化粧
「あの奴隷女の息子の嫁。どんな装いでやってくるのか楽しみじゃな」
黄水仙の宮の女主人、ニスリーンは柔らかな寝椅子の上でゆったりと寛ぎながら、ハレム一とたたえられる美貌に微笑みを浮かべて呟いた。
彼女こそ、ハットゥシャ、ラムス王のハレムの事実上の女主人は誰かと宦官や使用人たちに訊ねれば、皆が即座に答える女性である。
「さようでございますね、ご主人様」
「えぇ、生意気にもハレムに入ったその日にご主人様にご挨拶をすることなく過ごした不作法な外国娘。ハレムのしきたりというものを、一度きちんと教えてさしあげるべきだとお考えになられるご主人様のなんと慈悲深いことでしょう!」
傍らに控える腰元たちはニスリーンに同調する。
それらを満足げに聞きながら、ニスリーンは奴隷女、ハムシャルワのことを考えた。
一体どういう手を使ったのか。奴隷のくせにあのラムスに取り入った下品な女。あの女に財はない。他の妃からの報復を恐れて王に何かねだることをせず、普段死体のように沈黙して生きている。妃としての国から頂く金も他の妃たちよりかなり減らされていた。これは、財務を司る大臣の娘がハレムにいるからで、ラムス王もそれを知っていながら黙認している。
ゆえに、ハムシャルワの僅かな収入はあの水蜜の宮を維持するために右から左へと流れているはず。
そのハムシャルワが、さて、息子の嫁になるという外国娘をどう世話できるのか。
まずは衣装代だ。
宮へ挨拶回りをするようにと、ニスリーンは命じた。その際に、同じ衣装を着てはならない。息子を産んだ妃、少なくとも二十の宮へ挨拶に行くための衣装がいる。一着、二着程度ならなんとか、ハムシャルワの装飾品や秘蔵の品を売れば工面できるだろうが二十着だ。
どうしたって一着一着へかける金が少なくなる。
第一王子の花嫁になる娘を、粗末な格好で送り出し、本来であれば第一妃より低い身分であるはずの他の妃たちへ挨拶周りをさせる。
「ほほ、ほほほほ」
なんて無様なことだろう。
想像して、思わずニスリーンは笑い声を立てた。鈴が転がるように美しい声だ。毎晩蜂蜜をなめてなめらかにしている喉からこぼれる声は夜鳴鳥かくやと詩人に歌われるほど。
「贈り物の品も楽しみじゃな。あぁ、どのように素晴らしいものを持参するのであろうか!」
挨拶の際には贈り物がいる。手土産、と称すべきか。
ハレムにて豪華絢爛な暮らしをする妃たちに、一体どんなものを持ってくるつもりなのか。金銀財宝、珊瑚や瑪瑙など見飽きた身。あの奴隷女ではせいぜい、手織りの布がせいぜいだろう。
「息子の嫁に満足に支度をさせることも叶わぬ女が第一妃など!あぁ、まったく、世は奇妙なことがおきるものじゃな」
もし、己が第一妃であったなら。もし、己の産んだ王子が、第二王子でなく、第一王子であったのなら!ニスリーンは息子の嫁のために財を惜しまなかった!それだけの蓄えや、資金源はある!己であれば、第一王子の母としての、義務を果たせるというのに!!
外国の娘には気の毒だが、己の息子の嫁ではないのなら、あの奴隷女の側の者なら、己にとって害悪でしかない。
ニスリーンはこれからやってくるという外国娘に、どう恥をかかせてやろうか、じっくり考えることで、胸の中に沸くどろどろとした感情をなんとかなだめることができた。
「ご主人様、ニスリーン夫人、奥方様。やってきました。水蜜の宮から、アラム・バラス王子の花嫁がやってまいりました!!」
少しして、腰元のひとりがそっと耳打ちしてくる。
黄水仙の宮は五つの建物からなる、ハレムで最も広い土地を持つ。ニスリーンが日中過ごすのは大理石の柱で作られた、吹きさらしの間である。珍し鳥の羽や金の銅像、人工的に作られた滝や木々が植えられた庭が一望できるニスリーンの自慢の場所である。
「そうか」
目を細め、ニスリーンは体を起こす。
女奴隷に命じて、鏡を持ってこさせる。毎日2時間以上かけて磨かせる巨大な鏡に映る己の姿を確認する。自慢の黒髪の艶、肌の張り、唇の色、化粧の崩れがないか。香油で念入りに揉んで磨かせた体は柔らかく、薄布の上からもはっきりとわかる魅力を伝えているか。
じっと、ニスリーンは確認する。少しでも気に入らぬところがあれば腰元たちにすぐさまなおさせた。
どうせ粗末なナリで来るだろう奴隷女の息子の嫁相手に何を無駄なことを、とは思わない。
ハレムにおいて、最も重要なのは美しさだということをニスリーンは知っていた。
自分が美しいことを理解している女は強い。
自分が最も美しいと、断言できる女はもっと強い。
女同士というものは、初見で相手の顔を見る、姿を見る、採点する。
己の方が美しい、と、そう、思った瞬間に女は自分が勝利したと思う。
男から得る愛情、子供の有無、そんなもの、なんの価値もない!!
「自分が誰より美しい」という自覚こそが、女を強くするのだとニスリーンは実感していた。
ゆえにニスリーンはどんな女でもまっすぐに見つめる。見つめて、相手の瞳のなかに己を映す。どちらがどちらかという無意識の女の争いを挑み、そして勝利し続ける。
「水蜜の宮より、エルジュベート・ザリウス姫がいらっしゃました」
姫と呼ばれる身分でもないくせに、姫か。
ニスリーンは内心バカにした。
聞けば、外国の娘は聖女候補生だったが、その母親は娼婦であったそうではないか。それでは外聞が悪いと公爵家の養女となってからこの国に送り出されたそうだが、そういう身分の娘が姫とは!
となれば、どうせ付け焼き刃の礼儀作法。
笑いを堪えきれるだろうか?あまりにおかしくて、大声で笑ってしまったらどうしようか、とおかしな心配をする。
「……?」
ふと、周囲の気配が、変わった。
ニスリーンは入り口の方へ顔を向ける。
女奴隷や、腰元たちの様子がおかしい。
誰も言葉を発していないのに、動揺が空気となって充満している。
一人の娘が立っていた。
太陽の光を受けて、輝く銀色の髪に、雪のように白い肌。
唇は薔薇のように赤く、世を楽しむような笑みを浮かべている。
装飾品の一切はなく、光沢のある見たこともない布で作られた衣を着た娘が、ニスリーンを見つめていた。
「こんにちは、ごきげんよう。ニスリーン夫人。ご招待ありがとうございます」
年の頃なら十四、十五の、少女と大人の境にある最も美しい頃の娘。花の咲く美しいときを閉じ込めたような柔らかな物腰。
娘が一度目を軽く伏せ、膝を曲げて挨拶をした。が、頭は下げない。
まっすぐに背筋を伸ばし、ニスリーンを見つめる。
「……」
一人の腰元が、膝を付いて顔を伏せた。
そうしなければならない相手であると、使用人としての本能で動いた。途端、ニスリーン以外の全ての者が膝を付く。
「ほ、ほほほ、ほほ」
しかしニスリーンは寝椅子から降りない。己はこの黄水仙の宮の女主人にして、ハレムで最も美しい女である。
七色を持つ鳥の羽根で作った扇を傾けて、ニスリーンは微笑んだ。
「傍へ」
来い、と呼びつける。瞳でじっと見つめると、銀の娘が目を細めて、軽く首を傾けた。さらりと銀色の髪が揺れる。
お前が来い。
そう、言われているような気がした。
銀の娘はその場から動かない。
あぁ、これは、女の決闘だとニスリーンは理解した。
どちらがどちらと、もはや始まっている。
寝椅子から降りて銀の娘に跪く時に、己は敗北するとニスリーンは理解した。
あぁ、誰が!!そのようなことを!!
ニスリーンは寝椅子に寝転び、あくびをする。
退屈な出来事だと、つまらぬ、とるにたらぬ出来事だと示す。びくり、と腰元たちが怯えたように肩を揺らした。
どちらがどちらと決まるまで、腰元たちも動けない。
それでも、銀の娘も動かなかった。
口元に淡い笑みを浮かべて立っている。
ハムシャルワが、なぜこのように珍しい布を用意できたのか。娼婦の娘がなぜこのような、迫力があるのか。
そんなことはもはやどうでもいい!
ニスリーンは瞳を逸らさず、銀の娘を見た。
見続けた。
お前が先に頭を下げろと、挑み続けた。