二人の女、母と、女
今夜も一人、自室の寝台で仰向けになって天井を眺めながら、エルジュベート・イブリーズは息子の事を考えた。
死んだと、ラザレフに聞かされた時からずっと、毎晩息子の事を考えるようになった。それまでは、ただ生きていてくれればいいと思うだけだったのに、死んでからその生涯を考えるようになったというのは、己は母として、はやり酷薄な女だったのだろう。
あれの人生とはなんだったのか。
悪名を轟かせ、悪逆非道ばかりを行った人生だった。
歴代聖女の常として、エルジュベートも魔王の器を生んだ。十月十日、徐々に大きくなる腹を抱えながら世界の平和を願って歌った。
「世界を侵す泥、地の国に蔓延る魔族、あぁ、嫌だ嫌だ。何が罪だ。何が悪だ。何よりも醜いのは人間種だというのに」
エルジュベートは世界の秘密を知っている。
人間種が生きる事がどういうことか、知っている。
だから魔王の器を生んで、逃がしたのだ。
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「ツキが周ってきやしたぜ、マダム。聖女候補生を捕まえやした」
いつもの朝、上機嫌に竜二郎が報告してくるのを、ファーティマ・ザリウスは微妙な心で聞いていた。
「これで、マダムが悲しいことをしなくて済やす。なぁに、全てこの竜二郎にお任せくだせぇ。きっとマダムがまたお嬢さんと楽しく暮らせるようにしてみせやすんで」
皺のある顔をさらにくしゃくしゃにして、竜二郎は笑う。普段自分より立場の弱い者に怒鳴り散らす傲慢な男だと知っているが、笑うと妙に愛嬌のある、どこか憎めない人たらしのようなところがあった。
「聖女候補生……どこかの国の支援を受けている者でしょう。迂闊に手を出してはお前の身が危ない。関わらずにおきなさい」
「いいえ、それがね。花街の遊女の子で、とくに貴族の後ろ盾もありやせん。生きるだけで金のかかる見世で生まれ、既にてめぇに金三百枚の借金と、母親の分も随分とあるようで」
聖女候補生であるのに、貴族が関わっていない?
それは奇妙なことだ、とファーティマはひっかかった。だが、竜二郎が自分と、娘のために何かしようとしてくれている。それが上手い事行きそうだと喜んでいる、その感情に水を差したくはなかった。
いや、ファーティマ・ザリウスにとって、夫であるグリジア・ザリウス公爵が死んでからの人生は、既にどうでも良くなっていた。
幼いころからの婚約者。公爵夫人となるべく育てられ、そのように生きてきたファーティマは、十八でグリジアザリウスに嫁いだ。両方の父母の望み通りの公爵夫人となり、家のために尽くした。結婚後子供が生まれるまでかかったから、それは彼女を苦しめたけれど、聖王国の大貴族。その当主の妻として責務を果たしてきたという自負が彼女にはあった。
砂の聖女が現れるまでは。
「儂の自由になる金で、とりあえずはその聖女候補生の小娘を工房見習いとして引き取りました。店主の方が渋るかと思いやしたがね、つい先日に花街で異端審問官が騒いだ所為で花街はすっかり寂しくなっちまって、現金が欲しくなったんでしょう」
あっさり手放した、と店主の目先のことしか考えられない頭を嗤う。
花街出身の聖女候補生。
そんな者がいただろうか?
ファーティマの娘、サーシャ・ザリウスは聖女候補生。それも、次の魔王の器を産む最有力候補だ。序列一位。かつて最も聖女の座に近いとされたミルカがその資格を失った今、もはやサーシャ・ザリウスが時代の聖女になるだろうと、そういう噂を聞いていた。
そう、噂だ。
ファーティマは自身の娘との交流が、もう随分とない。手紙のやり取りさえ行っておらず、サーシャの近況は噂話の好きな貴族婦人たちの方が良く知っている。
かつて貴族社会で薔薇姫と呼ばれた頃のファーティマであれば、女性たちのおしゃべりからどのような事でも知れたし、少し目を細めるだけで自分の望み通りの結果を得ることができた。
しかし、もう国が、世界が、貴族がどうなっても、ファーティマには興味がない。
知ろうと思えば、聖女候補生の詳細を知れる。だが、しない。興味がない。そんなことより、彼女はこの家で、この暖かい場所で、竜二郎が毎朝自分の為に食事を作ってくれるのを待っている方がよかった。
だから、ファーティマはふと竜二郎が危ないことをしようとしているのではないか、そのことを考える。
「……リュウジロウ」
止めなさい、というのは簡単だった。
だが、そう言えば竜二郎は気を悪くしないだろうか?
自分のためにしてくれていることと、ファーティマはわかっている。
夫に愛されなかった女。夫の愛人たちを悉く火刑台に送った女。そう罵られる彼女は、ちっぽけな使用人からの好意を失うことが怖かった。
暫く考え、結局その口は名を呼ぶことだけにとどまり、竜二郎は破顔する。名を呼んでもらうことを何よりも喜ぶ、無欲な男。
そうしていつも通りの朝食が終わり、ファーティマは自室のカーテンをしっかりと閉めて大きな鏡の前に向かい合う。
嫁ぐとき、大伯母様から頂いた姿見は縁を黄金と様々な宝石で飾られており、親族の中で一番ファーティマを可愛がっていた方は「何かあったらこの鏡を売って、一人でも生きて行くように」と、熱心にそんなことを言った。
初々しい花嫁だったファーティマは、長くからの婚約者であり幼馴染が自分に無体なことをするわけがないと、大伯母は自分が嫁ぐことが心配で仕方ないのだと笑ったものだ。
「鏡よ、鏡。この世で一番美しい女は誰?」
問うても、埒もない。
鏡は答える言葉も持たないが、磨き上げられた立派な鏡に映る女の顔は必死だった。
あの三人、砂の聖女や雷帝の娘、娼婦のメリダよりもファーティマの方がザリウス公爵夫人に相応しい、と囁けとその強い瞳は言っている。
「あぁ、憐れな女!女ですねぇ!アナタサマを心から慕うあのニホンジンがどれ程アナタサマを美しいと肯定し崇めても、あぁ!その心にその言葉の一欠けらも届いていない!届かせない!!!どこまでも受け取り拒否!居留守を使う図々しさ!不在通知くらい読みなさい!!あぁ!だというのに!アナタサマは欲してばかりいる!」
誰もいないはずの部屋に、やけに芝居がかった御大層な抑揚で男の声が響いた。
鏡の中に、ファーティマではない者が写っている。
死人のように顔の白く、瞳孔の開いた大男。女の紅のように、その唇には紫を引き、目元には隈のようにくっきりと黒が塗りたくられていた。
美しいと言えば、人間種には到底ありえぬ程の美しい貌だ。
だが、その目は自分以外の存在を圧倒的弱者、愚者、卑しき者と決め見下す色しか浮かんでいない。酷薄というよりは外道の類の男だと、見る者に不快感を与えることに尽力しているような懸命さがあった。
突然の変事を、ファーティマは驚かない。
寧ろ突き刺すように冷たい視線を鏡に向ける。
「わたくしに今度は何をさせようというのです。魔族」
「おやおや、これはこれは。わたくしとアナタサマの仲じゃアありませんか!そのように他人行儀な!ねぇ、公爵夫人」
ねっとりと魂に絡みつくような声音が耳を通れば、初心な小娘であれば愛撫されたように恍惚とした表情を浮かべたことだろう。だがファーティマはこの男の、魔族の性根を知っている。
「わたくしはアナタサマの願いを叶えてさしあげました。ですから今度はアナタサマ、そうと分り切っていることですので、えぇわたくし何も申しませんとも!」
何が楽しいのか、男の目は三日月のように細くなる。笑うと性根の賤しさがよくわかる。竜二郎とは真逆だ。いや、あのまっすぐな気質の清々しい男と、これでもかというほどに歪んだ男を比べる方が間違っているとフアーティマは思い直し、鏡の中から出てこれぬ魔族を笑った。
「お前のいう通り、望み通り、泥の濃度は増している。恥知らずの砂の聖女が奉げた祈りに尊さなどないと、えぇ、そのうちに誰もが思い知るのでしょう。そこまでやった、えぇ、やりました。それで?それだけでお前が済ませるわけがない」
「えぇ、まぁ、状況も変わりましたからね。ですが問題ありません!わたくしは一流のエンターテイナーでございます!急なアクシデントはむしろ好機!面白おかしく盛り立てて、きちんと立派に十分に!ミナミナサマに味わっていただけること請け合い!」
一人で悦に入り、口を裂けるほど大きく開けて笑う男は、突然ピタリ、と笑いを止め、これまでの道化のような表情を一変させてファーティマを見つめる。
「聖女モドキの小娘どもが、直に星巡りの為に王都を出るだろう。その出立の日、小娘どもの悲鳴を、貴様らの王の耳に届かせろ」
地の国の大貴族、アニドラ=アルファスの命令に契約者ファーティマ・ザリウスはゆっくりと頭を下げた。
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コレステロール値下がった!!!(/・ω・)/
12日から、サンバでサンタが始まるらしいので楽しみです(ソシャゲ)