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マーナガルム


彼女は随分長い間たった独りで生きてきた。

自分が「自分」であるという芽生えが出来たころ、まだ世界は平坦で何もなかった。

そこから随分と長い時間をかけて、色々なものが生まれてきては、死んで、滅んだり、また生まれたりもした。


そういった者たちが、自分を見て「マーナガルム」と呼ぶようになったのはほんの最近のことだ。


その音を彼女は気に入った。自分で発することができないものであっても、地上にいる小さな生き物たちが空をかける自分を見てそう呼ぶ姿には、なんとなく、響きの良いものがあった。


だがその小さな生き物たちは、別の小さな生き物たちによって滅ぼされ、彼女をそう呼ぶものは地上にいなくなった。


「母さんは本当にきれい好きだなぁ」


川岸に座った「彼女」の「娘」が自分の足を水につけながら笑った。彼女は「娘」の方をみてグルグルと喉を鳴らした。


大雨の日に、彼女は小さな生き物を拾った。小さな小さな生き物は、死んでしまいそうになっていた。そのまま放って置いてもよかったが、彼女はそろそろ、長い自分の命が終わるのだろうという予感があった。


そういうものだった。そういうものらしかったのだ。


だから、死にかけの彼女に自分の命を注いだ。

ぺろぺろと舐めて、命を繋いだ。


「娘」は彼女を「母さん」と呼び、共に生活が始まった。


水浴びを一日に何度もするのは、獣のにおいを「娘」が嫌がらぬようにと、体毛をいつも清潔に柔らかくしていれば「娘」が喜んだからだ。


「彼女」は「娘」をとてもとても大切に思っていた。時々、地上の小さな生き物たちがやっていたのをまねるように娘の体を撫で、共に寝た。たった独りで発生し、生きてきた彼女は「愛」というものの存在や名前を知らなかったが、もし彼女が自分の中に芽生えた感情を自覚していれば、それは間違いなく「愛情」だっただろう。


彼女は娘との生活を慈しむ。孤独に生き、崇められてきた過去などよりも、よほど明るく暖かい時間だった。


「娘」が「彼女」を「母さん」と呼べば、彼女はいつまでも娘の「母」であった。そういうものだった。そういうものらしかった。


だから彼女は彼女の縄張りであり、神性を発揮できる森の中に、「娘」と同じ小さな生き物がもう何年も前から住み着いていることを知りながら、娘には引き合わせない様にしていた。


娘は「小さな生き物」だ。

それらは短い命でありながら、せわしなく生きて様々なものを残していく。何かを生み出し、作り出し、残さずにはいられない命のようであった。


だから会わせない様に、会わせない様に、としてきた。


「火で、こう、焼けたらいいんですけどね、生肉…」


常々娘がそう、漏らしているのを彼女は聞いていた。火、火、火のこと。それは彼女にとって容易いことだった。自然界で発生する全てのエネルギーなら、彼女には思う通りにできる。娘が喜ぶのなら、火の一つや二つ吐いてもよかった。だが、暫くそうはしなかった。


……地上の小さな生き物たちは、火を得てから変わっていった。それを彼女は見てきた。だから己の大切な娘も、火を使うようになったらきっと変わってしまう。


「……イエェエエアアアア!!!!!」


だが、彼女はついに折れて火を吐いた。娘はこれまでにないほど喜び、そして彼女にはわからない「料理」というものをし始めた。


そうして、やはり、彼女が恐れていたように急速に「娘」は火の扱いを覚えて行った。


あぁ、それならば、やはり小さき生き物の世界にやるべきか。


彼女は悲しかった。とても寂しかった。だが、必要なことなのだと理解していたので、風をあやつり、普段は届かぬようにしている洞窟の中の男のうめき声を娘の耳に届けた。


そうしてそのまま、娘が黙って洞窟の中で「自分と同じ」生き物に出会い、そこで母である彼女のことを「異物」としてしまえば、それで終わりのはずだった。


けれど娘はそうはせず、彼女を呼んだ。頼った。頼ってくれた。


「マーナガルム……だと?」


男は、彼女をそう呼んだ。

久しぶりに、彼女は「母」ではなく「マーナガルム」という自分を取り戻した。そして、その途端、彼女は自分の命の砂時計が、娘に出会うことで横倒しになっていた「マーナガルム」の砂時計が再び流れ落ちていくのを感じた。


もうじきに、彼女は消える、そうわかった。


男のことは気に入らなかった。

突然大きな音を出しては娘を脅かし、怯えさせる。娘が本心からは怯えていないので男を噛み殺すことはしていないが、しかし、気に入らなかった。


この男は己から娘を奪うのだ。


「あぁ…本当にすばらしい!!パン、最高…!!!!!!」


川岸にきて布の上にあれこれと食べ物を並べた娘が、「成功したんです!」と嬉しそうに言っていた食べ物を口に運びながら笑顔を浮かべる。彼女はそれを見て満足げに喉を鳴らした。肉以外のものは食べれない彼女だが、娘のそういう顔を見るのが好きだった。


娘は仏頂面をして木に背を預けている男に自分のつくった物を渡し、それを男が食べるとニコニコと嬉しそうにする。男は「こんなまずいものを平気で食べるなど頭がおかしいのか」などと言いながらも、娘が出すものはきちんと食べている。


そういう「共有」をできるのは同じ生き物だからだ。


彼女は胸が苦しくなった。

男が憎たらしい。かみ殺してやれればどんなにスッキリするだろう。

だが、そんなことをしても何にもならない。

わかっていた。


「母さん、風が気持ちいいね」


腹を膨らませた娘が穏やかに言い、彼女の体に身を寄せて目を閉じる。拾ってきた時は小さく小さく、今も小さいが、死にかけていて、頼りなかった。

だが娘は火をうまく使えるし、自分で食べるものを作ることもできる。


「ははっ、くすぐったい。もう、私、子供じゃないですよぉ!」


ぺろぺろと娘の頬を舐め、彼女は眼を閉じる。

風がやわらかく、気持ちがいい。とても良い気分だ。


彼女は立ち上がった。


娘は不思議そうに首を傾げ「狩りに行くの?」と問うてくる。


それには答えずに、彼女は一度男に近づいた。

娘と同じように死にかけていたが、もう大丈夫だろう。


彼女が近づいたことに男は驚いたようだったが、少し考えるそぶりをし、ゆっくりと頭を下げてくる。


「神代の、残された神々に我ら人間種は償いきれないことをした」


なんのことかは彼女はわからなかった。だが、男がもう一度「マーナガルム」と呼んだので首を振った。


「母さん、どこに行くの?夜には帰ってきてね。パンができたから、ピザにも!そう、次はチーズとかバターを!!!」


娘が呼ぶ。彼女の知らなかった愛情という感情を込めた声で「母さん」と呼ぶ。


彼女は一声鳴いて、その鼻で娘の顔や体を優しく撫でるとそのままタンッと地面を大きく蹴って駆けだした。


駆けて、駆けて、彼女は風よりも早く走った。


そうして、神代において月の神を追い詰めかみ殺し、その血でもって太陽神の神殿を穢し夜の使者の軍勢を地上に招き寄せた神の一部、マーナガルムは世界にとけて消えて行った。




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