血(4)
職業兵士というものの始まりは、奴隷種だった。
人間種が上手く大地で生き延びるために、慈悲深い神々が残したとされる、人間種と姿形は同じでも、時間が短い。時間が短いものは速く生まれて、よく働く。特徴的な赤い髪を持つものが奴隷種で、かつては大陸中にちらばっていたものが、盾の国に集められて、そこで消費生産されるものとなった。
と、それらは別段、職業兵士達に知らされる情報ではない。知る者は知っているし、知らない者は一生知らないでいて全く問題の無い知識である。
そういうわけであるから、本日、壁の内より外に出た職業兵士の一人。生まれてまだ一月経っていないが、まぁ、直ぐに死ぬだろうレールの上にいる兵士の一人。
一週間の訓練で教えられたとおりの動き、通りの判断にて、壁の外側、川の向こうから押し寄せてくる泥、下級魔族たちと戦う。戦う。
投入されて一週間ほどで死ぬ。あちこち体が欠けて行っても、血を流しても、職業兵士たちは痛みを感じないし止まる必要がない。
兵士の一人、便宜上40番。一度に生まれる兵士の数が決まっていて、順番が呼び名になる。40番は槍を振るった。ぼこり、と、泥で出来た魔族の体が崩れる。が、泥に触れると皮膚がただれ落ちる。
自分たちより前に来ていた兵士達の折り重なった体、悲鳴、将たちの飛ばす怒号、魔族たちの笑い声に、青い空。空が青くて、一瞬、40番は立ち止まった。
壁の内側を出る前に、出会ったひとの瞳も青かった。思い出す。
現在生産される職業兵士達には、はっきりとした自我は芽生えさせないようにされている。ただ従順に戦い死ぬ。死ぬことを恐れないことが重要だ。40番にもこれといった自我はなかった。
けれど、けれど、青い目を思い出す。
あの青い目のひと。手を握った。自分以外に触れた事、触れられたことは40番にはない。自分とは違う感触だった。あの青い目のひと。じっと40番を見つめて何かを言う。言う言葉が謝罪だと、40番には判断つかない。なにを言っているのか、どうして触れてきたのか、わからない。
ただ、思い出して、40番は考えた。40番だけではない。そのとき、丁度その時、門から出てきたばかりの新兵たちは皆、青い目のひとの事を考えた。
目の前に流れ込んでくる黒い、おぞましいものたち。とてもとても、よくないものたち。それらが自分たちの体を越えて、飲み込んで、壁の中まで進んでしまったら。そんなことになってしまったら、そのときは、あの青い目のひとも、目の前の、折り重なった体たちのように、無残に無意味に動かなくなってしまうのだろう。泥に触れられて皮膚が溶けて肉が爛れてしまうのだろう。
40番は考えた。
考えて、ぐっと、前に踏み出した。
**
「……?消耗率が、おかしいな」
戦況を把握するのは指揮官の勤めである。
ムスタファは有能な軍人だった。第二王子という肩書きだけではなく幼少から溢れる才気は周囲を驚かせ、国にとって、人間種にとって最も重要であるこの場所の責任者を任されたことは彼にとって当然のことだった。
北からの魔族の侵攻を防ぐために作られた壁は高く、横にも長い。いくつかの拠点を作り、そこに予備兵も置いている。肉の壁の消耗率を常に把握し、どこも手薄にならないように職業兵士達を配置する。
「……いかがなさいましたか?兄上」
魔術式の込められた地図を見て顔を顰めるムスタファに、弟王子イルハムが訊ねた。イルハムの使う強力な風の魔術は数時間であれば魔族を防ぐことができ、その分消費される肉の数を減らせた。
何か異常なことでも起きたのかと、それは危機となり人間種を脅かしかねない。イルハムが警戒するそぶりを見せると、ムスタファは首を振った。
「ある区画の肉が、減っていない」
言って、ムスタファは魔術鏡を発動させる。この鏡の魔術式と対応した魔術が刻まれた手鏡をあちこちに配置し、戦場の様子を確認できるようにしているものだ。
映し出された戦場。特段変わったことはない、ように思える。例えば、イルハムがここにいないのであれば、イルハムが魔術を使いその区画の肉たちを守っているからかと判断できる。だがイルハムはここにいて、ムスタファたちの周囲を守っているのだ。
「……仲間を庇った?先兵を、新兵が庇い、後方に戻しているな」
「兄上の采配、ではないのですね?現場の指揮官の判断でしょうか」
「意味のないことだ。新兵は先兵らが戦っている姿を見て学ぶ。新兵らが戦えるようになった頃に、先兵らが倒れる。今の何も知らぬ新兵らが先に出たところで、」
そうそうに潰されるだけだ、とムスタファは判じた。が、戦い方を知らぬはず、実際動きがまる素人の新兵が腕を吹き飛ばされた。
しかし、倒れない。痛みがない、と言っても戦場に出たばかりの新兵。それでも進み続けられるほどまだ経験がない。それなのに前に進む。進んで、戦い、死なない。
一人、二人ではない。大多数の新兵が、そのように動く。
ムスタファはイルハムの胸ぐらを掴んだ。
「貴様、何をした?」
「なんのことでしょう、兄上」
「貴様が来た。そして異変が起きた。貴様が何かしたのだろう。そうだ、あの新兵らは貴様が見回った場所から出荷されたものたちだな?」
「私は何もしておりません」
白々しい。嘘だとムスタファにはわかった。昔から、様々なものに対して執着心や、やる気というものが一切感じられない弟王子イルハム。だがイルハムは僅か2歳で文字を覚え、3歳で星の読み方を会得した。
ムスタファは父王も死に損ないのアラム・バラスも恐れない。
だが天才というものは恐ろしかった。天才は得体が知れない。欲がなくとも、凡人が必死に欲するものを手に入れて身につける。だから恐ろしい。
ゆえにこの弟王子が何かしらの、考えを自分でもって行動しようというそのときは、己は真っ先に、この弟王子を殺しておかねばならないとも、思っていた。
「父王も老いた。ゆえに、後継者争いに決着をつける時ではあり、いずれ貴様が牙を向く、とは思うていたが。しかし、この地に手をつけるとは、貴様それでも王族か!」
この土地は、この場所こそが人類種最後の砦である。
そこに何か、企みを持ってくることは、どのような理由があっても、それは卑怯で非道で、恥知らずな行いだ。
「兄上、彼女はいかがでしたか?あの、聖王国の姫君。アラム・バラス兄上の花嫁となるために、我らが父上がわざわざ連れて帰った娘です。彼女を見て、兄上、いかがでしたか?」
「……何の話だ」
胸ぐらを掴まれても、イルハムは眉一つ動かさない。微笑みさえ浮かべた顔で、目を細めて、じっと、ムスタファを見つめる。
「彼女を懐かしいと、彼女が己のものならいいのにと思う。いいえ、いえ、もはや餓え。欲して欲して、たまらなくなるような、腹の中からわき上がる、どろどろとした餓えを感じませんでしたか?」
何がいいたいのか。戯れ言か。話を聞いてはならないと、ムスタファは一瞬、危うい予感がした。
胸ぐらを掴んだ手を離せない。むしろ、イルハムの手がムスタファの腕を押さえ込み放せぬように力を込める。ぐっと、こちらが優位であり、優勢であり、主導権を握る者であったはずなの、じっとムスタファを見つめるイルハムの瞳が、どちらかどちらという境界線をあやふやにさせた。
「私は感じました。私は思いました。私は餓えました。彼女が、あの娘が欲しい。あの娘を手に入れて、己のものにして、あの娘が己を認識してやっと、あぁきっと、満たされると、そのように、そう、信じて思って、欲しました。兄上もですよ。兄上も、第三王子も、私の弟たちもきっと、皆、そう飢えるのでしょう」
「アラム・バラスもか?」
これ以上聞いてはならない。耳をふさぐべきだ。いや、あるいは、今この場でイルハムの首を跳ねてしまわなければ、それが出来なければ、己は聞き入ることしかできなくなる。屈強な軍人である自分の腕を、普段宮殿で遊びほうけているような弟が押さえつけている。驚き、そして、ムスタファは喚きたくなった。
ゆっくりとイルハムが口を開く。
長年、長く、ずっと、ムスタファが疑問に思って来たことの答え。
知ってはならなかった事の答え。
「アラム・バラス兄上だけが、ハットゥシャの王族の血を引いている。父上や、我々は魔王の器のなり損ないなのですよ」