きっと、ずっと、そうなのでしょう
いったいどうして、そこまでするのだろう。
泥を吐き、身を土に這い蹲らせながら進む少女を見下ろし、ミシュレは不思議でならなかった。
彼女のことなら、きっとこの世界で誰よりも自分が理解している。
この少女にとっては異世界で、彼女が一番苦しんでいる時に傍にいたのは自分だし、ミシュレは自分の人生を開示したかわりに彼女の前世の一生、この異世界に生まれてからの半生も知った。
だから彼女がスレイマン=イブリーズと知り合ってどれくらいしか経っていないか、あの男が彼女にどんなことをしてくれたのかと、正確に判定することができる。
スレイマン=イブリーズという男はろくでなしだ。魔王だなんだということを抜きにしても、他人に対して思いやりというものを持たず、自分勝手なだけの男だ。
彼女を庇って死んだことさえ、あれは、ただ自分が彼女のかわりに死にたかっただけだ。
自分のような者が彼女といつまでもいられないとわかっているずるがしこい男が、ただ彼女の心にいつまでも自分を住まわせておきたいだけの我がままの末だ。
客観的に見て、スレイマンにとって彼女はたまたま自分を救ってくれた存在で、しかしはたして、彼女が想うのと同じくらい、あの男は彼女を想っていたのだろうか?
客観的に判じ、ミシュレにはとてもそうは思えない。
ただたまたま都合よく、彼女がスレイマンを助けて、だからあの男は、他人から拒絶され続けた男は、うっかりほだされた。
だから、それはまるで虐待され続けた犬が、はじめて他人の優しさを知っておいかけるような、別にスレイマンにとって、それは彼女でなくても誰でもよかったのだ。
だから、ミシュレにとって二人の関係というものは、おおよそ彼女がその死を悲しみ、苦しみ、必死にもがいてまで取り戻そうとするだけの価値があるようには、とうてい思えなかった。
(あの男があなたにしたことなんて、たいしたことじゃない。ただ、タイミングよくあなたの前に現れただけ)
この夢の中の世界。彼女とミシュレの意識の複合。この世界に、ミシュレはスレイマン=イブリーズの存在を認めなかった。
ただ楽しい、面白おかしく料理をするためだけに相応しい世界。
この洞窟の奥にいる存在にしたって、ミシュレは何も定めなかった。
かつてこの洞窟の奥で、かつては彼女がスレイマンに出会ったとしても、この夢の中の世界ではそうはならない。
森の中で料理を楽しむ幼子の前に、この世界では絶対にあの男は現れない。
彼女も夢の中でさえ、自分がスレイマンに再会できないことを本心ではわかっている。だから、この先に進んで進んでいっても、出会えない、という結果を迎える、それにたどり着くことを怯え、泥を吐いて歩みを遅くする。
なのに進む。
自分で苦しむために進んでいるようにしか、そんな無意味に無為に、自分の心を踏みにじってどうするのか。
(あの男は、あなたの懸命さに応えてなんかくれないのよ)
「いいえ、いいえ、ミシュレ。それは、違います」
思考に沈むミシュレを、彼女のかすれた声が呼び戻した。
はっとして顔をを上げれば、泥に塗れた顔をごしごしとぬぐい、彼女がただ前を見ている。
彼女の腹からは血が流れていた。
聖王国で、泥人形に刺された傷が夢の世界にまで浸食してきている。
彼女が自分で自分の思うように進もうとする度に、現実が近くなってくる。
「私たちは必ず、出会うんです。でないと、私はエルザになれない」
彼女は、青い目に銀色の髪の少女、エルザは言い切って、そしてぐいっと、膝に手をついて立ち上がった。
少し先に、光が見える。
眩しくて、目を細める。
その先に、先に、誰かいる。
+++
体が重い。
頭はガンガンと痛みが鳴り響いて、お腹からあふれる血が泥と混ざって、もう互いにどれくらいの量なのかわからなくなっている。
自分が何を忘れているのか、思い出さないといけなかった。
どうしてって、それは、そうだろう。
私は、この、自分の名前さえ思い出せない妙ないきものは、何よりも、奪われることが嫌なのだ。
自分が誰だかわからない今になって、私はその中でさえ自分が「嫌」だと身をよじりたくなる感情がある。
ミシュレが呼んだ、前世のわたし。日本人の、料理人。
彼女は奪われた。自分の人生を、目標を、意味を夢を、貯金を時間を何もかも。あっさり、無意味に無駄に、理不尽に、何の予告もなんの、きっと、何の必要性もなく奪われた。
この異世界でだって、そうだ。
私はただ料理がしたい、料理というものをして、生きていきたいのに、奪われていく。
ただ料理だろう。
誰だってできる。
いつでもどこでも、誰かがやってることを、どうして私が願って得られないのか!!
おまけのように、ついでのように、思い出したように、時々料理を「させてもらえる」ようだった。
「そんなことより」やらなければならないことを頭の上から降らされて、料理「なんか」は二の次!!
泥を吐きながら進む。
この泥は私の腹にたまった憎悪だ。
世界が泥に沈んでいくというのなら、私の憎悪は私の身の内にたまって泥になって、私の心を沈めていった。
それを吐く。吐きながら進む。
段々と私の体は、重すぎたものから、だんだんと軽くなってきた。
歯を食いしばる。立ち上がって、見えてきた光に目がくらむ。
この洞窟、私が知る洞窟の奥には、私の心をすくってくれたひとがいた。
暗く湿って汚れた洞窟の中に、この世の憎悪を悪意をまき散らしながら、腐りながら死んでいくはずだったひとがいた。
その人は自分が奪われ続けたことを憎んでいた。
思い出す。
思い出す。
『おれが望んだことがそれほどおぞましいか!』
頭の中に、聞こえてくる声。
悔しさと苦しさと、自身へのどうしようもない感情を、何もかも込めた声。
あのひとに出会ったとき、私は自分が殺されて未来を奪われた憎しみが消えた。
いや、消えた、許したのではなくて、そうではなくて。
全身から、世界を拒絶して恨むあのひとが叫び続ける姿が、その姿が、私にはとても。
光の中に進む、薄暗い洞窟から、嘘のように白い場所。
私は泥まみれの顔をごしごしと何度もぬぐい、顔をあげた。
「私は、あなたのことが好きなんですよ。スレイマン」
真っ白い、何もない空間にあのひとがいた。
不機嫌そうな顔、眉間に皺をよせ、伸び放題の髪と髭。
片足が不自由で、杖をついてる。
ボロボロの姿のスレイマンが、立っていた。
ポケモン新作買おうか悩んでるんですよね……。