泥中の聖女
「何をしに来た?ここはおまえが来るような場所ではないぞ」
玉座の間に、私たち以外に誰かいそうな様子はなかった。ごほりごほりと、泥を吐き呻き続ける私に、高い位置から淡々とした声がかかる。
聖王国で私の腹部を貫いた泥人形や、どこかスレイマンに似た雰囲気のハットゥシャの王族たちとも違う。
大きな角に赤い目、黒い髪、青ざめた肌。
人ならざる存在であると本能的に理解させられる、異質感。
声も、顔立ちも違う。それは当然だ。スレイマンは、エルジュベート様が生んだから、二人は似た顔立ちで、泥人形は私にスレイマンであると認識させるために容姿を似せていた。
だというのに、私は目の前にいるのが魔王だと、おそらく、魔王の魂の本来の持ち主、本体のようなものであるとわかった。
「いろいろ、ありまして」
「顔を見せろ。傍へ来い」
命令されるが、こちらは体がぐちゃぐちゃにされたような感覚からまだ戻り切れていない。手足に力は入らないし、声も、話そうとすると喉が焼けるように熱くなる。
「聞こえなかったのか」
「あなたが、来たらどうです」
顔が見たいのはお前の希望なのだからお前が来いよ、と思う。
げほり、とまた泥を吐いた。
玉座の男は一寸沈黙する。考えるように口元に手をやって、這いつくばる私の方へ歩いてきた。
私の体を蹴り、ごろん、と仰向けにさせて、肩を踏みつけてくる。
泥の中で、ハムシャルワさんに貰った指輪は砕かれてしまっていたから、私の体は幼女のものに戻っている。
絵面的に、苦しみもがく幼女を成人男性が足蹴にしているってどうなんだろうか。と、疑問に沸く。
暫く、男は何も言わなかった。ただじっと私を見下ろす。瞬きすらしない目にかなりの間見下ろされ、私は顔を顰めた。そこでやっと、男が足をどかす。
「何も湧かないな」
「……はい?」
「おまえを見て、触れて、さて、私に何か湧き上がる……おまえたちの言うところの感情らしいものが、さて、芽生えるかと思ったが。まるでない。聖女、私はおまえに興味を持たないようだ」
触れたっていうか足蹴にされただけですが、あれは接触カウントでオッケーなんですね。
「甘やかな再会でも期待したか?泥人形たちは必死にお前を求めるだろう。あの男がお前に遺したものを手にいれれば自分たちこそが夜の王になれると夢想している。それは正しく、だが私はそれを必要とはしない。私はお前を求めない。あの男が何を企んでいたとしても、私は私のまま変わらない」
男はついっと、つまらない時間を取られたと顔に不快感をにじませて玉座に戻る。
そのまま目を伏せて、私の存在を完全にないものと扱い、私は放置された。
仰向けに転がされた体勢のまま、私はヒューヒューと呼吸をする。泥が肺を焼いたような感覚。吐瀉物で窒息しそうだったので首を動かしたいが、体が動かない。
(魔王とスレイマンが別の存在であるって想像は、していた)
呼吸が苦しいからか、涙が溢れてくる。ごほり、と咳をした勢いで、なんとか首を横にして窒息死を免れた。私の吐き出した泥は私の体に付着して、皮膚を溶かす。肉が見えて、血が泥に混じった。キィキィと小さく鳴く音。床に飛び散って乾いた泥が小さな蟲のようなかたちになって、私の肉に齧り付いてくる。
このまま死ぬと予感があった。
そうか、私は死ぬのか。ここで、よくわからない中で死ぬ。
この感覚には覚えがあった。
前世で、そうだ、あの時の、もう少しでやっといろんなことが報われると思っていた時に、命を奪われた時の感覚。
あのときの悔しさが蘇る、けれど、今は?今は、あぁ、かつてのような「あと少しだったのに!」と、悔しく思い、湧き上がる感情はあるだろうか?
ない。
なにもない。
私はこの世界に生まれてきて、生きてきて、何一つ、何も、なんにも、していない。
私はまだなにもしていない。
(それなら、前とは違って、悔しいこともなく、死ねる)
料理のことしか考えないようにしていたから。
自分が今生で持って生まれたものもなのもかも無駄にしながら生きてきたから、この人生で新しく願った、スレイマンと生きることも、もう無理になったし、まぁ、それなら、別になにも悔しくなく、死ねる。
「ンなわけ、あるかぁああああああ!!!!!!!!!!!!死んでたまるか!!!!!!」
今更そんな、しおらしく、おとなしく、できるものか!!
私は歯を食いしばり、ぐいっと、両腕に力をいれて立ち上がる。なんか骨っぽいものも見えているますけど、とっても痛いけれど、それはそれ!!今回は腹部は無事、ということは刺殺事件ではありません!!
「絶望のないままに死ねる者は幸福だ。黙って死ねばいいものを。腐臭を撒き散らしながら何を足掻く」
足を引きずりながら、玉座のほうへ進む。触れるほど近づいてやっと、男がゆっくりと瞼をあげた。
「あなたは私と取引をするんですよ」
「取引?つまり、対価をお互いに支払う、契約ということか?おまえに、この私に支払えるようなものがあるとは思えないが」
「いいえ、あります」
すぅっと、男が目を細めた。軽く唇が開き、牙が覗く。
「あるものか」
「あります」
「では申してみよ」
あるわけがないと再度の否定はなかった。ただ一つ、可能性として存在するものをこの男も察していて、そしてそれを私が、差し出してくるのかと待つ。
私はゆっくりと口を開いた。
今年も紫蘇ジュースを作る季節だ!(/・ω・)/