異国の王子
「ねぇ、聞いた?あの噂。本当かしら? ほら、ハットゥシャの!」
「ハットゥシャの一団がこの国にいらっしゃるのはそう珍しくないわよ。あの国を囲んでいる結界は聖王国が管理しているんだもの」
「そうじゃなくて!今回は王族の方がわざわざいらっしゃっているらしいのよ!なんでも、聖女候補生を王室に迎えるために直々にいらっしゃったんですって!」
聖王国は王都ペルシア、宮殿内にて女官たちが囀り合う。
毎朝毎晩決まった仕事を黙々とこなす事だけを求められた彼女らの口は軽く、噂話は一呼吸で宮殿の隅々まで行き渡ると言われている。
彼女らの話題は常に新しい。つい半年前、王都を襲った魔族や、それに関与した貴族たちの処遇などひと月で飽きてしまった。
目下の興味は一週間前に豪華な装いの一団が到着した件。
この《牙の大陸》の最南端、大国ハットゥシャからの使節団についてであった。
ハットゥシャといえば魔族や魔獣の脅威と戦う、人間種の盾の国とも言われている。
盾の国が滅ぼされればいかに聖女の結界が発動されていようと、結界が浄化し抑えるのは強力な魔族と泥の浸食のみ。国境の南より先は魔族の泥で死の世界が広がり、人間種に絶え間なく恐怖を植え付ける。年々職業聖女の力が弱まり、南以外の三方は徐々に土地が泥に浸食されていく中、ハットゥシャは百年、その土地を守り続けている偉業を果たしていた。
「あの噂、本当なの? ハットゥシャは代々、聖女候補生を側室に迎えられてるって。その聖女候補生が王族の方と産んだ子供が神の使いになるって」
「砂の聖女と同じ時期に塔にいらっしゃった姫君が40年前に嫁がれた筈だけど……」
南の大国は泥に最も近い国であるというのに、土は豊かで作物がよく実った。巨大な川が国の中央を流れ、水路の充実により輸送技術が発達し、国の隅々まで物や情報が行き渡る。
泥や魔族たちの脅威はあれど、その国は神に守られた国として、国民は王を崇め、豊かな国で有名だ。
さらに言えば、ハットゥシャの土地を守護する絹の結界におわす星屑殿は、最大規模の鷹の結界の星屑殿の半分程の規模を作られたが、美しいものをたいそう好まれた。
その為「絹殿」の結界内では海からは真珠やサンゴやべっ甲、山からは水晶や翡翠、瑪瑙などの宝石がよく採れたのも、国を豊かにした一因だろう。
「えぇ、事実ですよ。40年前、私の祖母にあたる姫が聖王国よりハットゥシャの王子に嫁ぎ、私の母が生まれました。母が神子となり神殿に入ったことで、我が国の今の平穏があるのです」
「!?」
いつの間に入って来たのか、糸紬をしている女官たちの部屋に一人の青年が立っていた。
良家の子女である女官たちは見知らぬ男に悲鳴を上げそうになったが、彼女達の喉から上がりかけた悲鳴は、青年の身を飾る見事な黄金の装飾品の輝きによって押し留められた。
「あ、貴方様はもしや」
先程の口ぶりや、そしてその装い。
ハットゥシャの王族の方であると女官たちはすぐさま理解し、平伏する。
知らなかったとはいえ、王族の方の前で噂話をした。偶然であっても無礼である。どんな咎めを受けるかわからないと震える女官たちに、青年はやわらかく微笑んだ。
「驚かせて申し訳ありません。祖母が過ごしたと聞く王宮が珍しくて不作法にもあちこち歩いてしまいました。私がここへ来た事はどうぞ内密に」
咎める気はないらしい。
その言葉に女官たちはほっとして息を吐いた。
そして改めて、美しい黄金を纏う異国の王子を見つめる。
褐色の肌に黒い髪、鍛え上げられた体は逞しく青年の若々しさは幼さを感じさせず、力強さを印象付けた。
(王子殿下であるというのに、気さくな方だわ)
女官たちは口に出さずとも、皆同じことを思った。
こんな方が暫く滞在される。
お婆様の思い出を辿りたい、とおっしゃっているから、また偶然会うことも出来るかもしれない。
最近はやりの香水を買おうか、それともお化粧品の方がいいか。
ハットゥシャではハレムという特別な場所があって、王族の目に留まった女性は身分問わずハレムで贅沢な暮らしが出来るという。
もしかしたら、と噂好きの女官たちは、皆そんな夢を抱きながら、王子殿下が出ていくのを見送った。
*
「どこをほっつき歩いてたんだ」
「どうせその辺の女官でも口説いていたのだろう。産まれの賤しい者は全く節操がない」
貴賓室に戻るなり、兄王子たちの小言を受けてヤニハ・アダ・シャザーンはにっこりと微笑んだ。
幼いころから顔を見れば殴ったり、物を取ったり、服を脱がせてあちこち切り付けてきた兄上らには言葉など通じない。向こうもこちらを同じ人間であるとは思っていないので、口を開くだけ無駄というものだ。
「父上、大神官は何か隠しているようですよ」
それであるからヤニハは奥にいるハットゥシャの王、ラムス三世の元へ行き、まず恭しく跪いて最上級の礼をしてから、本題に入った。
ハットゥシャの王族は代々、聖女候補生を側室に迎える。
その噂話は正しい。
だが、けして「正室」に迎えるわけではないことを誰も指摘しない。
聖女候補生は各国の後ろ盾を得た貴き姫君であらせられる。聖女に成れなかった女は各国の王子たちの花嫁候補であるが、ハットウシャにおいてはその意味が異なった。
王子たちの中の誰かが側室に迎え、子供を産ませ、その子供が神殿の神子になる。
重要なのはその一点で、他の国のように聖女候補生、他国の後ろ盾を持つ娘というブランドを求めてはいない。
聖王国との取り決め通り、今回、聖女候補生を一人貰いに来たのだが、一応建前として第一王子から第六王子まで、王位継承権を持つ王子たちが同行し、聖女候補生を「見初める」手はずとなっている。
「今回大神官より父上に渡された書簡には十二名の乙女の名がございました。兄上達も既にその十二人の乙女らを物色……いえ、ご検討されていることかと存じますが、おそらく、誤りかと」
ヤニハは第十九王子、五十人近くいる王子王女の中でも最も低い地位にいる王子だった。
今回の外交に参加する権利はないし、意味もない。豪華絢爛だけな自身の宮殿で金を湯水のように使って遊んでいろと言われたが、ヤニハは父の今の寵姫に「お願い」をして、同行させて貰うようにした。
祖母の故郷を見てみたいともっともらしい理由で寵姫に沈んだ顔を見せてやれば、ヤニハに頼られたことを喜んだ寵姫は寝所でラムスに「末の王子が可哀想になった」と甘えてくれた。
全くもって、ありがたいことだ。女というのはやさしい生き物だ。
「聖女科の塔や教師たちは十二人であったと口をそろえて申します。しかし、当時の記録を調べますと……丁度もう一人分、聖女育成のための予算が使われているようでございます。なぜ十三人目を父上には知らせなかったのか、とんでもない問題児か、それとも、ハットゥシャには取られたくない乙女であるのか……」
「余は貴様に言葉を許した覚えはないぞ」
見極める必要がある、と進言しようとした口は、父王の投げた黄金の錫杖で殴られた。
「……」
「出過ぎた真似をするな。余は貴様がコソコソとドブネズミのように宮殿をうろついて何を調べようと興味はないし、聞く気もない。聖王は我が国に逆らえぬ。隠し立てなどしようという心を芽生えさせるほど、我が国は見縊られはせぬ」
確かに、少し前ならばそうだっただろう。
大国ハットゥシャ。魔族や強力な魔獣と戦う最前線。絹の結界の星屑種殿は人間種の味方を名言される唯一の星屑種であり、ハットゥシャの初代国王を育てたともいわれている。
聖王国の、あのひ弱な王がこの苛烈な父に対して二心を抱くなど、無理だとヤニハもそう思う。
(だが、今はあの大神官ラザレフがいる)
魔王の取り換えっ子。
裏切りの聖女の祝福を受け続け、神性と化した肉体は神代が終わった今の世では人の形が保てず、常に依代を必要とするという、巨大な力の持ち主が、今の聖王国にはいる。
ヤニハは父王が馬鹿にされようが、兄王子らが大神官の計略にものの見事にひっかかろうが、そんなことはどうでもいい。
だが、ハットゥシャを見縊られるようなこと、それだけは見過ごせなかった。
「さて、どうしようかな」
貴賓室から追い出され、ヤニハは目を細める。
「何か余計なことをなさるおつもりですね?あぁ、お止めくださいヤニハ様。そうでなくともヤニハ様は他の王子方々から睨まれておいでなのです。ペルシアに同行出来ただけで良しとなさってください」
仕える王子がまた傷を負って出てきたことで、ラシッドは慌てて治療道具を取り出す。
ヤニハの乳兄弟でもある従者は、王宮に味方のいないヤニハの数少ない理解者だった。
それであるからヤニハはラシッドが自分の身を案じてくれていることを知っているので、その心は受け取り、しかし表面上はからかうようにニヤニヤと笑う。
「そうは言うがな。これは中々ない出し物だぞ?」
「出し物などと……」
「あの大神官ラザレフが何を隠しているのか、お前は気にならないか。私はなるぞ。十三番目の聖女候補生。あんまりにも酷い劣等生だから隠した、というのが、まぁ、ありきたりだが有り得そうな所なんだがな」
王室でも良く在ることだ。
出来の悪い王子や王女は、いなかったことにされる。
幸いヤニハは文武に長け……まぁ、長け過ぎて兄王子たちから嫉妬されて殺されかけたこと、両手両足の指の数じゃ足りないくらいだが……まぁ、それも良くあることだ。
「だが、もし万が一、その逆ならば、ハットゥシャが手に入れるべきは十三番目の聖女候補生だ」
どんなに優秀な聖女候補生でも、必ずハットゥシャの側室候補として名簿に上げられた。自分の祖母もそうだったと聞く。あの砂の聖女と、その魔力量、神性の高さでは同等だった。しかし、祖父が見初めたのは祖母だったため、エルジュベート・イブリーズが聖女となった。
もし、祖父がエルジュベートの方を選んだのなら、魔王の器を産んだのは祖母になったのだろう。そうなれば、あの人に尽くす事を自分の全てとした祖母であれば、エルジュベート・イブリーズのように魔王を世に放つようなことはしなかっただろうが……そうするとヤニハは生まれなかったので、それはそれで困るけれど。
「十三番目の姫君を探される、としても、厳重に隠されているのなら探しようがないのではありませんか」
「いや、それは簡単だ。というか、多分ここだろうな、と検討がついている」
ヤニハは自分で自覚している才能があった。
それは、数字に関する、記憶能力とでもいうのだろうか。
簡単に言えば、目で見た、あるいは聞いた数字を正確に永遠に暗記できる。
たとえば城の一日の食料の消費量……使用人や勤め人の人数、要人の行動回数などを頭の中に入れて、計算する。
そうすると、明らかに「何か隠されている」場所がわかるのだ。
「私の予想だとここだね」
ラシッドを伴い、ヤニハはとある離宮の地下へ侵入した。夜間は人も少なくなるが、その分魔術的な強化がされる。狙うならば日中、見つかっても問題はない。
王宮の敷地内にある、薔薇の庭園を擁した離宮。
砂の聖女が出産に使ったというその場所は、今では呪われた汚らわしい場所と言われているそうで、近づく者はいない。
「誰もいませんよ、ヤニハ様」
「人間はね。だが、馬鹿みたいな数の魔術式があたりに、気持ち悪い程刻まれてる。どう考えても、アタリだよ」
魔術を使えないラシッドの目にはただの薄気味悪い宮殿だろう。
だがヤニハの特殊な目には、何百という数の、まるで教科書に乗せたら最高のお手本になりそうなほどきっちりと、正確な魔術式が展開されていた。
「おばあさまの外套を持ってきてよかった。さぁ、行くぞ、ラシッド」
「本気ですか!? そんなに厳重にされている場所に入り込んだなど、いくらハットゥシャの王子でも無事ではすみませんよ!?」
ラシッドは必死で止めようとする。
自分もまきこまれて殺されるかもしれないから、ということではないのが、ヤニハには本当に、おかしい。いつでもラシッドはヤニハの事を案じる。自分だって、ヤニハの従者をしているために随分と不自由な目に遭っているというのに、恨み言一つ聞いた事がない。
「じゃあお前は待っていろ、私は行くぞ」
「~~~、ヤニハ様を一人で行かせられるわけないじゃないですか!自分の怪我の手当てもできないくせに!」
「怪我をすることを前提にするんじゃない。なら入れ、おばあさまの外套は大きいが、男二人でくっつく趣味はないぞ」
聖女候補生であった祖母は、絹の星屑種から気に入られて銀の外套を賜った。魔術式の一切を無効化できる神代の奇跡ともいえるもので、これは祖父にも父王にも伝えられず、祖母から母へ、母からヤニハへ内密に伝えられた、唯一の形見だった。
薔薇の庭園を越え、離宮に入る。
こういう時は地下にいるものだ、という独断と偏見で下へ進もうとして、ヤニハは何か、そう、たとえば、自分の運命が変わる音を聞いた。
「……」
それはどう表現すればいいのかわからない。
鈴を転がすような、ではない。
激しい落雷のような、でもない。
音であるのに、どう聞こえたのか表現できないが、とにかく、ヤニハの耳に何かが聞こえた。
「こっちだ」
「え、そちらは……中庭では?」
離宮の作りはどこでもある程度共通している。
ヤニハが向かったのは一度中へ入れないと向かえない、庭だ。
離宮の中にあり、硝子の屋根の下、キラキラと輝く銀色が目に入った。
「ヤニハ様!!」
すかさず、ラシッドが声を上げ、ヤニハを背に庇った。
「獣ですよ! 王子、恐ろしい、魔獣に違いありません!」
ラシッドは中庭の中央、キラキラと輝く銀色を指差し、ヤニハを下がらせようと背で押してくる。
「魔獣?何を言ってるんだ、お前にはあれが魔獣に見えるのか?国に帰ったら医師に目を見て貰え!」
しかしヤニハはラシッドを押し退けて中庭に進んだ。
美しい緑や花の咲き乱れる、人工的ではなく、自然そのままの姿といった方がいい、荒れてはおらず、調和した空間がそこにはあった。
太陽の光を受けて輝く銀は、ヤニハの身を飾り立てる黄金よりも美しい。
「何をおっしゃって、あぁ、アフラーの神よ! 魔獣が王子に呪いをかけたのでしょうか!?」
「私は至って正気だぞ!獣、魔獣だなんてとんでもない! これは神の一種だろう!?」
自分を引き戻そうと腕を引っ張ってくるラシッドの必死な声がどこか遠くに聞こえる。
もっとあれの近くへ、手に触れたい、もっと間近で見たい、とヤニハは心が騒ぐ。
「何者です」
が、あと数歩というところで、ヤニハの首に剣が突きつけられた。
「これは驚いた。サーシャ・ザリウス聖女候補生。噂で聞いたよりも美しいな」
地面には転移魔術式が刻まれていたようだ。
一瞬で、ヤニハはどこか違う場所に出る。ラシッドが自分を呼ぶ声が後ろから聞こえるので、一緒に飛ばされたらしい。
目の前に現れた美女にヤニハは心当たりがあった。
聖王国宰相の姪、前聖騎士の長女にして序列一位の聖女候補生殿だろう。
「ハットゥシャの王子?」
「いかにも。私がヤニハ・アダ・シャザーンである」
「名乗ってどうするんです!」
悠然とヤニハが答えたので、美女は一寸眉をひそめてから、その装飾品や異国の顔立ちで察したのか、しかし疑うように問うてきた。その「一国の王子が何やってんだ」という顔が愛らしかったので、尊大に名乗ってみると、案の定ラシッドが悲鳴を上げる。全くもって忙しいやつである。
「さて、お互い正体がわかったので、私たちは親密になれるだろう。色々話をしたい。そうだな、まずは簡単に……あれは何だ?」
サーシャ・ザリウス聖女候補生は剣を引かない。
王子相手であってもこのまま突き刺すことに躊躇いがなさそうなので、その覚悟が出来るほど、あれは「重大」なものだとヤニハに知らせる。
「……」
「沈黙する女は美しい。特に、秘密を秘めた顔ならば尚更だ。それを暴くことが男の勤めだと私は思うよ」
このまま黙られていてもつまらない。
美しい聖女候補生の無表情以外を見てやろうと思って、ヤニハは髪を覆うベールに手を伸ばす。
この国の貴人は長い髪を美しい布で隠してしまうという。もったいないことだ。掴んで引こうとすると、怒りを込めた目で睨まれた。
「ははっ、怒るなよ。からかっただけだ。あの少女はなんだ?」
「少女?」
「私の従者はあれが獣に見えるというが、私には美しい……冗談のように美しい少女にしか見えない」
美しいのならばヤニハが幼いころから目にしている絹の星屑種も美しい。おおよそ、人間種が持てる美しさを遥かに凌駕した美の化身。天に輝くその身を人の形にしてもなお、人の心に羨望を抱かせる。
その星屑種を見慣れたヤニハの目にも、あの銀の……銀の髪を持つ少女は美しかった。中庭で、眠っているようであったから、近づきその眠る瞼に口付けて、いったいどんな色の瞳なのかと知りたかったのだが、それは叶わらなかった。
あの少女の瞳の色を知れなかったことに、ヤニハはがっかりしていた。この自分が、信じられないことだ。
「少女? なんのことでしょう。あれは、聖王国が保護している獣です。特殊な存在ですので、厳重に保護しているにすぎません」
聖女候補生殿はあれを獣だと言い通すつもりらしい。ラシッドの目にも獣とうつっているようだから、外見は獣なのかもしれない。
まぁ、自分の目には関係ないが。
「あれは女神の化身か?それとも……―――噂の魔王の娘の成れの果てか?」
ヤニハは剣を抜いた。
身に着ける宝飾品は只管華美な物しかない中、剣だけは実戦向きの、飾り気はないが強度と鋭さは一級品。
ギンッ、と、金属のぶつかり合う音がする。
「ヤニハ・アダ・シャザーン王子殿下は、確か第18王子殿下であらせられましたね」
「いや、19番目さ。だから、ここで君の騎士が殺してもさほど問題にはならない」
「おれの主人に無礼を働いたのだ。ここで殺されて当然だろう」
ヤニハは甲冑の騎士が首を落とそうと狙ってくる一撃一撃を両手で受けた。盾と剣を持った大男は、切るのではなく、潰す、という勢いでヤニハに剣を叩きつけてくる。
聖女候補生につくという、噂の騎士か。
「いやいや、恐れ入ったな! 聖女候補生に、優秀な騎士殿相手では分が悪い。その上政敵や都合の悪い人間は殺し慣れた悪名高きザリウス家の御令嬢だ! 私は明日の朝、心臓まひで死んでいるかもしれないぞ!」
「遊んでいる場合ですか! ヤニハ様!」
「あぁ、そうだな、逃げるとしよう!」
タン、とヤニハは地面を一度蹴った。
ハットゥシャの王族が使える魔術式。サンダルの底に組み込まれた魔術式が発動し、ヤニハとラシッドの姿がサーシャ・ザリウス達の前から消える。
*
自室に引き上げ、ヤニハは大きな声を上げて笑った。
「お、王子!?」
思わずラシッドが驚き「恐怖でおかしくなったのか」と慌てる中もずっと、笑い続ける。
「あれだ、あの少女だ。見つけた、あの少女が私の妻だ!」
「あぁ、神よ……! 王子がついにおかしくなりました!!」
「確定するんじゃないよ、ラシッド。私はいつだって正気だ!」
興奮と歓喜、そして湧き上がるこれまで感じた事のないほどの欲望をヤニハは身に宿した。あの少女、人の目には獣にしか見えないらしいあの少女こそ、隠された十三番目の聖女候補生だ。いや、だがしかし、もはやそんな事はどうでもいい!
「我がハットゥシャは代々、聖女候補生を側室に迎えている。19番目でも王子は王子、兄上たちの顔色を窺って怯えてばかりの私も、このお祭り騒ぎに参加したいと言ってみようじゃないか」
さっそくやるべきことを頭の中に思い浮かべる。
まずは邪魔な兄上達にはご退場願おう。十九番目だから、上にちょっと、いや、大分邪魔者が多いが、まぁ、その辺りは片手間にして、本題はもっと別だ。
「ヤニハ様の発言力が低かったことなどあるのですか」
主が心を決めたことだけは感じ取った従者は、頭を切り替え、いつもの調子を取り戻す。
「私を生んですぐ母上が生き埋めになってくれたお陰で、私は神の血を引いていることになっているからな。さて、ラシッド、私が聖女候補生に使える金はどのくらいある?」
「なりふり構わずというのであれば、私のお給金を引いた金額で――くらいありますね」
告げてきた金額はヤニハが記憶している通りの金額だ。
「さすがは金だけはある我が国だ。末席の王子にも街一つ一年養えるだけの金額を持たせてくれるとは有り難いね」
「何をおっしゃる。王からの支度金を元手に全てヤニハ様がご自身で稼がれた財産でしょう」
「些細なことだ。さて、よし、それじゃあその金で買ってきてくれ」
兄王子たちを始末するより大変なことだ。自分の全財産をなげうってでも成し遂げられるかどうかわからない。しかし、あの少女に求婚するとなれば必要な出費だし、自分ならまたすぐに同じだけの金は稼げる。今度は、前より半分以下の時間で。
「……何を買うんです?」
問いかけるラシッドに向かい、ヤニハ・アダ・シャザーンは見た者の心を蕩かすような魅力的な笑顔を向けた。
さながら、恋した青年が愛しい乙女に愛を囁くような声音で囁く。
「小国エルナ、ザークベルム家の借用書だよ」
Next
ヒヒイロカネが欲しい。