また母が増えた
父が聖王国より連れて帰った少女、エルザの退室する音を、第一王子アラム=バラスはまどろむ意識の端で聞いてた。
彼女は光に包まれた美しい存在のように、アラムの目には見えた。
魔王の娘、天狼の子、星屑の乙女。
様々な名で呼ばれ、扱われるエルザに、アラムは同情している。病床にあって、アラムは王より絶対の信頼と心を寄せられている存在だからと、すり寄る者はまだまだ存在した。
生まれてから暫く、あまりにひ弱なアラムを誰もが『すぐに死ぬ王子』と相手にしなかった。
ハットゥシャの王子といえば、王座につく一人を残し、他は全て殺されるのが習わし。アラムの父も、数多くいた王子全てを殺して王になったと聞く。
アラムは他の王子、妃たちに『別に自分たちがわざわざ殺さなくても死ぬだろう』と思われていた。
それが、もう三十年近く前だ。
アラムは自分より後に生まれ、すでに殺されたきょうだい達の事を考える。
彼らは誰ひとり、自分がアラムよりも先に死ぬとは考えていなかったに違いない。
(彼女は、私を救ってくれるだろうか)
生まれてからずっと、満足に歩くことさえ出来なかった。部屋の中を僅かに立ち歩きすることはできるが、それだってすぐに息が上がる。
役に立たない。王族であるのに、そんなことが許されるわけがない。王族とは、民を守るために存在している。その為に権力を持ち、富を有している。それらを使うことを許される存在であるのに、アラムは自分が、ただ王族の特権を浪費するしかない無能であることを自覚し続けてきた。
政治へ口出しすることもできない。自分よりもっと賢く、頭の回転のはやい王子や家臣がいる。自分が望まれているのはただ黙っていることと、アラムはわかっていた。
父だけが。王だけがアラムに生きることを求めている。
(……ままならない。他人に、迷惑をかけるだけの存在とエルザは言ったけれど、それは私のことだ)
熱が上がってきた。
父と話し、緊張したからだろう。そんなことで、体調を崩す。
*
「第一妃のハムシャルワです。どうぞ、わたくしを母と思い、ここを自分のふるさとだと思ってくつろいでね」
香油がまかれ、柔らかな布がたっぷりと使われた美しい衣装の女性は、優しい微笑みを浮かべて私の手を取ってくれた。
マーサさんのように、他人に優しくすることが当たり前にできる、善い人だとすぐにわかる。
アラム王子のお母様、ハムシャルワ様は蜂蜜色の髪に白い肌、緑の瞳。ハットゥシャの人間ではなく、どこか別のところからいらした方だという。
「ありがとうございます。ところで、こちらの食事事情について伺いたいのですが、食事は一日何回です?主な食事内容は?習慣的にとられているものや、何か名物などありますか」
「まぁ!陛下から、あなたは料理が好きだと知らされていましたが、本当なのね」
「外国に来たので色々勉強できるこも多いと、期待しております」
ハムシャルワ様はにっこりと微笑む。笑うと少女のようである。
とてもアラムさんの歳のこどもがいるとは思えない愛らしさと若々しさがある。
「ハットゥシャの料理……わたくしも、四十年前にこの国に来たものですから、あまり伝統的なものまではわかりませんが。これからお茶会をして、色々お話させて頂こうかしら?」
いくつなんだこの人。
美しい人は年齢不詳である。
さて、お茶会の準備はすでに終わっていたよう。私がこちらに挨拶にくることは前もって予定されており、ハムシャルワ様は私を待っていてくれた。合図があるとすぐに仕えのひとたちが銀や金など綺麗な細工の施されたおぼんや器に果物や焼き菓子を乗せて持ってきてくれる。
お茶会、というが、出されたものは果実を搾って氷水や蜂蜜と割ったものだった。
ハムシャルワ様は紅茶のようなものを飲んでいるので、これは子供である私にはこういうものが良いだろうと用意してくださったらしい。
「これはコーファナというお菓子で、小麦粉を練ってとても細くしたものです。中にいろんな木の実を入れて焼くんですよ。焼き終わった後は砂糖水をたっぷり吸わせます」
お菓子作りを担当している女性が呼ばれ、並んだお菓子の説明をしてくれる。
この国、基本的に殆どのお菓子は完成直前にシロップに漬けるようだ。
焼き菓子、ドライフルーツ、色々あって、どれも砂糖がふんだんに使われている。これは、ハットゥシャの気候に関係している。
私の知るエジプトのように暑い国。
糖分をとると体温が下がり、また疲労回復にもなる。
であるので、ハットゥシャでは甘い物が好まれた。
なるほど……。
砂糖なしの紅茶かカップキアロが飲みたい。
「アラムにはもう会ったと思いますが、あの子のことは……その、気に入りましたか?」
お茶菓子は堪能させて頂いた。
甘すぎてちょっと、と最初は思ったけれど、私もこの国の気候を体感している。
食べてみると面白いことに、身体が受け付ける。まだ乳歯なので虫歯になっても抜けるからいいか、という気安さもあった。
四杯目のジュースを飲んでいると、傍仕えたちを下がらせ、ハムシャルワ様は私の顔をのぞき込むように問いかけてきた。
「気に入る、ですか?」
「……えぇ。あの子はあなたと歳もずっと離れているし……病弱でしょう?夫として、頼りないと思われても仕方ないわ」
「優しそうな良い方だと思いました」
どういう意味だろうか?思案しながら私は当たり障りのない言葉を返す。
「……あなたが、あの子の妻になってくれたら、それはとても……わたくし達にとっては、良いことだわ。あなたは聖王国の後ろ盾があって、それは、あの子を守ってくれるでしょう。わたくしとは違う」
ハムシャルワ様はぽつりと、自分は元々はこの国に売られてきた女奴隷であったと話し始めた。
生まれた国はわからない。ただ、見目が良いからと売られて、粗末な小屋で育てられた。女奴隷というのはハットゥシャにある文化で、奴隷達には一定の教育が義務づけられる。主に礼儀作法が中心的となっていて、それらはハットゥシャの人間に売られた時、主人が快適に過ごせるようにするためだ。
「わたくしは、陛下のお父上……先代の王のハレムに買われました」
そこから言葉を途切れさせるハムシャルワ様。これ以上話したくはないことがわかり、私は頷いた。
「つまり、ハムシャルワ様はご実家からの援助がなくて、アラム様を他のお后様や王子から守れなかったけれど、私にはそれができるから、私を望んでくださるのですね?」
「……えぇ。ごめんなさい。子供のあなたに、こんなことを頼むなんて……どうかしているわね」
「いいえ。私は精神的には大人のつもりですから」
真面目に言っているのに、ハムシャルワ様はなぜか小さく笑ってくださった。私が勇気づけるために話を合わせてくれたのだろうと思っているようだ。
「アラムは、あの子は、陛下から愛されています。でもあの子にはそれだけ。どうか、あの子の力になってあげてくださいね」
ぎゅっと、ハムシャルワ様は私の手を握り、懇願する。
優しい人だ。私は久しぶりに、心から他人の幸福を願うひとに会った。
「わかりました。力に……なるほど、それでは遠慮無く、レッツクッキングといかせていただきます!えぇ!わかっています!」
「……え?」
なるほど、それでは私に出来ることはただ一つ、と大きく頷き宣言すると、ハムシャルワ様が「なんか思ってたんと違う」というような顔をしたが、それはそれ。
エルザさんはこれまで“悪意のある人間が近づく”事が多かったんですが、スレイマンがいなくなたのでそのデメリットがなくなりました。やったね。……やったね。