血(3)
ムスタファ殿下が嵐のように去った。残されて、私は再び崖の下を見る。
目下、広がる光景に私たただただ圧倒される。
戦場を見たことはない。前世であちこち各国を回った記憶を振り返ってみても、紛争地帯に足を踏み入れることはなかった。
……戦争?いや、これは違う。これは、そういうものではないと首を振る。
魔族たちが攻め込んでくる。指揮や陣形、そういったものはなく、ただ津波のように押し寄せる。災害のようだった。どうしても避けられない。人間がどれほど工夫をしても、知恵を巡らせても、どんなに高い壁を気付いても、容赦なく何度も何度も、押し寄せる。
「中央の、聖王国においては想像するくらいでしょう。これがこの世界の、我々人間種の陥っている状況です」
「イルハム殿下。これは、こういうことが、毎日、当たり前なのですか?」
「えぇ。魔族たちにとって目的はただ一つ。我々人間種を泥に沈め潰す、滅ぼす、殺し尽くすとそれだけ。利益や思想や意思がなく、何千何万、何億をもの絶望が毎朝毎晩休みなく、こうしてここで、当たり前に襲ってくるのですよ」
魔族たちは来たからやってくる。ハットゥシャは残った人間種の土地の中で最北端に存在し、ハットゥシャが沈めば、その後ろにある国が、次は最北端となる。そうして削られてきたそうだ。
「少なくとも毎日千人以上の兵士が死にます。聖王国にもいるでしょう。職業軍人というものが。我が国ではこの国境沿いに配備される兵士の八割がそれにあたります。女の腹に二週間宿り、一週間で成人し、稼働期間は半年ほど。ですが半年生き延びる者はおりません」
最前線を守る為に消費され続ける肉と骨だと、イルハム殿下は言う。
「ここにいる一割の、人間種の……貴族や王族は、彼らを上手く扱う才能が求められます。消耗率を常に把握し、この壁を守り続ける計算を生涯続けます」
「結界は、役に立っていないんですか?」
聖女の結界は、星屑さんたちが電池になってくれている結界は、泥や魔族を阻むはずだ。
「確かに、上位魔族であれば結界の内側には入ってこれません。しかし下級魔族や悪魔、力が弱く知能の低いものほど、結界に阻まれず、ただ本能のままに侵攻してくるようです。それに、少し前より、魔族たちが活性化して、盾の国の消耗率も変動していますね」
スレイマンが死んでしまったからか。
スレイマンは、魔王の魂を持っていて、それが人間種であることに意味があったと、ラザレフさんに聞いたことがある。
「姫君、よければ慰問を。聖王国の姫君にして、聖女候補生であったあなたが兵士達を労れば、彼らも士気を高めるでしょう。えぇ、きっとそれがいい。兄上も喜ばれますよ」
イルハム殿下が提案してくる。
その兄上ってどっちなのだろう。私に拒否権はなく、あれよあれよ、という間に、私は兵士さんたちがいる、壁の内側に案内された。
**
壁の内側には、一つの社会があった。
次々に職業兵士たちを生むための女性たちが暮らす棟。生まれた兵士たちを一週間育てる棟。壁の外へ送り出されるのを待つ兵士たちの棟。
壁の向こう、泥に潰されながら戦うあの場所はあんなに騒がしかったのに、ここは殆ど音がない。
誰も彼もの顔に表情がない。ただ淡々と、自分たちの役目を全うするために動いている。
女性達の棟の周辺には、ぽかん、と口を開けたまま動かず空を眺めている、骨と皮ばかりで、それでも胎だけは異常に膨らんだ女の人が、布一枚を身につけて座り込んでいた。
「姫君、近づいてはいけませんよ。こちらに」
私が女性に近づこうとすると、イルハム殿下がそれを止める。ぐいっと、腕を引かれた。
「これは、ここは、こういうふうにあるのが普通なんですか?」
「――少し前は、多少の活気はあったのですよ。女たちの笑い声や、歌う声、兵士達がゲームをしたり、少し娯楽も見られました」
魔族が活性化してからは、ここはただの、泥を食い止めるための肉を生み出す場所となったと、殿下は続ける。
「……」
単純に、余裕がなくなったのだ。
これまで1200生産され、1000消費されてもまだ余裕があったところに、毎日毎日1200が消費されれば稼働率をあげるしかない。そういう判断で、余計な思考、欲求を生まぬようにと薬が処方された。
「ようこそおいでくださいました、第四王子殿下」
イルハム殿下を迎えてくれたのは、比較的表情のある、しかし生気のない顔をした兵士だった。身なりが他の兵士達とは少し違っているので、立場のある人なんだろうとわかる。
「さぁ、姫君、これから出陣する彼らに声をかけてあげてください」
私は壁の前に整列している兵士さんたちの方へ案内された。
彼らは満足な武装はしていない。虚ろな表情でこちらに顔を向けている。
「…………」
……どういう顔をすれば良いのだろう。
この場所に、怪我をした兵士は一人もいない。野戦病院のような場所もない。ここで生まれて、出て行く兵士達は皆、死ぬまで壁の外で戦うために作られたのだから、戻ってくることはない。
私はついさっきまで、金銀財宝に囲まれた、華美な宮殿、何不自由しない場所にいて、着飾っていたわけだ。
ここで毎日、毎朝毎晩、職業兵士のひとたちが消費され続けて、人間種はなんとか生き続けていけるわけだ。
彼らがこうして、毎日死に続けていて、生きていけるわけだ。
「……手を」
こういうとき、例えばサーシャ様や、ミルカ様なら、求められる立派な、慰問をする異国の令嬢として相応しい振る舞いをされるのだろう。
ただ、私にはわからない。わからないので、手を握る。兵士さん一人一人の手を握って、まっすぐに顔を見つめる。
「ありがとうございます」
「ごめんなさい」
「あなたたちのお陰で、私たちに明日が来る」
「ありがとう、ございます」
一人一人の手を握って、何度も何度も言葉を繰り返した。
兵士さんたちは誰もが不思議そうな顔をして瞬きをする。私の手を握り返すことなく、ただ私が放すまでされるがままになっている。
私の行いをイルハム殿下はただ黙って見ていた。
何も言わず、黙って見ていた。