矢内原忠雄「キリスト教入門」について 信仰とは大いなるものにへりくだる心をもつこと
04.5.29記
私は宗教におおいに興味をもっているが、特定の宗派を信仰はしていない。
どの宗教も深く研究したわけではないが、キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教などの大きな影響力をもつ宗教。
そして新興宗教とよばれる宗教などその教義の概略などを読むのが好きだった。
このような態度について自分で自分につけたキャッチフレーズは
「趣味の宗教。文学としての聖書」
というものだった。
もちろん、この後半の部分は仏典と言い換えてもよい。
そして、宗教についてそのような態度で臨むからこそ、平静に客観的な立場で各宗教を概観できる。
そう思っていた。
私自身については宗教心というものは持っている。
この世界は、この世界を超えた大いなるものに包まれているのであろうと思っていた。
その宗教心があれば、特定の宗教を信仰することは不要であるし、各宗教を公平にみることによって、偏よることのない考えを保つ事ができる。
心の中のバックボーンとしてもつにはそういう考え方が一番望ましい。
そのように考えていた。
そういう私が出会ったのが、矢内原忠雄の「キリスト教入門」という本だった。
読んだのは、20歳代の後半であったと思う。
矢内原忠雄の宗教人としての立場は「キリスト教の無教会主義」ということになる。
内村鑑三がその理論的指導者であったようだ。
この教えは、キリスト教の信仰にとって教会と言う組織は不要なものであり、各個人が聖書を信仰の拠り所とする。ということであったかと思う。
この教えに影響を受けたわけではない。
私が心を打たれたのは著作の中にあった次のようなことばだ(もうだいぶ前に読んだので、細かい部分は異なっているかもしれませんし、理解が間違っているかもしれません)。
・聖書の記述を科学的ではない、としてその教えに疑義をはさむひとがいるが、宗教は科学ではない。その教えの本質をみるべきであり、現代人の科学的知識で、その記述を論断するというのは浅薄なことである。
・私はこの教えに出会ったことを導きとして信仰者となった。
・キリスト教、仏教、イスラム教が世界の三大宗教とよばれているが、新たな世界宗教が生まれる事はもうないであろう。
・他の宗教に対しては、その宗教、その宗教を信ずる人を尊重する。しかし、私にとって最も素晴らしい教えはキリストの教えである。この信仰がゆらぐことはない。
・ある人は、様々な宗教を等距離において、それぞれのよいところを抽出して自らの宗教心をみたす。
あるいは自らが知る様々な宗教を概観してみて、自分の気質にもっとも合った教えをもつ宗教を自らの宗教とする。
しかし、宗教に対してこのような態度で臨むことは自らを宗教の上におくということである。
宗教に対してこのような高慢な態度で臨むひとに、信仰する、ということの本質は決して得られない。
大いなるものにふれたとき、人はそれに対してへりくだらざるをえない。
人として大いなるものの前にへりくだる。その謙虚なこころをもつことこそ、信仰する、ということである。
自分にはどうしようもない運命というものに遭遇した時、ひとは大いなるものを感じる。
そういうこころの経験を持たない人は、結局、信仰するというこころ、宗教の本質はわからないであろう。
この最後の項目。これにふれたとき、私は自らの過去をふりかえり、その精神遍歴を思い、自らをうちのめしたくなった。
私はなんと高慢であったことだろう。
しかもその高慢さは、自分に自信があったからそうなったわけではなく、コンプレックスの裏返しとして、
「俺はこんなにすごいことを考えているのだ」
と自らに言い聞かせて、薄っぺらなプライドの拠り所としていただけのことだったのだから。
ひとはできるだけ若いうちに、このおおいなるものにふれるべきだ。
そしてその前では、少なくともその前だけでは、謙虚となる。
そういう対象を持たなければならない。
自らと、自らが成し得てきたことに対して自信をもつ、もてる、ということは素晴らしいことだ。
しかしそれも、心の最も深い場所に大いなるものに対する謙虚さがなければ、本物ではない。