ。食べる前は不快に思っていたカニの芳醇な香りがすっと鼻に抜け、思い浮かぶは北端の大海原。ちょうどいい塩気に促された優しいカニ本来の甘みと旨みが絶妙なバランスで舌の上で踊る。味だけではない、程よい弾力が心地よく歯を押し返し食感でさえも心を揺さぶらせてくれる。まさに最高級、最高品質のズワイガニだ。
「ってこれ、食べたことありますわ」
「知ってますよ……」
水産業の令嬢が食べた事ないわけないだろ、と心の中で舌打ちする羊。そのうち、お嬢様がひとりでに真似してカニの脚をほじくり始めたので便乗して羊もカニを食べ始めた。
「……」
「……」
日本有数の大豪邸、そのメインホール。有事の際は来賓二百人をもてなせるその空間で今、男女二人がカニを剥いている音のみが響き渡っていた。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………………………」
「…………………………………………」
「ちょっと!!!!!!!!!」
「なんでしょうか、お嬢様」
「何か喋りなさいよ!!!」
「すみません、集中していましたので」
それはお嬢様もでは?と聞かれ答えられなくなり、ため息をひとつついた。
「全然お腹が膨らまないわ。手ももう痛いし、わたくし何をしてたのかしら」
「途中、こっそり盗み見ましたけど随分カニに熱中していましたよ。何も言わずに二匹目を解体し始めていた時はつい笑いそうに」
「黙らっしゃい」
「ふう、ようやく一段落付いたな」
「お疲れ様です、社長」
「うむ。おっと、そういえば誕生日プレゼントだ。どれどれ、今年はなんだ?去年のフレッシュジュースが飲みたいからと買った果樹園は中々いい買い物だったな。娘にも、女の子らしくて可愛らしい所もあるものだ」
はっはっは、と続けた。
「にしても、これは一体誰が調べているんだ?娘の事だ、欲しいものなど直ぐに言うだろうし、誕生日プレゼントに相応しいものを選ぶなど大抵の使用人には無理だろう」
「側近の執事が独断で決めているようです。違ったらどうするんだと我々の間でも問題になりましたが、最も信頼をおかれているのは彼ですし実際一度も外しておりません。なので今回も大丈夫かと」
「うむ、そうか。どれどれ、今年は……」
便箋を破り、極秘と判を押された紙を開く。そしてそこにはこう、簡潔に、しっかりとした字で、一文。記されていた。
『カニカマ』
お〇り。