クビラ街(2)
自分の頭を飛び越えて、若い者たちがあれこれと、街を救うために動いている。
寝所に引きこもり、頭を抱えたままラダー商会の主、三代目ラダーは自分のしでかしたことの恐怖に震えていた。
魔女の雪が、街の人間を大勢殺した。
その後の貧困、仕事を失った者たちの荒れた行動、それらを、あのザークベルムの長女や嫁いできた娘、それにルシタリアの若者はなんとかおさめようと尽力した。
それをラダーはわかっている。
当初はラダーも、彼も立ち上がろうとした。
あの雪の日に、妻が行方不明だと知り混乱したが、だが己は三代目ラダーである。しなければならないこと、己であるから出来る指示や権限があり、それは義務であると、そう立ち上がらねばならなかった。
己はラダーであるから、だから、妻の行方を探す事は他の者に任せて、己は、己は、しなければならないことをしようと、そう決めた。
それが間違いだった。
それが、よくなかった。
ガタガタと震えながら、ラダーは部屋の鏡を見る。
この鏡は妻が、レヤクが嫁いだ時に持参したもので、大きな姿見。鏡の中には中年の男が、恐怖に顔を引きつらせ体を強張らせているみっともない姿が映っている。
が、その姿は急にかき消えて、鏡の中にはこの場にいない者の姿が映し出された。
「あぁ、あああぁあ、許してくれ、許してくれ、レヤク」
鏡の中、立っているのは青白い肌の女だ。
ほっそりとした肢体に、サラサラと美しく揺れる布。だがその白い首から上は切り落とされ、真っ赤な血が溢れ出て全身を流れている。
『旦那様、旦那様』
鏡の中の女、首はなく声など出る筈がないのに言葉が聞こえてくる。
『酷い、酷い、わたくしをばけものだなんて。酷い。旦那様。旦那様のために、このような姿になったというのに……あぁ旦那様、どうして』
「やめろ、やめてくれ、レヤク……!!おぞましいそんな姿で現れるな……どうして、どうして……!!あぁやめてくれ!!消えてくれ!!!!」
ラダーは必死になって耳を塞いだが、醜い化け物となったかつての妻の言葉は聞こえてくる。
あんなに美しかった妻が、いったいどうしてこんな化け物になって自分の前に現れるのか。ラダーは全身で化け物を拒絶した。
「あぁ、お可哀想に……旦那様」
そっと、ラダーの肩を叩くものがいる。長身の青年だ。黒と金の二色の髪に、美しい顔立ち。人の心にするりと入り込んで離さない心地よい声音で優しく囁いて、青年は鏡にそっと薄いベールを被せる。
「助けてくれ、助けてくれ……イオアンニス。あの化け物がジャミルを殺した。彼は私にとってもう一人の父のような者だったのに、あの化け物はそれを知っているはずなのに!」
「お可哀想に旦那様。早急に、次の花嫁を迎えるべきですな」
ラダーは半年前のことを思い出す。
雪からの復興を、ラダーは挑んだ。その彼の前に、夜、現れたあの化け物。
『旦那様、旦那様。どうか、わたくしを受け入れてください』
首のない女。全身から腐臭を放ち、滴る血が床を溶かした。
化け物はラダーの寝所に現れ、手を伸ばしてきた。
恐怖におののくラダーの異変に気付き、ジャミル老が駆けつけて間に入った。鑑定士のジャミルの目は、それをラダーの妻レヤクと見抜き、驚愕した。
『奥方様、どうか、どうぞ、なにとぞお鎮まりください。あなたさまはもはや旦那様とは異なる境界線向こうの存在に成り代わられた。なにとぞ、なにとぞ、お引きください」
ジャミルは畏まり、平伏し懇願した。
しかしラダーが次の瞬間見たのは、ジャミルの言葉に激高した化け物がジャミルの背に爪を立て、内臓をえぐり出し壁にまき散らす姿だった。
ラダーは怯えた。次に殺されるのは己だろうと考えた。だが化け物はラダーは殺さない変わりに、ラダー商会のものを殺し続けると告げた。
『旦那様の愛するものが悉く失われれば、旦那様はきっとわたくしを思い出してくださるでしょう』
しわがれた、老婆のような声で化け物は言う。
どうすればいい、どうしたら商会の者たちを守れるのだろう。ラダーは絶望した。そこへ、現れたのがこの、自称錬金術師と名乗るイオアンニスである。
イオアンニスはラダーに花嫁を迎えるよう勧めた。
花嫁はラダーにとって、商会にとって大切な存在。あの化け物がまず命を奪うのは花嫁だ。
見知らぬ女か、それとも大切な家族のような商会の者か。
ラダーは選択に迫られ、そしてその判断は、それほど迷うものではなかった。
花嫁の家族には多額の支度金を支払う。
聖女の素質のない娘というのは、それほど価値がないと、考える家は多くある。
そういう家の娘を貰い、ラダーは自分の家族の代わりに差し出した。
「ルシタリアは駄目だ……あれは……あの、あの若造……あいつを見捨ててしまえば、私は本当に外道に成り下がる」
「よいではありませんか。見れば、かのルシタリア商会の長は何か企みがある様子。こざかしい顏の青年も加わって、えぇ、これであの化け物が倒されるようなことがあれば、それはそれで都合が良いではありませんか」
イオアンニスは穏やかな声で囁く。ラダーはもう考えることが辛くなり、ただ嗚咽を繰り返しながら頭の中には、かつて美しかった妻の姿を思い浮かべた。