血(2)
空を、飛ぶ。飛んでいる。
覚えのある感覚だ。
ずっと前に、狼の母さんの背で飛んだ記憶。
それに、クビラの街で、あの、雪の落ちるあの街で、魔女の山に向かって飛んだ日のことを思い出す。
「怖いですか?」
暴れることなく大人しくしている私に、イルハム殿下が問いかける。風の魔術の他に、何かいくつか使われているのだろう。私の頬には風のやわらかな感触があるだけで、風圧や、気圧の変化もない。
「もっとこう、抱きついてくださっても構わないのですが」
「殿下は私を落とさないでしょうし、こういうことは、何度かあったので怖くはないです」
「さすが聖王国の姫君、存外剛胆でいらっしゃる」
何が面白いのか、イルハム殿下が笑った。
とても速く、勢いよく私たちは移動している。
私に会わせたい相手というのは、宮殿の中にいるわけではないらしい。
「一つだけ、いいですか。イルハム殿下」
「うん?」
「とても申し訳ないのですが。私は誰かに、ちゃんと利用しては貰えないと思うのですよ」
いろんな人が、私をあれこれと何かにしようとしてくれたり、うまく使おうとしてくれたようだけれど、だいたい皆失敗して、それでロクでもない目にあっている。
「……あなたは、兄上と同じことを言うのですね」
少し沈黙して、イルハム殿下はぽつり、と呟いた。その兄というのはアラム・バラス殿下のことか。それとも、他の兄のことなのか。
私は問おうとして、途端、ふわり、と体が軽くなる。
風の魔術が解かれ、地面に足を付けた。殿下が私の体を放し、私はまず、異臭に気付く。
「……」
「さぁ姫君、到着いたしましたよ」
急に聞こえてくる、周囲の音。
爆音や、悲鳴、悲鳴、何かが潰れる音、砕かれる音、うめき声、嗚咽に、怒声。
降り立ったのは崖の上だった。目下には、何か、黒いものがうごめいている。
崖の下に、川が流れていた。その川を、向こう側から来る黒い何かは渡ろうとしているのか、うごめき、水の中に入り、だが、それが川を渡りきる途中でそれらは生き物のかたちになり、岸に上がった時には、待ち構えていた兵士らしいものたちの手で潰される。
川の内側には、壁があった。壁には何千人、何万人もの兵がいて、川から上がってくる何かを次々に潰していく。黒いものとてただ潰されるわけではない。岸は兵士の死体もあった。何十にも重なった兵士の体が、足場になるほどたかく積み上がると、壁の内側から火の球が飛んできて、黒い何かごと兵士の体を燃やし尽くした。
怒号。怒号。兵士の薄くなった場所が、そのまま攻め込まれないようにと、将らしい装いの軍人たちの声が響く。
魔術の攻撃や、槍や、投擲が絶え間なく川に飛ぶ。
「なんだ!見覚えのある魔術式が飛んできたかと思えば、イルハム!お前が!女連れとは驚きだな!おれへの贈り物か!?」
呆然としていると、突然背後から首を掴まれた。強く引き寄せられて、おぉっと、と、私は声を上げる。
「うん?異国の女か!珍しいな!」
カッと開いた大きな目に、黒い髪、褐色の肌と、ラムス王の特長をよく受け継いだ、一目で王族とわかる佇まい。顔は汚れ、あちこちに小さな怪我をしている軍人さんだ。とてもでかい。熊のようにでかい。
「やわらかい肉だな。ここでは腸くらいしか柔らかなものに触れる機会がない。抱いて眠れば心地よいだろう。イルハム、よくやった。褒美を取らせよう」
突然現れた大男は、私の体をあちこち触って揉んでくる。
……なんだ、何が起きてるんだ。
私はなぜ突然、人権無視な扱いを受けているんだ……。
あまりに衝撃的すぎて動けずにいると、そっとイルハム殿下が私と大男を引き離した。
「申し訳ありませんが、彼女は兄上への贈り物ではありません。聖王国の公爵令嬢です」
「……と、いうことは、アラム・バラスの花嫁か」
「さようでございます」
ふぅん、と大男が私を上から下まで眺める。
「もったいない!!」
……いちいち声がでかい!!
至極残念そうに叫ぶ!とても大きい!声が大きいとても!!
「どうだイルハム!お前の口利きで、この女をアラム・バラスから買ってこい!金貨三百枚でどうだ!?」
「安っ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
身勝手に行われるまさかの人身売買の提案に、そして提示された金額に、私は思わず突っ込みを入れた。
「うん?女、何が不満だ?公爵令嬢と言っても大方養女であろう!貴族令嬢という付加価値をはぎ取った貴様に金貨三百枚だぞ!?己で金を稼げぬ女の分際で男の決めた事に口を挟む気か!?」
「えぇええ!?不満しかありませんけど!?私の身分とか立場とか全てなしにしても、人を金貨三百枚ぽっちで買えると思ってるんですか!!?」
正直なところ、私はまだこの国の金銭の感覚をつかめていないが(買い物する機会もないしね!)金貨三百枚とか、人の命を軽くご購入されすぎではなかろうか?
考えたくはないけれど、モーリアスさんとかラザレフさんだってもっと出すと思う!!
「貴様こそ何を言っている!?女など若い一時、寝所に侍らして体の世話をさせるくらいしか使い道のないものに、三百枚だぞ!?買ってやってから潰すまでの衣食住の世話もしてやるというのに!?」
大男は私の意見を「世間知らずの小娘の戯れ言」と判じて一蹴する。
文化の違いですか!?
買った女性を教育して元が取れるくらい役立つような人間にするという発想はなく!!?
ハットゥシャには奴隷文化がある。それを顧みれば、奴隷を扱う王族が気軽に自分たち以外の階級の人間に値段を付けてやりとりするのは普通……なのかな!?
「イルハム!なんだこの無礼な女は!柔らかそうだが口のうるさい女はいらんぞ!」
「ですから、兄上への贈り物ではないと申し上げているでしょう。――姫君、こちらは第二王子の、」
「ムスタファだ!女!名を呼ぶことを許そう!」
いちいち声がでかい!
怒鳴らないとしゃべれないのか!?
「お許しください、姫君。兄は戦場にいることが多いため、大きな声で話す癖がついているのです」
「……戦場。ここは、戦場なんですか?」
「世間知らずな女だな!この場こそ、人間種対魔族どもの最前線!我が盾の国ハットゥシャが日夜こうして泥の侵攻を食い止めているからこそ、内の国々は平穏でいられるのだ!」
泥。
魔族が世界を飲み込むために流し続ける泥。
話には聞いていたし、聖王国で泥を見た。
けれど、目下に広がるのは命が潰され投げ捨てられている戦場。
……こういう風に、なっているのか。
「殿下!第十三区が劣勢です!ご助力を!」
崖を見下ろしていると、伝令兵らしい馬に乗った兵士がやってきて、馬から滑り落ちるようにしながら平伏する。
ムスタファ殿下は深く頷いて、自分の馬に跨がる。
「イルハムよ!折角来たのだから存分に働いてゆけ!貴様が働けば今宵は兵たちの半分を休ませてやれる!」
地響きがするほど大きな声で言い、嵐のようにムスタファ殿下は去って行った。
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